陸軍中野学校~存在を秘匿された諜報要員養成機関

陸軍中野学校 映画ナタリーより引用
陸軍中野学校とは?

日本で唯一の諜報要員を養成していた陸軍中野学校。
1937年(昭和12年)12月に「敵国からの秘密戦攻撃に対して消極的な防衛対策だけでは軍機を保護できない。そのためには諜報、宣伝、防諜の専門要員を養成する機関が必要」と、陸軍省内で検討され、1938年1月の勅令によって「後方勤務要員養成所」ができたのが始まり。
7月に東京・九段牛ヶ渕にあった愛国婦人会本部の別館に開所され、陸軍省分室の看板を掲げていた。当初の入学生は19名。養成員は「秘密戦士」と呼ばれていた。
学生は幅広く経歴はさまざまだったが(新兵教育を受けた軍学校卒業生、予備士官学校卒業生等)、共通していたのは、社会経験を持った20歳すぎの少尉に任官した帝国陸軍軍人だった。
翌年、中野の電信隊跡地に養成所は移転した。教育期間はおよそ7ヶ月。

当初は「陸軍省通信研究所」「当部第三十三部隊」の秘匿名で存在し、1940年8月に「中野陸軍学校」の名称が付いた。
学生区分は甲乙丙から乙(陸士出身)、丙(予備士出身)、戊(教導学校出身)と区分され、太平洋戦争後は丙(陸軍予備士官学校出身)、戊(陸軍教導学校出身)のみになった。

最後の卒業生は1945年7月の7戊(第7期生)。8戊はそのわずか数日後に終戦を迎えた。

諜報要員の教育過程(カリキュラム)

●一般教養基礎
国体学
思想学
統計学
心理学
戦争論
兵器学
交通学
築城学
気象学
航空学
海事学
薬物学
外国事情
ソ連軍事攻略・兵要地誌
ドイツ
イタリア
英国
米国
フランス
中国軍事攻略・兵要地誌

●語学
英語
ロシア語
支那語
専門学科
諜報勤務
謀略勤務
宣伝勤務
経済謀略
秘密通信法
防諜技術
秘密兵器
暗号解説

●実科
秘密通信
写真術
変装術
開箋術
開錠術

●術科
剣道
合気道

●特別講座・講義
情報勤務
満州事情
ポーランド事情
沿バルト三国事情
トルコ事情
支那事情
フランス事情
回教事情
諜報勤務
忍法
犯罪捜査
法医学
陸軍通信学校
陸軍自動車学校
陸軍航空学校

卒業生たちは諜報員としてさまざまな国へ赴任した。
支那、コロンビア、満州、アフガニスタン、インド、北方、ソ連、インドネシア、蒙古、ドイツ等。
その他、中野学校や兵務局へ赴任した者がいた。

実地訓練一例

その1
ある日、所長に呼ばれた学生たち。予定変更で講義が中止になったから遊んでこい、という。喜んだ学生たちは午前9時に学校を出て、午後3時に帰ってきた。
そのまま講堂に集められ、所長は言った。「自由時間だった半日で自分は一体何をしてきたのか、その行動経過を全部書け」
書き終えると今度は一人ずつ呼ばれ、そのレポートをもとに質疑された。
「この間が抜けているのはどういうわけなのだ」
「デパートに行きました」
「なに売り場だ」
「ネクタイ売り場です」
「どんな女がいた」
学生は答えられなかった。細かい部分が半分も思い出せなかったのだ。
諜報技術に求められるのは情報整理能力と記憶力。学生たちは正確な情報をしっかり把握する重要さを学び、優秀な学生をふるいにかけるテストでもあった。

その2
古臭いと思われる忍術授業だったが、それこそがスパイ養成に欠かせない技術であり、甲賀流忍術を現代戦に活かした。
精神教育と体術を始め、金庫の開け方、手錠の外し方、殺人法、泥棒など。上達すれば針金一本でどんな精巧な錠前でも開錠できた。
殺人法はいわゆる暗殺で、密かに瞬時かつ確実に完遂するため毒物使用が中心となる。卒業生たちはしばしば青酸カリを使ったという。
実地訓練では多摩川で潜水訓練を学んだ。川岸に生えている葦を口に加えて反対側を水面に出し、潜行したまま渡河した。忍法水遁の術である。
ある時は服役中のスリの名人を招いて実演をさせた。ターゲットから「物」を気づかずに盗むテクニックを学んだ。

