第一次世界大戦、ドイツで抑留された日本人 1

第一次世界大戦のドイツと日本人

日露戦争でロシアと戦い勝利した日本を、当時のドイツは好意的に思っていました。ドイツとロシアは敵対国だったからです。
第一次世界大戦勃発当時は日本人だけでなく、ヨーロッパ――ドイツの人々も戦争が長引くとは思っていませんでした。
しかし、アメリカやイギリスが参戦することになり、日本も同盟国として中国山東半島の青島(チンタオ)を、奪取すべく参戦したことで、ドイツの感情が一気に悪化します。青島はドイツの租借地でした。
それまで非常に親日的だったドイツ人が、敵対国として日本人を扱うようになります。
すれちがいざまに罵倒され、ときには殴られ、友好的だった人々はあからさまに憎しみをぶつけます。ドイツ人は言いました、「裏切り者の日本人め」と。

1914年8月、ドイツのベルリンには日本人留学生や外交官がいました。そしてわずかですが、旅芸人、女中と言った庶民も暮らしていました。
そのほとんどは、日本からドイツへの最後通牒が公表された8月20日までに、ドイツを脱出しています。しかし、600人近い邦人のうち、100人ほど逃げ遅れて拘留されてしまいました。
そのなかには運悪く、あと少しでオランダへ到着するところを、捕らえられ、80日間投獄された日本人がいました。彼の名は植村尚清。若き医師として、チェコのボヘミアで細菌学研究の助手を勤めていました。
たまたま、夏期休暇ということで、ドイツにいる知り合いを訪ねていたところ、第一次世界大戦が勃発したのです。
植村氏が残した手記から、過酷だったドイツ抑留の生活を紹介。

植村氏、抑留の日々~1

拘留まで

8月8日出発。プラハから南ドイツのフライブルクへ到着したのが8月16日。そのときはまだ、日本がイギリスの同盟国として参戦するという情報が伝わってなかったため、ドイツ人に歓待されるも、肝心の知人はすでにベルリンへ発ったと、下宿屋のおかみから聞かされます。
日本倶楽部から知人に宛てた手紙には「一刻も早く帰国したほうがよいだろう」と書かれたものを読んでも、植村氏はのんびりしていました。
そのとき、すぐに国外へ脱出すればよかったのですが、まさか日本が参戦するとは夢にも思っておらず、植村氏は数日、滞在します。この判断が不幸の始まりでした。
情報源が新聞、手紙、電報しかない時代だったのもあり、仕方ないともいえますが。

8月19日。植村氏はオランダへ向かいます。知人と会うためでした。
しかし、その日を境に、ドイツ人は日本人を憎みます。裏切り者だと罵られながら、植村氏は旅を続けました。
8月20日。あと、30キロメートルでオランダに到着するとき、ついに植村氏は捕らえられました。乗りかえのため、クレーフェルトの駅で下車したところを士官に止められ、日本人だとわかると次は警察署へ連れて行かれます。
荷物を没収され、牢獄に閉じ込められました。拘留生活の始まりでした。


牢獄仲間

三畳ほどの部屋には、二つの粗末なベッド(四本脚の上に板が乗っただけ)と、洗面台、桶(トイレ用)、書物机があって、身動きが取れないほど狭く、鉄格子がはめられた小さな窓が、高い壁にあるだけでした。
そこに同房していたのは、3週間前に拘留されたというフランス人青年で、彼は外見が恐ろしく老けていました。フランス語の教師だという彼は、ある日突然、警察が来て逮捕されたといいます。スパイを疑われたとのことですが、理由は不明。ただただ、妻のいる家に帰宅できないまま、牢獄に閉じ込められてるのだと、言います。
名前はエミール・ラビスエールと言いましたが、それを植村氏が知るのは親しくなった数日後のことです。

朝の起床後は、二十分の散歩、雑巾がけの掃除をします。
牢獄の食事は非常に粗末で、夕食は水のようなスープにパンのかけらと麦が入ったもの、朝食は麦を代用したコーヒーに豚の餌になる黒パン。その固いパンには藁クズや砂利まで入っていて、それらを取り除きながら食べました。
とても人間が食べる代物ではなかったものの、それを食べないと飢えてしまいます。医師である植村氏はエリートですから、庶民以上に耐え難かったはずです。

牢獄で出される食事だけでは、確実に栄養失調になります。同房のフランス人ラビスエールは一日置きにある妻との面会での差し入れで、なんとか生きていました。
しかし植村氏は旅人。街に知り合いはいません。
そんなとき、ひとりの日本人青年が植村氏の牢獄部屋に入れられました。
彼の名は野田松次郎。岐阜の生まれで5歳のとき旅芸人に売られ、シベリアを経由してヨーロッパ中を興行して回っていました。そのため、日本語がたどたどしく、ドイツ語もきれいではありませんでした。
芸人として生きていくため、幼いころから過酷な特訓を受けます。軽業師となったものの、落下や関節外しでたびたび怪我をし、これは虐待だ、いつか義理親を訴えると、切々と植村氏に話すのでした。
野田は開戦当時、ベルリンにいては危ないからと知り、クレーフェルトの知人を訪ねるも、中途で捕らえられたといいます。

