耽美王ルートヴィヒ2世 1~夢想の王子

ルートヴィヒ2世

狂王と呼ばれた、謎多きバイエルン王

ルートヴィヒ2世は、世間から「狂王」と呼ばれていたほど、風変わりな人物でした。青年時代、美しかった王はワーグナーに傾倒し、副官の青年貴族に恋します。晩年は政務ができないほど精神に異常をきたし、王の座を退かされました。そして謎の死……。
つねに夢の世界に生き、ノイシュヴァンシュタイン城を建てたことで知られる王の生涯を紹介。

※タイトルを「耽美王」にした理由。「狂○」という漢字そのものが現在、好ましくないとされているためです。ご了承ください。

ファンタジーな少年時代

ヴィッテルスバッハ家の人々

ヴィッテルスバッハは南バイエルン地方に立つ城の名前でした。その家名はヨーロッパの王家のなかでも歴史があり、ハプスブルク家やカペー家(ブルボン王家の祖)より古いと言われます。
1806年、皇帝ナポレオンがバイエルンを王国と定め、マクシミリアン1世が即位します。その息子がルートヴィヒ1世です。

のちのバイエルン王ルートヴィヒ2世は1845年8月に誕生しました。
祖父はバイエルン王ルートヴィヒ1世、父はバイエルン王太子マクシミリアン、母はプロイセン王女マリア。マリアはホーエンツォレルン家の出で、先祖にはフリードリヒ大王がいます。
父マクシミリアンは内向的で碩学、母マリアは女性の登山を流行させたほど活動的な女性でした。夫婦に共通点はほとんどなく、あるのは「平穏を好む性格」でした。

ルートヴィヒが生まれて3年後、弟オットーが生まれます。バイエルン王家はこれで安泰だ、と祖父であるルートヴィヒ1世は安堵したのですが、のちにふたりの王子が後継ぎを残すことはありませんでした。

ルートヴィヒ1世

祖父ルートヴィヒ1世は臣下へ心優しく、現代芸術の庇護者でもありました。首都ミュンヘンの街に壮大な建築物をいくつも建て、アテネとローマの古典様式を模倣します。王宮、大聖堂、大学、劇場、凱旋門、皇帝像、ゴシック様式の家……等、ミュンヘンの街はまるでヨーロッパの模倣芸術空間でした。
建築工事へ情熱をかたむける反面、王は生真面目な節約家で、普段は擦り切れたフロックコートを着ていたほどです。これだけの建物を作りながら、王国の財政が危機的状況に陥ることはありませんでした。

そんな実直なルートヴィヒ1世でしたが、60歳をすぎたころ、ある女性ダンサーに熱を上げます。ローラ・モンテスと呼ばれたそのスペイン美女、実はイギリス人の詐欺師でした。美貌を利用し、数々の貴公子や富豪を渡り歩いていたのです。
王はモンテス嬢に請われるままに散財したため、王国の財政を圧迫しました。おまけにモンテスは革新政治思想にかぶれ(王の恩情をあれだけ受けたにもかかわらず)、憤ったバイエルン国民は暴動を起こします。それはあわや革命になりかけ、折れた王はモンテスの追放令に署名しました。
退位し、王位を息子のマクシミリアンへ譲ります。

我慢を知らない王子

祖父に似たと言われるルートヴィヒ王子は、幼い時分からどこか夢見がちな少年でした。
9歳のとき、養育係だった大好きなマイルハウス嬢から引き離されます。父も母も政務と公務で忙しく、母のように慕っていたマイルハウス嬢との別れは、ルートヴィヒの心に陰を落とします。

代わりに教育係としてやってきたのは、フランス人のド・ラ・ローザ伯爵でした。軍人で少将だった伯爵の教育は厳しく、精力に満ち溢れる男性的な王子にしようとします。
短い睡眠、粗末な食事、長い勉強時間。
同時に、伯爵は無気力な王子へ、王者としての自覚を促す教育をします。しかし、規律だらけのスパルタ式の教育は、夢見がちな王子をファンタジー世界へと逃避させてしまいます。

王子としての自覚が加わり、従順と我慢ができないルートヴィヒ王子は、11歳のときいっしょに遊んでいた弟オットーの首を、突然、締めてしまいます。危うく養育係が引き離し、事なきを得たものの、叱責された王子は言います。「オットーは僕の家来」なのだと。

マイルハウス嬢が養育係をしていた頃、ルートヴィヒはいっしょに買い物にでかけたのですが、青い小銭入れをくすねてしまいます。マイルハウス嬢は「盗みは良くない」と諭そうとしたのですが、幼いルートヴィヒは言いました。
「僕はいつか王になる。家来の物は僕の物だ」。

教育係が我慢することを教えようとしても、のちの王として周囲が持ち上げてしまうため、少年王子は我慢しようとしません。こうして、おのれを律することが苦手なルートヴィヒの気質が、助長されてしまうのでした。

