耽美王ルートヴィヒ2世 4~不可解な死

勝利と敗北

普仏戦争はプロイセンの圧倒的勝利で終わりました。ドイツの3割はバイエルン軍が占めており、大勝利に国中が歓喜します。しかし、ルートヴィヒだけは沈鬱なまま、バイエルン国の行く末を案じていました。
ドイツ統一を承服できないといわんばかりに、戦勝旗の掲揚はバイエルン国旗のみにすべしと命じます。ドイツ国旗を掲げない状況を耳にしたビスマルクは「これは挑発だ」と受け取りました。

ドイツ統一についてプロイセン側が交渉を持ちかけるものの、ルートヴィヒはのらりくらりと交わします。
このままではビスマルクを怒らせてしまう――そう焦ったブライ首相は、なんとかバイエルン代表団をフランスのベルサイユへ送り出します。王の代理を務めたのは、王弟のオットーでした。

そのころすでにオットーには精神的な病状が現れており、会議の場でまともに交渉できないほどでした。顔をしかめ、震え、犬のように吠え、下品な言葉を叫び、周囲を驚かせます。
その話を聞いたルートヴィヒは、オットーの病気が治るまで退位はできないと悟りました。
一説によると、王の代理として普仏戦争の前線で戦った後遺症ではないか、といわれています。

ベルサイユでの交渉で、バイエルンは鉄道、郵政、外交、軍隊、法制、財政をプロイセンから認められたものの、独立とはほど遠い結果でした。署名をしながら、「古きバイエルンの終わりだ……」と、ブライ首相は嘆きます。

ビスマルクはドイツを帝国にし、プロイセン王を皇帝にするのが目的でしたが、ルートヴィヒは同権の連合国を望みます。
そこでビスマルクは策を練って、ルートヴィヒの親しい側近である主馬寮長官ホルンシュタイン伯爵を極秘に呼び寄せます。伯は王の信任厚く魅力的なものの、山師風の男で、ワーグナーやゾフィへの使いをしていました。

伯に目をつけたビスマルクは、計画を託します。それは、バイエルン王からプロイセン皇帝への書簡の草稿で、安定したドイツ統一のためにも首長は一人が良いのでは、といった内容でした。
表向きはあくまでも、バイエルン王からの提案にすることで、穏便に統一をすませようという狙いがあったのです。もし、ルートヴィヒが提案の書簡を拒否すれば、プロイセンが軍事的介入をし、クーデターで廃位されていたかもしれません。
バイエルン王が清書した書簡を携えたホルンシュタイン伯は、後日、多額の賄賂をビスマルクから受け取ったと言われます。

1871年1月老王ウィルヘルム1世がドイツ帝国皇帝となり、5月、バイエルン議会は帝国参加が可決されました。票差はわずか2票でした。

普仏戦争の当時、落馬した王はたびたび頭痛を訴えるようになり、運動せず、美食のため肥満します。アドニスのように美しく痩身だった王でしたが、昔の面影がないほど醜く変貌しました。
そしてプロイセンをひどく嫌うようになります。カトリックの国が新教徒の国に支配されるのは、屈辱そのものでした。

夜の王、そして死

白鳥の城とホルニヒ

普仏戦争のあいだにも、築城は進み、完成したノイシュヴァンシュタイン城は、美しく見事でした。
山頂の守護者のごとく君臨するその城は、内部も非常に芸術的で、ルートヴィヒ2世の趣向を至るところへ注ぎ込んでいます。
とくに寝室にはこだわり、ゴシック風の室内とミラノ大聖堂を思わせる天蓋の彫刻が目を引きます。彫刻の完成は4年を費やしました。

美食家である王は3階下の厨房と食堂をつなぐ昇降機を作ります。冷めないうちに料理をはこばせるためで、当時、非常に画期的な装置でした。
ほかにも、呼び出しベルは電池式、暖炉熱を利用した肉の自動回転串、給湯設備という最新鋭の技術をふんだんに取り入れました。

ノイシュヴァンシュタイン城では王のためだけの劇が上演され、幻想世界からルートヴィヒは出てこようとしません。事情を知らない女優たちが王を誘惑するも、まったく相手にされず、嫌悪感のまなざしだけで終わりました。

病気や歯痛などの不調を理由にし、王は公務や政務にほとんど顔を見せなくなりました。昼に眠り、夜に活動をします。ふらりと山岳地帯を訪れては、村人を驚かせました。
そんな王を人々は「夜の王」あるいは「アルプス王」と揶揄します。

