今では忘れられた昭和初期(1920年から1950年頃)の生活をいくつか紹介。
懐かしいと思う人、言葉だけ知っている人、まったく知らない人、世代によって読後感が違うはず。
ちなみに私は「聞いたことあるけれど、実物はほとんど見たことがない」世代です。
戦前編
腰巻
和装(着物)を着用するときの下穿き。現代でいうパンティの役割。昭和の始めごろまでは、洋装は滅多になくほとんどの女性が着物だった。もちろん下着は腰巻き。
膝下あたりまでの長さがある晒布に、2本の紐がついていて、腰から下をぴったりと包んでウエストで結んだ。
その上に鮮やかな色の桃や黄の、足首の長さのある絹布を巻いた(裾よけ・蹴出し)ので、腰巻きが着物の裾から見えることはなかった。
昭和初期までの中年女性(要するにおばちゃん)は、腰巻き一枚で海水浴をしたという。波で腰巻きがさらわれたとき、恥ずかしくて海中から出てこられなかったものの、胸は見えてもへっちゃらだったのが、当時らしい。
アッパッパ
初期の洋装。正式名「簡単服」。
貫頭衣に簡単な半袖の裾をつけたワンピースで、胸元を丸くくくっただけの服。夏になると着物は暑いため、爆発的に流行した。女性が和装から洋装への定着に貢献したともいえる。
当時は自分で裁縫するのが普通だったため、古くなった着物生地を再利用して普段着にしていた。(『この世界の片隅に』の主人公すずが着ていたワンピースもそれ)
昭和初期はまだ腰巻きが主流だったから、裾から布を覗かせている光景は当たりまえだったらしい。
乳当て
いわゆる「ブラジャー」。
昭和初期ごろは、胸のある女性は少数派だったのもあり、あまり馴染みがなかった。女学校で体育の着替え中、目撃した女生徒たちが話題にしたほど、常用している女性は少なかった。
当時、胸がないほうが着物を美しく見せたのもあり、芸者たちは晒を巻いてぺちゃぱい(死語)にしていた。胸が大きい=性的アピール=下賤=労働者の女。というイメージがあったそう。
モダンガール
まだ和装が主流だった当時、ハイヒールにタイトスカート姿の女性がそう呼ばれた。髪はオカッパ風の断髪。参考サイト。
大都会ならともかく、地方ではまず見かけなかったため、モダンガールが歩いているだけで注目され、驚きの声を上げる子供たち……。それだけ珍しかった。
洋服が庶民に定着し始めたのが、戦後からで、アメリカ文化がどっと流入してきた以降。それまでは着物で生活するのが普通だった。
(昭和戦前時代のマンガやイラストでは、洋装が多いのもあって、昭和=洋服と錯覚しがち)
人絹とステープルファイバー
人造絹糸のこと。現代でいう、レーヨン。当時はぺらぺらな布だった。
人絹で作った着物は陰口を叩かれるほど、軽薄安物の代名詞だった。それだけ本物の絹が尊重された。
しかし戦争になると、絹は贅沢品、人絹はペラペラな軽薄品。だから木綿が主流になるも、綿花は輸入品だから品薄になり、羊毛も同じく輸入品。
代わりに登場したのが、人造繊維のステープルファイバー。(略してスフ)。あまりの粗悪さのため、水に濡れだだけでくたくたのしわしわ、色落ち。学生服、国民服、すべてがスフ状態。戦争の負けを象徴するような布だった。
ステテコ
男装版、和装下穿き。猿股より長く、膝の下まである。ズボンを履くようになってからも、ズボン下として使われた。
やがてステテコだけで外出するおじさんたちが登場するも、そもそも下着なのだから下品だと言われた。大阪の夏はステテコのおっちゃんだらけだったとか。庶民らしい光景。
褌(ふんどし)
ふんどしには二種類あり、六尺褌と越中褌がそれ。
六尺褌は六尺の長さの晒を腰にぐるぐる巻きつけ、その端を股に通して大事な部分を包みこむ。別名「しめこみ」。
しかし細川越中守忠興が、いざというとき六尺褌ではぐるぐる巻くのが面倒だからと、編み出したのが越中褌。
