耽美王ルートヴィヒ2世 2~音楽家ワーグナー

新王の即位

1864年3月ルートヴィヒはバイエルン王ルートヴィヒ2世として即位します。長身で黒髪の美しい軍服姿の青年王に、国中だけでなくヨーロッパ中が沸き立ちます。若い王にみな、期待し、熱狂します。
しかしルートヴィヒ自身はまだ大人になりきれておらず、急な即位に戸惑っていました。政務は父王を踏襲し、父に仕えていた貴族たちをそのまま側近に留め置きます。副官のポール・ド・タクシス以外は、壮年や老年の男たちばかりでした。

そのなかの側近のひとり、ホーエンローエ候が後日、即位したころのルートヴィヒ2世を、ヴィクトリア女王へ宛てた手紙で評しています。

『この君主の気質はきわめて高貴であり、詩的であります。その人柄は人を引きつける並外れた力を持っています。それは、王の政治が人を思う心の表現であると感じられるからです。それにまた、王には知性も意志の力も備わっております。この王の治世に、王の力量を超えるような責務を課されることのないよう心から祈っております』

プロイセン派である候は冷静な分析をしており、とくに最後の一文が、後年の王を暗示しているかのようです。

王となったルートヴィヒは、バイエルンを治め、決定し、政治的判断を下すことで、孤高の人となります。おのれの判断ひとつで、国の命運が決まるのですから、非常な重圧だったはずです。

そんな4月のある日、ルートヴィヒはプフィスターマイスター男爵を呼び出し、極秘の命令を下します。
不安定な軍事情勢の相談かと男爵は思ったのですが、それは人探しでした。

「リヒャルト・ワーグナーの居場所を突き止め、私の前へ連れてこい」

ルートヴィヒ2世は外交や軍事にほとんど関心がなく、芸術的庇護者になろうとしていました。

ワーグナーとパトロン青年王

リヒャルト・ワーグナー

危険な革命家ワーグナー

リヒャルト・ワーグナーは1813年3月、ザクセン王国ライプツィッヒの警察総務長官であるフリードリヒ・ワーグナーの第9子として生まれました。大戦後のチフスの大流行で父が病死したため、母は1814年に役者と再婚。そしてワーグナーは聖トマス学院で音楽を学びます。

19歳の無名のころ、失恋の勢いで初めてオペラを作曲するも未完成、そして指揮者として劇場にいたころ女優のミンナと出会い、1836年に結婚しました。しかし「恋愛禁止」というオペラを上演するも、役者同士の乱闘で中止し、失敗。
その後は指揮者をしながらなんとか食いつなぎ、長編オペラを作曲して稽古するも、リガ・オペラ座を追われ失職してしまいます。こうなったらパリしかない、と無名のワーグナーは妻とともに旅立ちました。
が、またも失望し、物書きとして生計を立てるしかありませんでした。たまたまオペラの論文がヒットしたのが不幸中の幸いでした。

「さまよえるオランダ人」のシナリオは採用されるも、作曲は別の音楽家に決まったことで、ワーグナーはパリでの出世を諦めます。
そのころ、ドイツのドレステンで「リエンツィ」が上演される、という幸運に恵まれ、ドイツにもどります。1842年のことでした。その後上演された「幽霊船」もまずまずのヒット。好評価を得たワーグナーは、王室劇場の主席指揮者のポストを与えられました。

1848年、パリで革命が起き、たちまちその火種がヨーロッパ中を駆け巡ります。
政治革命は芸術革命につながる、と信じたワーグナーは、無政府主義者のパクーニンと意気投合し、革命家として先頭に立ちました。
しかし革命は内乱を引き起こしそうになり、反乱軍はプロイセンの軍に鎮圧されます。パクーニンは逮捕され、逮捕状が出たワーグナーはドイツを逃亡するしかありませんでした。

お尋ね者となったワーグナーはチューリッヒに隠れ住み、友人リストから援助を受け、パリに移ります。「リストはワーグナーの銀行の役割を果たした」と言われるほどの金額でした。
つぎは友人夫妻のいるボルドーへ行き、娘のジェニーと浮気。妻ミンナへ別れの手紙を書くものの、ドレステンにいるミンナがボルドーへ駆けつけます。何が何でも離婚したくない、と。

しかしただの浮気で終わらないのがワーグナー。その恋を昇華させ、「ワルキューレ」を書き上げます。青年時代から、女性がワーグナーの創作の活力でした。

1860年、今度こそパリで名を上げようとするも「タンホイザー」は不成功、三度上演されただけで終わりました。
ナポレオン3世がオペラ座での上演を命じたのですが、当時のパリはバレエが大流行しており、ワーグナーのオペラにも無理やり組み込まれてしまいます。そうしないと上演できなかったからです。
なぜ、バレエが必要だったのかといえば、舞台で踊る美しい踊り子たちを買うために、金持ちの紳士が観賞していたためでした。