夢の世界に閉じこもる王を世話するのは、リヒャルト・ホルニヒでした。1867年から1883年まで仕え、つねに王の傍らにいました。
遠乗りが好きな王のために、マントの毛皮を整え、弁当の支度をし、森の中継点の準備をするために、あらかじめルートを予想して準備する必要があります。せっかちで気まぐれな王を先回りし、迅速に旅をできる手筈を整えました。同時に、私設秘書の仕事も務めなくてはなりません。
ほかの側近たちと違い、馬丁長だったホルニヒはずる賢さがまったくなく、王に忠実でした。そんな側近にルートヴィヒは、激しい愛情を抱いてました。

1877年王の日記。
『リヒャルトに会い、知るようになって十年経つ。ふたたび堕落する危険はこれを最後にしたい。……口づけ一回も、言葉でも、書物でも、行為でも、もう不安を持たない。百合の魔術。純粋。純粋。二度とふたたび欲望を抱き、心の動揺を感じることのないよう注意することを約束する……十年前の1867年の良き思い出の日に。
リヒャルトとルートヴィヒ』

誓いを立てるように、王とホルニヒ二人のサインが記されていました。
しかし、ホルニヒには妻子がおり、子供が生まれたとき、ルートヴィヒは高価な贈り物を喜んで送っています。

ホルニヒが王のもとを去ったできごとは、注文した大理石像が石膏でできていたトラブルが原因でした。財政難のため、やむを得ず石膏にしたのですが、陛下への援助金を求める仕事も重なり、不審を抱いた王に解雇されてしまったのです。

ホルニヒのほかに、王の親しいお相手にヴァリクール男爵とカインツがいます。
ヴァリクール男爵は美辞麗句を王に捧げるものの、神聖なる王の朗読中にうたた寝をしてしまい、怒りをかって追い出されます。

もうひとりの青年ヨーゼフ・カインツはウィーンの役者で、1880年に王宮劇場に出演したさい、観劇していた王の目に留まり、そば仕えを命じられました。
蠱惑的な美青年カインツでしたが、王とともに外国旅行をしたとき、不休不眠が続き、居眠りをしてしまいます。意識が朦朧としていたカインツは、美しい大自然のなかでの朗読ができず、王の怒りをかいます。旅行後、二度と会うことはありませんでした。

ヨーゼフ・カインツ

いつもわがままな王へ、あまりにも神経を使ったためでしょう、1年も経たないうちに、げっそりやつれてしまいました。
カインツはその後、ドイツの悲劇役者として大成功します。

ワーグナーの死

1867年、ワーグナーと和解したルートヴィヒは、念願のオペラ「ニーベルンゲンの指輪」「ラインの黄金」「神々の黄昏」を観劇します。
国民的芸術作品と呼ばれたワーグナーのオペラ公演は、大成功したものの、15万マルクもの借財を残しました。
またも借金に悩んだワーグナーは、アメリカ移住を考えます。それを知ったルートヴィヒは、ミュンヘンでの公演を提案し、なんとか思いとどまらせました。ワーグナーはロンドンへ借金返済のための指揮者の出稼ぎをするほど、いつも資金繰りに困っていました。

1880年、最新作オペラ「パルシファル」の観劇のさい、ルートヴィヒがわがままを言い、ワーグナーが怒ってしまいます。ふたりはケンカ別れをしてしまうのですが、それがふたりが直接会った最後になりました。
バイロイトの祝祭での上演が財政的に成功したものの、1883年ワーグナーは狭心症の発作で死にます。70歳でした。

ルートヴィヒは痛恨の衝撃を受けます。「一人にしてくれ」と側近へ告げるだけで、言葉が出てきません。
やがてどうにか気を取り直し、ワーグナーの遺体をヴェネチアからミュンヘンへ運ばせ、壮大な葬儀を挙げます。
しかし王は葬儀に参列せず、ワーグナーのために用意されたピアノのそばで、ひとり静かにその死を悼みました。

鳩シシと鷹ルートヴィヒ

奇矯な行動ばかりとるルートヴィヒ2世を理解できたのは、従姉であるオーストリア皇后エリザベート――シシだけでした。
シシは堅苦しいオーストリア宮廷の作法を嫌い、夫へ愛情を抱けないまま、放浪の旅を続けます。