三尺ばかりの晒の一方に、細い紐がついており、腰の前で結んで、布を股に通してのれんのように垂らす。簡単に装着でき、風通しがよかったため、昭和時代はこちらが主流だったという。
戦後、褌はすたれ、猿股からブリーフへと変遷した。
カンカン帽
アメリカからやってきたストローハット――麦わら帽子。夏、男性が愛用した。
1930年代はステテコにカンカン帽姿のオッサンたちがたくさんいたという。
ちなみに中折の白い帽子はパナマ帽。夏の紳士の正装に使われた。(上記写真)
弊衣破帽とモダンボーイ
ボロボロの服に破れた帽子の姿。明治から大正にかけての高等学校の若者の代名詞でもあった。いわゆる蛮カラ。
白線の入った学生帽、紺絣、小倉の袴、黒鼻緒のほお歯の下駄。それらがくたくたに薄汚れた格好で、「高歌放吟」をしていた。(わかりやすくいえば、大声で漢詩等を詠うこと)
それとは対照的だったのが、昭和に登場したモダンボーイ。ポマードでべったりさせた七三分けの髪、幅広のズボン姿で社交ダンスを楽しんでいた。
貧しい苦学生の蛮カラはすたれ、戦後は大志すらも失われ、男らしさそのものが軟弱へと変遷した。(と佐藤愛子さんは嘆いていた)
蚊帳
木綿で濃い緑色の目の細かい網を、天井から金具で吊り下げ、夏はそのなかで眠った。
蚊帳に入るさい、しゃがんですばやく入らないと蚊がいっしょに入ってしまう。昭和の始めごろまでは、殺虫剤どころか網戸もなく、喉が痛くなる蚊取り線香か手で叩くしかなかった。ちなみに蝿はハエ叩き。
当時は蚊帳がないと、夏の夜は眠れなかったほど蚊が多かった。夏の必需品。
五右衛門風呂
名前の由来は盗賊石川五エ門が、幼い息子ともに釜茹での刑にされたことから。黒い鉄の釜形の浴槽で、木の板を底にして入浴した。
湯船のなかでぷかぷか浮かんでいる板を、足で踏んで底へ押して入らないと、あまりの熱さでやけどをした。釜の下では薪をくべて沸かしていた。
江戸時代の弥次喜多道中の作品中、ヤジさんキタさんが入り方を知らず、下駄を履いて釜を壊した笑い話がある。
木桶風呂の底が鉄製なのが五右衛門風呂。鉄製の釜ごとかまどにはめ込んで風呂として使ったのが長州風呂。一般的には長州風呂も五右衛門風呂と呼ばれる。参考サイト。
火鉢
当時の冬の暖房は炬燵(こたつ)か火鉢だった。炬燵は茶の間にあって、家族か親しい人でないと足を入れらないのが常識だったから、お客様は客間の火鉢で暖をとった。
火鉢には種類があって、桐、唐金、朱塗り、大ぶりの陶器等。陶器は安価で手入れをしやすかったから、どの家庭でも重宝された。
火鉢の灰の上に五徳を置き、やかんで湯を沸かしたり、網を乗せて餅を焼いた。
煙管(キセル)
刻み煙草を指で丸めて雁首(金属の火皿)に詰め、点火して吸口から煙を吸った。紙煙草が無かった時代から使われていた。
女性が使う煙管は管の部分が2、30センチもあって、煙のニコチンがいくらか緩和された。男性は太く短い煙管を愛用した。
欧米でいうパイプになるが、あちらの女性はパイプで煙草を吸うことはなかった。
付文
戦後になるまで、「良家の子女」が若い男と出歩くことすら、不道徳と言われた時代。意中のあの娘に恋文を送ろうにも、郵便だと母親がまず見つけて開封してしまう。
そこで恋した青年たちは、付文をした。直接手渡すのである。
しかし直接受け取るだけで「不良」の烙印を押されてしまう少女は、無視してしまう。だから着物の裾にそっと入れたり、畳んで持ち歩いている傘のなかへ、またはセーラ服姿の女学生の鞄のなかへ。
帰宅した女学生たちは、裾や傘、鞄から落ちてくる付文を読む――あるいは読まずに捨てる。意中の男性ならともかく、恋愛すら憚れる時代なのだから、返事を書くことはありえない。
たとえ読まれても差出人の思いが叶うことはなく、くさい愛のポエムを陰で笑った。
円タク
昭和初期、一円均一の小説本が流行した。円本ブームである。