そんなルートヴィヒ王子は、美しいアルプスの自然と乗馬と山登りが大好きな少年でした。母譲りの活動的な部分がある一面、薄暗い自室でたびたび夢想に耽ります。
父マクシミリアンは息子たちに興味がなかったようで、臣下が王子との散歩をすすめるも、即座に却下します。「どう接していいのかわからない」から、と。

そんな王子と父でしたが、臣下が「おひとりで退屈なのでは?」とルートヴィヒを気遣うも、「たくさん考えることがあって、退屈なぞしない。面白いよ」と、答えるのでした。

ルートヴィヒは少年時代から芸術に傾倒し、フランス語が得意でした。読書が好きで、とくに恋愛小説と歴史物を愛読しました。それが夢想世界を広げ、王子の意識は現実とファンタジーのはざまへとのめりこんでいきます。

耽美世界へ足を踏み入れた青年時代

ワーグナーとの運命の出会い

ルートヴィヒは幼いとき、マイルハウス嬢から「ローエングリン」のオペラの話を聞きました。ルートヴィヒは古いゲルマン伝説『ニーベルンゲンの叙事詩』がとくに好きでした。
数年後、訪れた公爵の家で、「未来の芸術作品」を見つけ、ワーグナーに興味を持ちます。
13歳のときクリスマスプレゼントとして、ワーグナーの「オペラとドラマ」なる芸術論をもらったルートヴィヒは、難解なそれを愛読しました。

そして1861年2月、16歳のとき、父の許可を得てミュンヘンのオペラ座のロイヤルボックスで、「ローエングリン」を鑑賞します。
それは衝撃そのもので、ルートヴィヒの全身が震えるほど感激しました。

夢想していたおのれの世界を凌駕する、ワーグナーのオペラ世界!

父王マクシミリアンが古城の跡に建てた、ホーエンシュバンガウの城。「白鳥の高原」の名を持つ地には伝説があり、白鳥が曳く小舟に乗って現れる聖杯の騎士ローエングリンの城があったと言われていました。
まるでスコットランドの古城を思わせる城の中は、ゲルマン伝説の一大叙事詩の世界が描かれており、壁画、絵画、彫刻、家具、照明全てが絵巻物のようなファンタジーそのものでした。
野獣、騎士、妖精、小人、乙女、英雄……。現実にはない幻想的な世界。

そんな城で幼少期を過ごしたルートヴィヒは、いつも空想にふけり、ファンタジーを夢想していました。しかしワーグナーのオペラは、そんなふわふわした空想をはるかに超越していたのです。

ルートヴィヒはワーグナーこうして出会い、彼の芸術世界に傾倒していきます。精神の師と仰ぎ、異常なまでにワーグナーに執着するようになりました。
すぐさま父王へ「ローエングリン」の再演を請い、6月にそれは叶えられました。それほど、ルートヴィヒはのめりこんでいたのです。

オットー・フォン・ビスマルク

鉄血宰相ビスマルクの評価

17歳の誕生日、ルートヴィヒはヴィッテステルバッハ家の伝統である、黒いビロード服の騎士団姿で、民衆たちの前に現れます。美しい青年王にミュンヘンの人々は熱狂します。

そのころから日記には、醜い人間を毛嫌いする傾向が現れます。目に入るのが耐えられない、と不細工な貴族に騎士団を免職させようとしましたが、周囲に反対され諦めました。

芝居にはさらに熱を上げ、「タンホイザー」のオペラ観賞では、発作が起きたかのように震え続けます。こうして、ワーグナーへの傾倒が熱狂的になるのでした。
その反面、政治や外交にはまったく無関心で、ルートヴィヒはのらりくらりとうまく逃げていました。それを咎める者はいませんでした。

王太子としての公式行事は退屈、の一言。狩りをするために銃火器の扱いを倣うも、まったく身に入らず「大嫌い」に終わっただけ。そして父へたまに口を開けば、ワーグナーのことばっかり。
ワーグナーの長編詩『ニーベルングの指輪』を読んでは、現実から逃避しました。

ある時、プロイセン宰相ビスマルクが、ルートヴィヒと面会する機会がありました。彼らの生涯、一度きりの会合でしたが、ビスマルクは青年ルートヴィヒをこう評価します。
「熱しやすいが気が散りやすく、頭は良いが夢想家。機敏さと才能があり、自分の未来を明確に認識している」と。
のちにルートヴィヒが亡くなった十年後、「政務については明哲な君主であった」と賛辞しました。

王太子の恋人

18歳、成人したルートヴィヒはミュンヘンの中心部に移り住みます。政務にはまったく興味を示さず、晩餐会等公式の行事では、抜け出すことばかり考えていました。ひまさえあれば、山や森へ出かけます。
それまで友人がいなかったルートヴィヒは、初めての友情に夢中――いや興奮します。
ガクルと呼ばれた青年は11歳年上の親類で、マクシミリアン公爵の息子でした。しかし熱い友情はすぐに冷めてしまいます。