術科ではスパイ専門教育の技術を学んだ。
万年筆やライターに仕込まれた超小型カメラの操作、相手に知られずテープレコーダを装着しての盗聴、暗号文作成と解読、防諜的配慮が施された機密文書の解読、細菌戦の基礎的知識とその扱い方、毒薬、毒ガスの使い方、爆発物(ダイナマイト、小型爆弾、手榴弾など)を駆使して敵鉄道や橋梁の破壊、送電線の切断など。

変装術も重視され、メガネ、ホクロ、ヒゲ、付けまつ毛などで人相を変え、口に綿を含み声色を変えた。ルンペン(ホームレス)、車夫、官吏、芸術家、銀行家とさまざなま職業に変装し、衣服だけでなくそのための専門知識を学んだ。

その他にスパイ養成として国体学も重要視されていた。「己を捨てる精神、民族や国に尽くす精神」こそ、諜報員たる者に欠かせなかったのである。学生らは古事記、神皇正統記、講孟余話(吉田松陰)を学んだ。

秋草所長いわく「円満なる常識」と常に口にしていたという。豊富な知識を得てどんな身分にも变化し、だれとの対話でもすぐに応じられるようになるのが大切だ、と。

1944年(昭和19年)9月、静岡県に二俣分校が開校。おもにゲリラ戦士を育成した。学生らは一人になっても徹底抗戦して任務を完遂するよう教育された。小野田寛郎は二俣分校の一期生だった。1974年に帰国するまで、フィリピンのルバング島で「残置諜者」任務を遂行していた。

陸軍中野学校組織図

校長 幹事
 本部–校務一般および教務、事務
 教育部–教育は編制以外に陸軍省、参謀本部、兵器行政本部、その他外部教育機関の兼任教務
 研究部–文章的資料の収集、評価業務
 学生部–職員は訓練および術科教育を担当
 実験隊–秘密戦兵器の研究、実験、学生への実科の教育、登戸研究所の試作兵器の実験を担当。
 二俣分校–遊撃戦幹部要員の教育

機能していなかった諜報機関

陸軍中野学校の卒業生は2131名。戦死者289名。行方不明者318名。
一部の卒業生は偽名や変名で特殊任務についたまま終戦をむかえ、生死の確認ができない者や、そのまま戸籍を復活させずに別人として生きる者がいたという。

初代校長であった秋草少将は、満州ハルピン特務機関任務時に終戦を迎える。ソ連軍に逮捕され1949年3月監獄で病死した。
秋草は中野学校の所長を辞めたあと、ヨーロッパで「星機関」として星野一郎名義で諜報活動をした。すでに秋草俊のパスポートでは海外渡航できず、香港で星野一郎のパスポートを作り、インド洋経由でマルセイユに到着した。そこからさらにドイツのベルリンへ向かった。諜報活動のため実際のところは何を遂行していたのかは不明。
だが、ベルリンから打電された暗号は全て解読されていたのではないか、という。当時、日本が使っていた暗号機は海軍が開発した「九一式改型A式暗号機」(通称レッド)、陸軍は「九七式欧文印字機」(通称パープル)。そのころすでにイギリスのチューリングがドイツ暗号機「エニグマ」を解読していた。

星機関が解散となったため、帰国したわずか十日後に秋草は満州へ向かった。1942年虎頭村にある第四国教境守備隊長に任ぜられる。ソ連との国境が近く、白系ロシア人の破壊工作部隊教育とともにソ連軍の諜報活動をした。
その白系露人事務局の事務員として働いていたロシア人のなかに、二重スパイをしていた者がいたため、守備隊の情報はソ連軍に筒抜けだったという。ソ連軍が満州に侵攻した直後、二重スパイの青年が正体を現したが、最後まで秋草少将は気が付かなかった……。

参考文献

日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実

その他オススメ

ジョーカー・ゲーム(角川文庫)
↑「星機関」をモチーフにしたと思われるフィクションスパイ小説。

参謀本部の密使 かくてロシアは敗れたり
↑日露戦争前後に特務機関、明石元二郎大佐の活躍を書いたスパイ小説。ロシア帝国が舞台。ゴールデンカムイの鶴見中尉のモデルとなった作品? 絶版なのが残念……。数年前、たまたまブックオフで気になって100円で入手した本。久々の大当たりで嬉しかったw