そして便乗するようにタクシーも一円均一が登場し、円タクと呼ばれた。当時のタクシーは運転手の隣に同乗者がおり、助手をしていた。いわゆる現在の助手席。助手の仕事は客引きで、演芸場やデパートの前で、客を誘った。
一円均一だからどこまで乗っても一円。しかし遠いと、さすがに一円均一にはいかなかったようで、客と値段交渉をするのも助手の仕事だった。参考サイト。
出合茶屋
江戸時代の喫茶店。茶屋の上に出合が付くと、男女の密会に使われた。
明治時代になると「待合茶屋」になる。始めは芸者との宴席に使われたが、やがて芸者と宿泊できるようになり、さらに素人同士が泊まれる場所になった。
戦後は連れ込み宿。♨マークが目印だったというから、今とは異なった意味合いが含まれていたよう。
その後、東京オリンピックでホテルがたくさん建設され、それがラブホテルになった。
花柳病
花柳病とは性病のことで、「花柳界(花街)」で流行していた。代表的だったのが淋病と梅毒。
昭和初期にはかなり蔓延しており、淋病や梅毒の新聞広告が日常的にあった。花柳病予防にゴムサック(当時のコンドーム)が売られていた。しかし決定的な治療や予防はなかった。
一般的に女性の貞操観念が堅かった時代だから、どうしてもしたくなった男たちは春を売る女性たちのお世話になる。それを妻にもうつし、病気で苦しむ女性が多かった。
淋病にかかると関節が変形し、梅毒は鼻が潰れて脳へ菌がまわり発狂したという。ようやく戦後、抗生物質ペニシリンが日本に入ったことで、淋病を治癒することができた。
終戦直後編
風呂敷
当時、町では家に風呂(内風呂)がある家は少数派だった。ほとんどの庶民は銭湯に通い、欠かせなかったのが、風呂敷だ。
脱衣所で脱いだ服を風呂敷で包まず、カゴにそのまま入れてしまうと、盗難されやすかったため。盗人は例えば、セーター一枚だけ取ってそれを着て上着を羽織ることで、盗難を逃れていたという。
風呂敷でしっかり包めば、それを湯船から見張ることが可能。
あと、下駄はしょっちゅう他人に盗まれ、盗まれた人はまただれかの下駄を勝手に履いて帰った。戦後まもないころは、みな貧しいこともあって、ほとんどの人が罪悪感すらないまま、盗んでいたそう。
代用食
戦中から戦後のころ、腹いっぱい米を食べられず、代用食で空腹を満たした。美味しい食事=満腹までたべられること、というのが当時の実感だったそう。
代表的だったのが、「国策炊き」。玄米を20時間吸水させ、いっぱいの水で炊いてかさを増やした。
あと、「楠公飯」。楠木正成が発案したという触れ込みで、玄米を炒って二倍のに一晩漬けてから炊いたもの。どちらもまずく、すぐに空腹になったため、食糧難の時代ですら食卓に何度も出ることはなかった。参考サイト。
玄米飯のなかに大根を入れてかさを増やすのが、ドラマおしんで有名になった「大根飯」。豆、いも、かぼちゃ、とうもろこし、雑穀もあった。ひえ、あわ、きびの雑穀は、食べ慣れないと消化不良をおこしたという。
そこで、穀物を粉にし、水で練って汁物に入れた「すいとん」もよく食べられた。
調味料不足で醤油が足りなかった時代には、海藻類を長時間煮詰めて、それを代用にした。当然、まずかった。
配給された味噌のなかに漉芋と塩を入れ、湯たんぽと毛布で包んで温め、量を二倍にする方法があった。直火にかけないのは、煮炊きするだけの燃料も不足していたため。
サツマイモの葉、どんぐりを代用食にするレシピまであったが、やはりまずく、空腹を満たすためだけの料理だった。
間借り
戦争で多くの家が焼けてしまい、住む場所を失った一家は親戚や知り合いの家々を転々としたという。一軒の家に3、4家族が暮らすのも珍しくなかった。
ひとつの部屋に一家族が住み、ときには他人同士が同じ部屋で暮らした。炊事場は交代制だったが、「あの家族は自分たちより良いものを食べている」という妬みと憎悪により、人間関係が悪化。仕方なく、別の家を探して転居するのは珍しくなかった。
終戦当時、生き残った人々の間には、「不公平感」が強かったという。