ワーグナーのオペラはパリっ子たちの肌に合わず、1861年、また逃走します。
演奏旅行をしながらなんとか暮らすものの、赤字は膨らむばかり。今度は負債者となってワーグナーは逃げまわりつつ、旅を続けるしかありません。
そんなある日、また浮気をしたワーグナーは、創作意欲を燃え上がらせて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を生み出します。同時に浮気も終わりました。

借金を膨らませながら旅をするワーグナーに、光明が差します。そう、バイエルン王ルートヴィヒ2世が、ワーグナーを探していたのです。幼いころから「ニーベルンゲン」に惹かれていたルートヴィヒが、ワーグナーを信奉するのは運命のなりゆきでした。

1964年5月、スイスのホテルにいるワーグナーを、プフィスターマイスター男爵がようやく探し当てます。3週間かけて見つけたその音楽家は、すぐに『バイエルン王室秘書官長』の名刺を信じませんでした。
そこで王からの贈り物である見事な宝石の指輪を渡したことで、ワーグナーは思いがけない幸運に震えながら、バイエルンへ向かったのでした。

オペラの成功とスキャンダル

『 恩寵あふれる親愛なる陛下
 私は天にもかくあるかと思われる感動の涙をお送りいたします。愛に飢えた憐れな魂に、詩のなす軌跡が神聖な実在として現れたことをお伝えするためです。この生命の詩と音楽の最高の和声、そして、命そのものは、今後、陛下、恩寵にあふれる若き王であるあなたのものでございます。どうか、あなたの持ち物同様、御意のままにお使いください。
 至高の歓喜のうちに、忠誠にして、真実なる、陛下の賤しき臣
 リヒャルト・ワーグナー』

出発前、ワーグナーが初めて王へ送った電報。今後、20年間、バイエルン王とワーグナーの文通は続きます。

ルートヴィヒとワーグナーの謁見は感動そのものでした。ルートヴィヒにしてみれば、夢の世界を実現できる音楽家を庇護できた無上の喜び、ワーグナーにしてみれば、「ニーベルンゲン」オペラを上演してくれる、パトロン王侯貴族の登場……。
ワーグナーはすぐに屋敷を用意され、王の援助で莫大な借金を支払います。今後、ワーグナーの借金は、王国の国庫から援助されるのですが、これがのちの騒動へとつながります。

恵まれた環境でオペラを創作するワーグナーでしたが、感動が去ってしまうと、始終、顔を突き合せなくてはならない王との関係に疲れてしまいます。
とくに会話がないまま、何時間ものあいだ、じっとルートヴィヒと対面するワーグナー……。息が詰まる思いですが、相手は王。拒絶することはできません。

知り合いがなく、孤独だったワーグナーはたまらず、指揮者のビューロー一家を呼びます。
ビューロー夫人であるコジマはリストの娘で、創作に”恋愛”が欠かせないワーグナーの愛人になります。ふたりのあいだには、のちに娘が生まれ、ワーグナーが死ぬまで愛人関係は続きました。

音楽5カ年計画で、ワーグナーはオペラを創作し、上演のための稽古を続けます。何度も、何度も。
そのプロローグが上演されたとき、観劇した王は幸福のあまりわれを失いかけます。そして長い感動の手紙を、ワーグナーへ書きました。『天上の歓喜を味わいました』と。
1864年以降のワーグナーのオペラ。「トリスタン」「パルシファル」「ラインの黄金」、「神々の黄昏」は、ルートヴィヒが「私たちの作品」と呼んだほど、王の夢想を実現させるためのオペラでした。

そんなある日、新聞のスキャンダルがワーグナーを攻撃します。王国の財政を苦しくさせていること、ビューロー夫人との怪しい関係です。血気盛んなワーグナーは敵が多く、外国人であることも重なり、バイエルンの民衆から不審な者として見られていました。
かつてルートヴィヒ1世が退位した原因となった、悪女ローラ・モンテスを連想させたのも、さらにワーグナーの立場を悪くしていました。

スキャンダルはさらに過激になり、王とのただならぬ関係まで噂されます。さすがにたまらない、とワーグナーは記事で反論するのですが、油に火を注ぐだけに終わり、嫌気がさしたルートヴィヒはアルプスへ逃避してしまいます。

スキャンダルで絶体絶命、そして王の庇護がないと自分は何もできないのだと、ワーグナーは失望するのですが、公演したオペラは大評判。
それが救いとなればよかったのですが、民衆の不満――世論には勝てず、ついにルートヴィヒはワーグナーの追放令にサインをします。
私情より、国情を優先したとはいえ、この一件でルートヴィヒはひどく疲れ、精神から若さが失われてしまったのでした。

