❡ 王太子時代
少年フリードリヒと父王
姉と大変仲がよく、母である王妃ゾフィーが文学や芸術をこよなく愛していたのもあり、フリードリヒも傾倒する。
しかし、父王は娯楽は大罪と信じていたため、幼少から軍事教育を叩き込まれる。
父王の暴力はすさまじく、フリードリヒだけでなく姉のヴィルヘルミーネにも及んだ。もちろん臣下にも容赦がなかったため、国民の人気はなかった。
厳しい訓練から逃避するようにフルート演奏や文学にのめり込むフリードリヒに、父は容赦なく暴力を振るった。
こっそり買った本を捨てられ、演奏も禁止された。
16歳のとき、理不尽な理由で怒り狂った父王に、カーテンの紐で絞殺されかけたことがあった。
「私がおまえだったら自殺するだろうな」と言われるほど、父王に憎しみをぶつけられたこともある。
少年フリードリヒと慰めあった姉ヴィルヘルミーネは、彼の一番の理解者であった。
1730年 親友カッテの処刑
ゾフィー王妃の父がイギリス国王ウィリアム一世で、母ゾフィーはその縁談に乗り気だったが、オーストリア側は快く思っていなかったのである。
あとは逃亡しかない、と思いつめたフリードリヒは、イギリスへ亡命を謀る。
しかし逃亡直前、計画が発覚してしまい、軍法会議にかけられた王太子は幽閉され、親友で従者のカッテ少尉は処刑された。
右上の窓から乗り出して叫んでいるのが、フリードリヒ。
「カッテ、私を許してくれ!」
1730年 結婚
ラインスベルク宮で王位継承者として統治を学び、空いた時間は文学や哲学に没頭した。友人らをサロンに招いて、社交にも精力的だった。
執筆では「アンチ・マキャヴェリ」が有名。野心的な専制君主ではなく、これからの時代は道徳に基づいた啓蒙的な君主が必要だと説く。
王太子妃エリーザベト・クリスティーネには、終生、関心を持っていなかったため、跡継ぎはできなかった。
❡ 新王時代
1740年 王位継承
食料の間接税の廃止、拷問の廃止、宗教の寛容、前王が禁止した学問や芸術の復興、検閲の廃止……等。
当初は啓蒙的な若き王として、ヨーロッパ中が期待するも、カール六世の死によって王はオーストリア領シュレージエンの征服を目論む。
シュレージエン征服
女性を侮蔑していたフリードリヒは、国が弱体化した絶好の機会とばかりに1740年、シュレージエンを占領する。
だが、その目論見は甘かった。フリードリヒはその後、何年にもわたって、オーストリアに苦しめられることになる。
啓蒙的君主だと思われたフリードリヒは、なぜ、シュレージエンを侵略したのか。
国境の肥沃な大地を領地にすれば、我が国が潤うのだから、戦争は必要悪だ、と判断したのかもしれない。
父王とは違い、張子の虎だった軍隊を自分は活かすことができるのだ、という強い自負があったとも考えられる。
新教徒(プロテスタント)が多かったシュレージエンは、同じ宗派であるプロイセンを歓迎する者が多かった。
しかし領地を奪われたオーストリアが許すはずもなく、戦争は泥沼化する。
「私が戦争を好むのは、名声を得るためだ。……私の青春、情熱の炎、名声への渇望、それに、好奇心。新聞に私の名前がたっぷりと載り、後代の歴史書に私の名がしるされる。そう思うと、もう、戦争する誘惑に耐えられなくなるのだ。」
引用:フリードリヒ大王-啓蒙君主のペンと剣-中公新書
1741年ジョルダン宛ての手紙。
本気かおのれへの皮肉かは不明だが、どこか自棄めいた毒舌家らしい一文。
プロイセン国民が知ったら、そんなことで戦争するなと怒りそうな内容でもある(苦笑)
シュレージエン戦後
1745年ドレステンの和議で、プロイセンは100万ターレの賠償金と正式にシュレージエンの領地を得る代わりに、マリア・テレジアの夫フランツ皇帝の継承権を承諾することで、シュレージエン戦争は終結した。
シュレージエン戦争の終わりごろから、大王は体調がすぐれず、後継者を立てたほど。しかし弟のアウグストは凡庸だった。(しかし彼の息子がいなかったら、その後の跡継ぎがいなかった)
子供のころから体が丈夫でなかった大王は、病に倒れるたび、死を覚悟し、父より早逝するのではないか、といわれていたほどだった。
戦争終結後、内省に力を入れ、サンスーシー宮を建設し、芸術や社交を楽しんだ。客にはヴォルテールもいた。
サロンに招くのは男性だけで、女人禁制だった。
そんな平和も十年ほどしか続かず、ふたたび戦場の人となる。
参考書籍
✔ 図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
✔ ドイツ参謀本部-その栄光と終焉 (祥伝社新書168)
✔ 傭兵の二千年史 (講談社現代新書)