1875年のある日、ふたりは薔薇島で10年ぶりの再会を果たします。王のあまりの変貌ぶりに、シシは心を痛めました。
その後、ふたりは文通を始め、それぞれ書いた手紙を、薔薇島の館にある小卓の引き出しに入れました。シシは鳩、ルートヴィヒは鷹、と署名し、鍵はふたりだけが持っていました。

鷹から鳩への手紙は清純だったものの、シシは息子のルドルフ皇太子をルートヴィヒが「友人」と呼び、親しく交流する姿を密かに心配していました。
幸い、ふたりのあいだには何もありませんでしたが、のちの日記にルートヴィヒが自分との闘いに苦しんでいた、それらしき内容が記されてもいます。

ワーグナーの死後、バイエルン王の狂気についての「噂」が、バイエルンだけでなくオーストリアにも伝わり、やがてシシの耳に入ります。

食事中、王は、ルイ14世やマリー・アントワネットの胸像に話しかけ、召使には丁重にもてなすよう指示。「招いたときだけ来て、帰って欲しいときすぐに帰るから気持ちの良い客だ」と言った。
オリエント風の衣装に凝り、美少年の馬丁を選んで、裸踊りをさせる。
気に入らない召使を鞭で打ち、どんな客がやってきても王の半径50センチ以内に近づけさせない。
突然、意味不明な命令をし、気が利かない従僕は黒い仮面をかぶせ、額に蝋印を押された。
プロイセン皇太子をさらって、地下牢に鎖をつけて閉じこめる計画をしていた。
風呂やコーヒーが熱すぎる、といつも悲鳴をあげる。
大臣の処刑の署名、若い従僕の謎の死、作られた拷問部屋…………。

ありとあらゆる噂が流れるものの、どこまでが真実なのかは不明でした。

退位という名のクーデター

夢想世界に閉じこもったルートヴィヒ2世は、世間にいっさい興味がなく、世情はもちろん、政務のことにまったく無関心でした。王に提出されたあらゆる文章は封切られず、承認も検討もされることなく、日が過ぎていくだけ。大臣が謁見しようにも、ほとんど会えず、会えるときはいつも正装姿の深夜で、衝立越しでした。

奇怪な噂が流れるも、王はバイエルンの市民や農民からは人気でした。出くわした人々に優しく声をかけ、仕事がうまくいってるのかと気遣ったといいます。

政治は議会がなんとか運ぶことができたものの、一番の問題は王の無駄遣いでした。
王ひとりのために劇が上演され、そのたびに大きな出費になります。赤字続きのバイロイトの祝祭劇場へ支援もしています。
一番の出費は築城であり、ヘーレンキームゼーに2000マルクも浪費し、やむを得ず、大臣が債権を発行してしのぎました。それは、ノイシュヴァンシュタインとリンダーホーフの城を合わせた額よりも大きいものでした。

今度こそ出費を控えてくれるだろう、と大臣たちは思ったのですが、1885年、またも王は600万マルクを要求します。
大臣が延期を懇願するも、「王が自ら望むところを全て行うのは、王座の特権のうちである」と答えました。

国庫が空になりかけたころ、王室御用達などの肩書を与える代償に、莫大な融資をさせるというアイデアを思いつき、ヨーロッパ各地へバイエルンへの融資を求めます。そのなかにオルレアン公がいましたが、交渉するもうまくいきませんでした。
そこでルートヴィヒは銀行へ融資を求めます。
が、意味のない築城とあるじのない空っぽの城。初めは優しかった債権者たちが、バイエルンの王室財務局へ、厳しく追及したことが一大スキャンダルになります。

破産寸前のバイエルン王国。債権者たちが宝石や調度品だけでなく、城も差し押さえできることを知ったルートヴィヒは、王室資産の差し押さえを禁ずる勅書を出そうとしますが、「それだけはおやめください」と、大臣だけでなく政府も反対。
怒りが爆発した王は、政府を更迭し、かつら師のホープを筆頭にした、従僕、料理人、調馬師らを閣僚にした、新内閣を認証します。幽霊王の幽霊内閣でした。

ミュンヘンの真政府は崩壊したものの、閣僚たちは胸をなでおろします。
これでいよいよ、王が理性を失ったことが事実になった、と。

ミュンヘンの閣僚たちは密かに計画を立て、ルートヴィヒ2世の叔父であるルイトポルト公へ摂政になるよう、要請します。王弟オットーが即位しても、統治できる能力がないためでした。
公は承諾し、つぎは王の精神状態の調書を作成します。精神科医3人の手によって書き上げられた調書は、ルートヴィヒを直接、診察することはありませんでした。