ドイツの導火線

ビスマルクの奸計

ガスタイン協定によってプロイセンがシュレスビヒ、オーストリアがホルシュタインを統治することになったものの、ホルシュタインはプロイセンの統治領に挟まれる形になってしまいます。
それがそもそもプロイセン首相であるビスマルク伯爵の狙いであり、プロイセンがラウエンブルクを手に入れたことは、バイエルンへの脅威でした。
オーストリア側につくか、プロイセン側につくか……。
ルートヴィヒはさんざん悩み、好戦的でないオーストリア側につくことにしました。本音では戦争そのものに加担したくなく、中立を貫きたかったものの、それは無理でした。「私は戦争などしたくない」と、何度も側近にもらします。

当時、ドイツは2つに別れていました。軍事国家プロイセンを中心とした北方連合と、独立を保つ南部の小国連合です。大国か小国か。どちらにしても、ドイツ統一を目指すプロイセンは南部を支配しようとし、好戦的でした。
ビスマルクは隣国のフランス皇帝であるナポレオン3世と軍事同盟を結び、次にイタリアとも結んで、ドイツに介入しないことを約束させます。そしてガスタイン協定を理由に、オーストリアを刺激し、関係を悪化させ、攻め入ります。

1866年6月、ついにオーストリアとプロイセンの戦争が始まるも、動員令に署名をしたルートヴィヒは耐えきれず、弟のオットーに王位を譲ると言い出します。
それをワーグナーが手紙でなだめ、議会を召集するよう説得をはかるも、ルートヴィヒはお忍びでミュンヘンを旅立ちます。突然の王の訪問にワーグナーは慌てるも、まる二日かけて説得。
……どうにか思い留まり、議会を召集したルートヴィヒですが、懐疑の目を向けられたのはワーグナーでした。人々は「あの男が悪魔の手先を使って、王をそそのかした」と噂します。

薔薇島に閉じこもる王

一触即発のプロイセンとの内戦。そのための議会に出席するルートヴィヒですが、民衆の不満は高まり、王を批難します。非常時だというのに、ワーグナーと密会する呑気ぶり。そしてそのワーグナーの愛人であるビューロー夫人への醜聞もさらに激しさを増しました。

バイエルンの人々へ「コジマはふしだらな女性ではない」、という誤解を解くよう、ワーグナーは王へ懇願するものの、あまりの茶番劇ぶりにルートヴィヒは呆れ、何もかも嫌になります。
侍従武官のポール・ド・タクシスと、従卒だけを連れ、王は避難所である薔薇島へ引きこもってしまいました。逃げ出した腑抜け王の代理として、バイエルン軍を指揮したのは大叔父のカールでした。

スタンベルク湖の薔薇島では連日のように花火が打ち上げられ、議会の連絡書を持参した代表団の面会を断る王。次は首相が訪問するも、やはり断られます。痺れを切らした首相は、制止する召使を無視し、建物の奥へ進みます。
その閉ざされた狭い世界には、作り物の月が照らされ、フリードリヒ大王の衣装に扮した王と、ローエングリンの衣装に身を包んだタクシスがいました。
ルートヴィヒは現実から逃れるため、居心地の良い夢想世界へ閉じこもってしまったのです。

これを知ったワーグナーは、またも友人ルートヴィヒを鼓舞するため、説得の手紙を書きます。もはや年長者の忠告、といってよいでしょう。
ようやく重い腰を上げ、王は前線の巡視にでかけます。凛々しい軍服姿の王に、兵士はもちろん国中が感激します。民は王の姿に安堵し、支持します。
が、それが終わると、王はすぐに避難所へ引きこもってしまうのでした。

オーストリアとプロイセンの戦いは、プロイセンの勝利で終わりました。
オーストリア側に入っていたバイエルンは、敗戦国としての賠償金に恐怖するのですが、意外なほど少ない金額で終わりました。自治国としての独立を保ったまま。
バイエルン王が戦争そのものに介入をしなかったおかげで、ビスマルクが恩情を示したのです。

そもそも、戦争そのものに関わりたくなかったルートヴィヒの態度が、バイエルンの窮地を救ったといえます。もし不安のあまり、軍を指揮していたら、バイエルンはプロイセン領になっていたことでしょう。
無駄な流血を防いだことで、国中が喜びに満たされます。
視察をするたび、「すばらしい、わが王!」と、卓越な統治者として群衆がルートヴィヒを讃えるのでした。

王が人気な反面、政府と閣僚の人気がガタ落ちします。これを好機にと、王はワーグナーを嫌っていた首相のプフォルテンを解任し、ホーエンローエ候を次の首相にしました。
こうして、ワーグナーはバイエルンへの帰還を許されたのです。


1.夢想の王子
2.音楽家ワーグナー
3.悪夢の婚約
4.不可解な死