あの人の息子は運良く戦死しなかった羨ましい、あの一家の家は焼けなかった羨ましい、あいつは闇市でもうけている羨ましい……等など。
そのため、みなイライラし、諍いが耐えなかったという。
長い不景気で格差が広がった21世紀でも、妬み(すぐに、ずるいと言う人)を持つ人が増えたから、今も昔も日本人の根はあまり変わらないのかも……。
闇市
物資が配給制だった時代、売買してはいけないあらゆる物が売られていた。その非合法の市場が闇市。
焼け跡の広場に、小さな露天商が無数に集まるなかに、数え切れないほどの男たちが集まった。女が少ないのは、それだけ暴力沙汰が多かったからである。背後ではヤクザが仕切っていた。
しかしその商品は現在では、まず見かけることがない代物も多かった。
鉄兜を潰して作った鍋や釜、魚の皮で作った革靴、ニクロム線の電気コンロ、英和辞書の紙で巻いたとうもろこし毛入りの煙草、その煙草巻き器など。原材料が怪しい砂糖で作られたカルメ焼き、サッカリンやズルチン等の人工甘味料、芋しるこ、乾燥芋……甘いものがよく売れたという。食糧難の時代は、砂糖がとても不足していた。
米や麦、衣類、石鹸、ゴムは売買禁止だったが、闇市では高値で入手できた。雑炊、そばやうどんの麺類、カレーライス、寿司も食べることができた。
酒――アルコールもあったが、工業用のメチルアルコールが売られていたため、飲んだ人が失明や死亡したほど、危険な代物だった。
PX(アメリカ軍の売店)で買った煙草や食料、菓子(ハーシーチョコレート等)、雑貨品が人気だった。
古本や聖書、宝くじまで売られていた。そして印鑑まであった。身分証明としてハンコは必要不可欠な品物だった。手書きの名刺は、印刷が復興するまで大人気商品だった。
店主はヤクザが多かったが、庶民や在日アジア人もたくさんいた。あらゆる人があらゆる物を売る、ブラックマーケットであった。
GHQの方針で、露天商は禁止され、闇市は消えた。代わりに台頭したのが、適正価格(工場の利益2割)の新宿マーケット。売る前からオープンな価格表示されたことで人気が出て、やがてスーパーマーケットが登場する。
ラジオ番組
GHQ統制下、ラジオ番組は検閲されていた。有名だったのが「真相はかうだ」という番組で、南京大虐殺等、満州事変以来の日本軍部の悪行と隠された闇について、少年が暴露したもの。敗戦直後の日本人にとって、かなりの衝撃を受けた番組だった(当時のプロパガンダだから真偽のほどは不明ですが……)。
戦中は敵国語だった実用英会話番組は、昭和20年の9月から放送された。「日米英会話手帳」がすでに印刷されて販売されていたほど、世間はすぐにアメリカ大歓迎の空気に変わった。
「復員だより」「尋ね人の時間」の伝言板番組もあった。復員、引き上げ、戦災で別れ別れになった肉親が探した。終了したのが16年後で、かなり長く続いた。99500件のうち解決したのがわずか20%だったという。
産業、農家、婦人、療養、漁村、炭鉱向けのニュース、選挙放送、放送討論会、東京裁判の中継まであった。
もちろん娯楽番組も充実しており、演芸落語、歌謡曲、漫才があったものの、封建制度を美化する浪花節は禁止され、衰退する。音楽は邦楽だけでなく、クラシック等の西洋音楽も流れ、ごった煮状態だった。当時、大ヒットしたのが「リンゴの唄」なのは今でも有名。
連続ドラマは大人気で国民のだれもが知っていたほどだった。代表的だったのが戦争孤児を題材にした「鐘の鳴る丘」と、人情ドラマの「向こう三軒隣」。やがてホームドラマ、メロドラマ、社会派ドラマへと派生していった。
クイズ番組も登場し、有名だったのが「知識の泉」と「二十の扉」。問題をバラエティに富んだ知識人や有名人が回答し、トンチンカンは答えで笑いを誘って楽しませた。「わたしは誰でしょう」とタイトルそのままの番組も人気があった。やがて娯楽番組の流れは、テレビバラエティへとつながった。