第一次世界大戦、ドイツで抑留された日本人 2

植村氏、抑留の日々~2


日本名誉領事の変貌

9月のドイツはすでに秋が始まっていました。
同房していたベルトラントは両親の助力で釈放され、つぎは隣室だったフランス人ゲイヤールと一緒になります。彼は軍籍にあったため、本国から召還状を受け取るも、帰国直前に逮捕されたのだと、いいました。
ドイツ人の妻の差し入れにより、植村氏は救われるものの、外国人は外部からの差し入れを禁じられます。
あまりの非道さに植村氏が憤っていたころ、以前、世話になったフライブルクの日本名誉領事シンチンゲル氏から、署長宛てに手紙が届きました。

署長に呼ばれた植村氏は、名誉領事のあまりの変貌ぶりに怒りがこみあげます。
親切に日本人留学生たちの世話をしていた名誉領事でしたが、日本が参戦するなり態度を一転させ、名誉領事を辞めました。日本を裏切り者の狡猾者と批難し、日本の骨董や美術品を捨て、二度と、ウエマツなる者からの手紙を出させるな、という内容。

おまけにシンチンゲル氏は、ドイツの新聞にも日本へのあらゆる悪口を書き立ていました。
ただ、名誉領事へ感謝状を書いただけだったというのに、あまりの保身ぶりに植村氏は憤りつつ、呆れるのでした。


仲間との再会

9月のなかば。
植村氏に面会人がありました。驚いたことにかつての房仲間、ミューレンでした。
彼はクレーフェルトの牢獄を出たあと、さらに過酷なパーダボルンの練兵所へ連れていかれました。そこはバラック小屋すらない原っぱで、雨の降った夜は濡れたまま過ごさなければならない辛い場所でした。食事は一日に一、二度だけの水のような薄いスープのみ。
そこには三人の日本人留学生がいましたが、ミューレンは日本人の名前が難しくて覚えることができなかったといいます。
釈放されたミューレンは、「クレーフェルトの牢獄がどれほど懐かしかったことか」と、植村氏に話すのでした。

9月20日。
つぎはラビスエールが植村氏に面会します。
彼もまた、ミューレン同様、連れていかれ、近くのゼンナラーゲルの練兵場にいました。話す内容はやはり同じで、過酷な捕虜生活のためにタムシや毛じらみに感染してしまいます。
そこには4人の日本人がいたそうですが、話す機会がないまま釈放されたと、教えてくれました。

植村氏は日本領事館へ二度、三度と手紙を書きます。送金の願いでした。
しかし署長は受け取るも投函していない、とミューレンから聞かされます。そこで看守に頼んでオランダの日本領事館への手紙を託しました。看守が言うには、署長は意地が悪いことで有名でした。

以前、頼んでいたトランクがようやく、植村氏のもとへ届けられます。これで冬を越せる、とほっとするもつかの間、詰めていたはずの荷物がほとんど入っていませんでした。あるのは袱紗、白絹のハンカチ三枚、扇子のみ。
そこで植村氏はそれらを、看守一家に渡します。いわゆるワイロでした。のちにそれらの品が、植村氏を助けることになります。


残るのは日本人

イギリス人、ロシア人、ベルギー人が牢獄に入るも、彼らは数日すると出ていきます。しかし日本人である植村氏と野田だけは、いつまでもクレーフェルトの牢獄から出ることを許されませんでした。それだけ、ドイツは日本の裏切りを怒っていたのです。

秋が深まり夜が寒くなってきたころ、看守が植村氏へ上等なベッドを用意してくれます。ただし、署長には秘密で、夜、こっそり別室へ案内されました。そこではランプも用意されており、読書も可能でした。
藁と板だけのベッドは熟睡できない代物でしたが、羽毛布団のベッドは温かく快適で、どうして看守が待遇を変えたのかを考えるに、ハンカチと扇子のワイロだろうと結論づけます。

昼間は、かつての仲間たちと面会してたっぷりと差し入れをもらい、文盲の野田へ文字を教えました。芸人の彼は教養がほとんどなく、話していても相手にならなかった、と植村氏は手記に書いてます。
無政府主義者(社会主義)のドイツ人たちが話し相手になるも、彼らの思想には触れずにいました。

9月がすぎても、未だ釈放されず、植村氏は望郷の念にかられます。
顔色が悪い、とミューレンたちに指摘され、洋食を看守から取り寄せて食べることになるものの、看守は「ドクターは5000マルク送金される金持ちだ」と、周囲に言いふらすのには困ったそうです。

やがて英語で冗談を言い合ったイギリスとベルギー人水夫も去り、残った外国人は日本人のふたりだけでした。
そんなおり、素行が悪いために牢獄で下働きをさせられていた、16歳のヨハン少年が徴兵されます。まだ幼い彼まで戦場へ連れて行かれることで、この戦争はドイツにとって苦しいものになっているのだろう、と植村氏は推測します。