王陛下の精神の錯乱状態は極度に進行し、パラノイア病におかされ、この病気は長期に渡り、不治の病とされる。陛下の自由意志が、病によって完全に破壊され、理性を失われていることから、今後、生涯、王権を維持されることは不可能に近い。

バイエルン大使つてに、報告書の内容を知ったビスマルクは、「王のくずかごや書斎をかき回したな……」と呟いたといいます。

ホーエンシュバンガウ城

つぎは王に精神病者であることを納得させ、監禁する必要がありましたが、危険を察知した王は、一足先にホーエンシュバンガウから逃走します。逃げた先はノイシュヴァンシュタイン城でした。
堅強な城の防壁で、追いかけた委員会は入れず、クーデターは失敗に終わります。
翌日、大臣たちは王の命令で憲兵に逮捕され、地下牢へ閉じ込められました。

落ち着きを取りもどした王は、委員会を釈放したのですが、ノイシュヴァンシュタイン城に閉じこもったまま、議会に顔を出そうとしません。ビスマルクに忠告されても。それが致命的な過ちになります。

ルートヴィヒは叔父ルイトポルト公の裏切りと、自分は精神病者ではないのだとウィルヘルム1世に手紙を送り、新聞社にも送ります。
しかし政府がさきに押さえ、出版を差止めしました。電信も押さえられたことを知ったルートヴィヒは、ついに抵抗を諦めます。

「毒薬を手に入れて欲しい。もう生きてはいられない」と侍従に訴えるも、それは叶えられませんでした。

1886年6月11日午前4時、ノイシュヴァンシュタイン城にいたルートヴィヒ2世は、看護人らに取り押さえられます。精神科医グッデン博士にベルクに連れて行かれ、精神病者として牢獄に閉じ込められました。

謎の死

1886年6月10日、雨が上がり、ルートヴィヒはグッデン博士とともに、スタンベルクの湖畔を散歩をします。

ふたりが出発したのが午後4時半。「8時にはもどる」とグッデン博士は告げていたのですが、8時半をすぎても帰りません。憲兵、従僕、看護人たちが血相を変えて、ベルク城の周辺を探すも、ルートヴィヒと博士の姿を見つけることはできず。

疾走した、と大騒ぎになったとき、岸辺で王の帽子と上着、博士の山高帽が見つかりました。
ボートに乗り、漕ぎ出したオールにぶつかったのは、ワイシャツ姿の王の遺体。少し離れた場所に、グッデン博士の遺体…………。

いったい何があったのか?
グッデン博士の首には絞扼のあとがあり、王と争い、絞め殺されたされたのではないか。博士を殺害したあと、王は岸辺へ向かい、水の中に入る。
王は溺死ではなく、発作による死であると後日の報告書。
しかしなぜ?

事故説。
発作が出た王が博士を絞め殺し、そのまま水中へ入り、心臓麻痺で死亡。

逃亡説。
親しかったオーストリア皇后のシシが極秘に手引し、亡命するために湖を泳いで渡ろうとしたさい、水の冷たさで発作が起きて死亡。逃亡を阻止しようとした博士を殺害。

自殺説。
弟オットーと同様、生涯、牢獄に閉じこめられることに絶望し、自殺。直前、思い留めるよう説得をする博士を殺害。

いずれにしても、現在でも真実は謎のままです。

3年後の1889年、シシの息子ルドルフ皇太子が、悲劇的な死を遂げます。庶民との結婚を反対されたことによる、心中死でした。
そして1898年、レマン湖のほとりで、イタリアのアナーキリストにシシは刺され、死亡しました。

「ヴィッテルスバッハ家は呪われた家系で、私たちはみな変死するのよ」
かつてシシは、そんな投げやりな言葉を吐いたことがあったといいます。

オットー

ルートヴィヒ2世崩御後、弟がオットー1世として即位し、叔父ルイトポルト公が摂政をします。オットーの死後はルイトポルト公の息子、ルートヴィヒ3世が即位、1913年から1918年まで統治しました。


1.夢想の王子
2.音楽家ワーグナー
3.悪夢の婚約
4.不可解な死

参考文献

狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏 (中公文庫)

映画

ルートヴィヒ デジタル完全修復版 [DVD]耽美を極めた名作です。


ルートヴィヒ DVD

漫画

ルートヴィヒII世 : 上 (BL宣言)上下巻。史実に沿って描かれているので、BL苦手でも読めます。