つぎに夢中になった友人は、王太子に使える副官ポール・ド・タクシス少尉でした。古い貴族の家柄であるポールは眉目秀麗の20歳で、極めて率直な人物と評されていました。
ひと目でタクシスを気に入ったルートヴィヒ。つねに側近く置いて、儀礼を無視した付き合いをします。美しい自然のなかの城で過ごすうち、ルートヴィヒはタクシスへ友情以上のものを求めるようになります。

ふたりはしばしば手紙を交わします。ルートヴィヒからタクシスへの手紙は残っていません。のちに醜聞を恐れたタクシス家が、ルートヴィヒ2世からの手紙を焼却したためでした。
残されたタクシスからルートヴィヒへの手紙は、どれも深い愛情に満ちたものでした。

ポール・ド・タクシス

1863年のタクシスの手紙、その1。
『宮殿のまえを通って、王子の居室の窓に明かりが見えたとき、私の胸はときめきました。でも、いまはおさまりました。静かに眠り、夢で王子にお会いします』

その2。要約。
『お手紙はうれしいのですが、あまりにもご要求が多すぎませんか。事を急いでしまわれますと、私たちの計画がだめになってしまいます。あなたのお望みを叶えてしまうと、私の現在の職務が簡単に失われてしまいます。軍隊の経験がないにもかかわらず、いまの地位に任命されたことは大変な光栄です。
十年、二十年とはいいません。けれども希望を捨てないでください。失望のあまり、ご自身の行動で、他人の生活をだめにしてはいけないのです。
私に愛情をお持ちでしたら、くれぐれもご自愛ください。そして自然やご自分のなかに閉じこもらず、もう一度言いますが、どうか希望を捨てないでください。
神が望まれれば、またいつか、あなたのお側でお仕えすることができるでしょう。あのころが懐かしいです。そしてまた、あれやこれやとお悩みになる、あなたをおなだめしたくなります。』

その3。要約。
『どうやら私の若いあわて者君も、少しは気を取り直し、未来へ向けて歩き出したようで、大変うれしいです。
本当に本当にあなたのことを思い、神に祈るとき、あなたの信頼にふさわしくあるよう、願っております。
私の狭い部屋でなく、あなたのそばへ飛んでいき、かつてのように愛情に満ちた真摯な会話を交わすことができれば、どんなに良いか……』

その4。要約。
『あなたの信頼を得たばかりだというのに、もう私を失脚させようとする人ばかり。あなたへへつらう人の意見に耳を貸さないようにしてください。
それより、周囲の人々へご自身の意見をお持ちになってください。もし私への醜聞が根拠あるものと判断されたときは、いつでも私をお見限りくださってもかまいません。
しかし私がこうして率直に申し上げられるのも、私の良心に恥じることなど何もないからだと、お分かりいただけるはずです。』

その5。要約。
『待ち焦がれていたお手紙、本当にありがとう。昨日着きました。駅でお別れのあいさつをしているあいだ、涙があふれそうになりました。あれからあなたのことばかり考えております。
あなたが私のことを考えてくださっているのか、いつも気になります。あなたがお幸せで健康でご機嫌で、周囲の方々と問題なくやっておられるのでしたら、私も幸せになります。
あなたが何ごとにおいても、ご自分の立場を大切にされることを考えていらっしゃると、確信しております。
いただいた鎖はいつも身につけております。私たちの友情の礎である信仰の象徴をそこに見る思いです。
あなたの真摯にして忠実なる友』

父王の早すぎる死

1863年デンマーク王フレデリック7世が急逝したことで、ふたつの公国の統治をめぐって、ヨーロッパ諸国は緊張状態になります。相続の関係で、小さな公国にふたりの公爵が存在してしまい、放棄するはずの王家がそれを拒否しました。
統治権が複雑化した公国をめぐって、プロイセンのビスマルクが虎視眈々と狙いを定め、オーストリアと連合を組み、デンマーク憲法の廃案を要求します。拒否すれば、ホルシュタインを占拠すると。
それに驚き、反発するゲルマン連合。プロイセンは公国を攻撃し、デンマーク軍は敗北してしまいます。結局、ホルシュタインはプロイセンとオーストリアに分割統治されることになりました。

バイエルン王マクシミリアン2世は、イタリアで静養していましたが、急遽、政務にもどります。
王太子ルートヴィヒは、その間、まったく政務をしようとしませんでした。外交問題は退屈そのもので、父もそんな息子に期待できず、相談もしませんでした。
マクシミリアン2世は寒さでリューマチが悪化し、3月、逝去しました。
ルートヴィヒが王になったのです。

母マリアは日記にこう書き残しています。

『マックス(マクシミリアン)は、早く死にすぎた……』


1.夢想の王子
2.音楽家ワーグナー
3.悪夢の婚約
4.不可解な死