10月に入るとさらに寒さが増し、無政府主義者の男はリューマチが悪化して起き上がることができなくなります。
そんな病人を見て、植村氏は暗澹なる気持ちになり、野田は「なんて俺は不幸なのだ!」と嘆きます。

いつまでたっても釈放される気配がない日々。
宣教師がありがたい説法をしに来るも、慰めどころか敵国である日本人たちに、神の罰が下るのだと憎しみをぶつけてきました。
植村氏は「神の愛を教えるあなたが、学徒である私個人に憎しみをぶつけるとは遺憾だ。そもそも、戦争があったことすら知らなかった。スパイでもないのは、ドイツがわも承知しているはず」と冷静に抗議するも、宣教師の態度は変りませんでした。

10月中旬、牢獄生活に光が差し込みます。念願の送金が日本から植村氏にあったのです。ミューレンの叔父の使いが投函した手紙が、到着したのだろう、と植村氏は思いました。
看守へお金を渡したことで、さらに牢獄での暮らしが快適になります。温かい食事に夜は立派な部屋で休むことができ、たちまち健康を回復しました。まさに「地獄の沙汰は金次第」。

ついに釈放されたものの

11月6日。写真撮影後、日本人ふたりに、ようやく旅行免状が渡されました。出国の許可が出たのです。
植村氏は冬服を買い揃え、看守夫妻に心づけを渡しますが、署長へは何もしませんでした。

市街から列車に乗り、途中下車のケルンで乗り換えようとするのですが、またも兵士に捕らえられてしまいます。しかし旅行免状があるのに連行したことで、士官が兵士を咎めるも、列車は過ぎ去ってしまいます。
深夜、ようやくフランクフルト行きの列車に乗り、そのとき相席した紳士のドイツ人弁護士ともに、戦争で互いが敵になったことを悲しみます。
戦争が長引くといずれイギリスだけでなくアメリカも参戦するだろう。そうなると、ドイツは苦しくなるが、我々ではどうしても止めることができない、と弁護士は、のちに第一次世界大戦と呼ばれる長期戦争を予見していました。

翌朝、フランクフルトで下車し、ウルムへ向かう途中、植村氏と野田は群衆から小石を投げつけられます。その日、日本軍が青島を陥落したと新聞で報道されていました。
ドイツ人の憎悪は大きく、「恩知らずの豚、泥棒の日本人め!」「スパイを殺せ!」と激しく罵ります。
そういうおまえたちの蛮行はなんだ、と植村氏は言い返したいのをこらえながら、兵士に連行されました。トランクを開けて中味を検査され、司令部で取り調べを終えると、牢獄へ連れて行かれます。

その夜、三人の日本人といっしょになり、たがいの八十日間の身の上を話しました。
三人の日本人たちは留学生、会社員、教授の面々で、ゼンナラーゲルの練兵場でバラックを作っていたといいます。過酷な重労働を課せられ、辛酸を舐めました。
(手記にはその時の心境を書いてませんが、労働を免れた植村氏は不幸中の幸いだったともいえます。)
ウルムの看守は善良で、温かい食事と部屋を用意してくれました。

三日後、牢獄を出た日本人五人は、列車の一、二等待合場の食堂にいたところを、ある下士官によって強引に三等待合場へ移動させられました。
またも不愉快な待遇に植村氏は抗議したくなるも、その士官は気を利かせ、日本人たちを避難させたのです。駅にいた市民たちが、憎悪の目を日本人へ向けていたためでした。

その夜、宿に到着し、ようやく食事をとることができました。親切な下士官にも夕食をおごり、翌日、植村氏らは汽船でスイスへ出国しました。
スイスへ到着するなり、日本人五人は祝杯のシャンパンを挙げ、故郷へ手紙を書きます。
のちに家族が語るには、まったく消息がつかめない植村氏は死んだものだと思い、あきらめていたそうです。

その後、すぐに帰国せず、植村氏はスイスで研究をしました。チューリッヒ大学で留学を始めたころ、ミューレンとゲイヤールに手紙を送り、無事を喜んだものの、数回の便りののち、ミューレンと連絡がつかなくなります。
その後、ゲイヤール夫人から返事があり、夫が収容所へ送られたのだとありました。
イギリス、フランス、ベルギー、ロシア人は戦争が終わるまで、解放されることはないのだろう、と、植村氏は悲しむものの、どうすることもできませんでした。

留学を終えた植村氏は、イギリスのロンドンから大西洋を渡り、アメリカへ向かいます。ニューヨークで、野口英世博士と対面しました。ふたりは知り合いでなく、すでに当時、有名だった野口氏に会いたい一心で、当たって砕けろで成功したのです。
それからナイアガラを見物し、シカゴへ行き、太平洋を渡って日本に帰国しました。

こうして植村氏の三年に渡る、波乱万丈の世界一周の旅は終わりました。


植村氏、抑留の日々~1

参考文献

「八月の砲声」を聞いた日本人 ― 第一次世界大戦と植村尚清「ドイツ幽閉記」