フリードリヒ大王とは?
宗教の自由化、新聞の発行(言論の自由)、重工業の発展、ジャガイモ栽培の普及といった啓蒙君主として知られる反面、オーストリアへ強行な侵略をしたことで極悪非道な王としての一面を持つ。
芸術的な才能を発揮し、フルートの演奏と作曲、作詞、文化人との交流を楽しんだ。しかしひどい女性嫌いのため、妻との間に子供はなかった。
老フリッツと呼ばれ国民から親しまれるも、毒舌家で晩年は友人もなく孤独だったという。さまざまな顔を持つフリードリヒ大王。人によって好き嫌いが分かれる人物のようで、書籍によってその評価はさまざまです。
18世紀のプロイセン王、フリードリヒ二世。
彼はどんな人物でどのような功罪を残したのかを、さまざまな文献から引用しました。フリードリヒ大王の真実の姿とは?
※フリードリッヒ、フリートリヒ、フリードリヒ、フリートリッヒ……等、訳文によって名前が異なりますが、全て同一人物です。
※以前、NAVERまとめにて公開していた記事を、サイト用に修正して再公開しました。
主な参考文献とサイト
✔ 図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
✔ 戦闘技術の歴史3 近世編
✔ イギリスヴィクトリア朝 フランス革命 欧米(ヨーロッパ・アメリカ・ドイツ) 世界史資料サイト
❡ホーエンツォレルン家とプロイセン
中世時代、十字軍がプロイセンの地を支配し、修道会国家が統治する。その後、ポーランドの宗主権下に入る。最後の修道総長がホーエンツォレルン家出身のヨアヒム一世であり、最初のプロイセン公として統治した。
元々ホーエンツォレルン家はブランデンブルクの領主であり、プロイセンの地とは無縁だった。ブランデンブルクとプロイセンの間にはポーランドがあったことで、飛び地の領地を統治することとなる。
❡ フリードリヒ大王の先祖
ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム
1620年~1688年。プロイセン王国の基礎を築いた人物。
飛び地だった領地をまとめるため、強い常備軍を作ることに心血を注ぐ。
宗主国をポーランドからスウェーデンへ変えたのち、当時、最強とうたわたれたスウェーデン軍を破り独立。プロイセンにおける絶対王政を確立した。
絶対服従と、カトリック等他宗教への寛容。そして君主自ら指揮官となり、戦場を駆け巡るプロイセン軍の特徴を後の代(フリードリヒ大王ら)が受け継ぐことになる。
プロイセン王フリードリヒ一世(フリードリヒ三世)
1657年~1713年。初代プロイセン王。大公国だったプロイセンを王国にした人物。
父である選帝侯とは正反対の人物で、フランス宮廷の華美な生活に憧れた。散財もひどく、亡くなった時、膨大な借金が残っていたほど。
名王とは言いがたいが、スペイン王位継承戦争へ派兵した見返りに、神聖ローマ帝国皇帝から王号を賜ることに成功したのが大きな功績である。プロイセンが王国となったことで、飛び地を統治していた領主を支配することができた。
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世
1688年~1740年。二代目プロイセン王。フリードリヒ大王の父。
派手好きな浪費家だった父王とは正反対で、質実と勤勉を何よりも重んじた。まったく娯楽に興味が無い王のゆいいつの贅沢が、ポツダムの巨人軍だった。
軍事にも力を置き、およそ4万兵だった軍隊を、その倍に増やしたほどの軍人王。
しかしこれといった戦争に参加せず、借金だらけだった国を持ち直した、内省王でもあった。迫害されたユグノー(新教徒)を大勢移住させ、国を豊かにした。
芸術家肌だった息子のフリードリヒを、軍人として非常に厳しく教育した。親子仲はすこぶる悪かった。
ポツダムの巨人軍(巨人連隊)
正式名称はプロイセン第六歩兵連隊。
身長172センチ以上ないと入隊できなかった。188センチを超えると一人あたりおよそ600万円ほど支出した。
216センチのスコットランド人には、8000万円ほど(交通費込み)も支出したという。巨人軍には、家族が住めるように家や土地も手当した。
厳しい訓練と規律を課せられるものの、王が大切にするあまり、一度も戦わなかった。あくまでも見栄えが重要で、軍人王のコレクションにすぎず、長身の青年たちを国外からも身分問わず徴募した。
巨人軍の肖像画を寝室に飾った王は、起床時、それをながめるのが日課だったという。
参考書籍
✔ 図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
✔ ドイツ参謀本部-その栄光と終焉 (祥伝社新書168)
✔ 傭兵の二千年史 (講談社現代新書)