ほかには五年ぶりに牢獄で再会したというロシア人の兄弟、ベルギー人、イギリス人が投獄されていました。

すぐに釈放されると信じていた植村氏でしたが、一週間が過ぎても牢獄から出ることはできませんでした。

ようやく署長と面会ができたものの、知事や司令官から植村氏を釈放する、という回答はありませんでした。予期せず、拘留の日々が続きます。
ラビスエールは「病気になれば、ここを出られる。病気になりたい」とぼやいていました。


遺書を書く

再び警察署長と面会した植村氏は、知り合いへ葉書を書くことを許されます。ただしドイツ語でした。オランダ日本領事館へ出すも、返事はありません。署長や番人がきちんと投函したかも不明でした。

貧しい食事で十日を過ぎるころ、植村氏はすっかり衰弱してしまいます。看守にお使いをたのんでもなかなか肉や白パンを買ってもらえず、粗末は黒パンとスープで飢えを凌ぐしかありませんでした。
近くに知人がおらず、このまま牢獄生活が続けば冬服も必要になる。荷物はもどってこない。
植村氏は死を覚悟し始め、遺書をしたためました。
同じく拘留されたままの外国人たちも、衰弱し、病気になっていきます。

看守に葉書を買ってもらい、知人や故郷、兄のいる朝鮮へ便りを書きます。自分がクレーフェルトの牢獄にいることを報せれば、ここから出してくれるはずだ、という望みをかけて。

捕虜となった彼らは牢獄での雑用をしていましたが、植村氏だけは頑なに拒否していました。
保護検束の身である自分が、どうして罪人の仕事をできようか、という矜持があったのです。


恩人ミューレン

8月30日。たくさんの外国人が牢獄に入れられます。そのなかのひとりにベルギー人のミューレンがいました。
入れ替わるようにして、9月1日、ラビスエールはロシア人兄弟とともに、牢獄を出ていきました。そしてどこへ収容されたのか、植村氏は知りません。おそらく、警察署の牢獄よりもさらに待遇の悪い収容所へ入れられたのだろう、と推測します。
去りぎわ、ラビスエールの目には涙が光っていました。

カーレス・ミューレンは義侠心が厚く、彼の伯父が賄賂を番人に贈ったことで、牢獄での生活は良くなります。雑用はほかの囚人がこなし、番人はお使いを忘れず、肉も食べられるようになりました。
しかもミューレンは差し入れを、植村氏と等分してくれ、衰弱していた身体はたちまち回復しました。
当初は断るも、「何の縁か、たがいに身に覚えのない罪で牢獄生活をしている。私たちは兄弟だ。だから遠慮は要らない」と。
しかし牢獄での監視は厳しくなり、散歩すら許可されません。なぜなら、ミューレンはベルギーの士官だと誤解されていたからです。彼の父はドイツ人でしたが、フランス語が堪能なことでスパイと疑われたのでしょう。

いつも一緒にいたことで、ふたりは親しくなります。差し入れのトランプや、紙でチェスの駒を作り、対戦をしました。たいてい、植村氏が勝利しました。
差し入れのなかには便箋もあり、それで故郷へ手紙を書くよう、ミューレンに勧められます。看守ではなく、ミューレンの叔父の使用人に託し、オランダから投函すれば、確実に日本に到着するだろうと。
もし発覚すれば、ミューレンの立場が悪くなります。始めは断ったものの、彼の熱意に感謝して手紙を書きます。

9月6日。
ミューレンは牢獄を出され、どこかへ連れて行かれました。ベルギー人士官と疑われている彼の身を、植村氏は案じるものの、どうすることもできませんでした。

入れ替わるように同房したのが、ベルギー人のベルトラントです。
彼はドイツ人でしたが、ベルギーにいる親戚の家督を継いでベルギー人になったため、拘留されました。
紳士で教養のあるベルトラントと植村氏は話が合いました。彼は日本にも興味を持っており、刀について話します。
そんな彼には婚約者がおり、拘留されたことで失業してしまい、これからどうやって暮らしていこうか、と悩んでいました。
植村氏は「両親がいるじゃないか」と言うものの、ドイツ人であるベルトラントは「西洋では結婚に親の許可は要らない。独立しているのだから、生計を背負う義務はないのだ」と、教えるのでした。

医師である植村氏は、次第に牢獄仲間や看守から尊敬されるのでしたが、芸人の野田は無教養のあまり、西洋人連中にバカにされていました。
それが同じ日本人として不愉快だったと、植村氏は書いています。


植村氏、抑留の日々~2