イヴァン雷帝1~若き皇帝のロシア改革(イヴァン4世)

イヴァン4世
イヴァン4世の裁定

イヴァン4世は、初めてロシアを統一したロシア皇帝(ツァーリ)です。
16世紀なかばに活躍したイヴァンは、ロシアの英雄として知られる反面、残虐非道な支配者でもありました。あまりの恐ろしさに人々は、モスクワ大公イヴァン四世を、雷帝と呼んだほどです。

1.不遇な少年時代

1530年、モスクワ大公ヴァシーリー三世(ワシーリー三世)と、2番目の妻である公妃エレーナとのあいだに、イヴァンは生まれました。1番目の妻サロメヤは子を産めなかったという理由で、無理やり修道女にされ、離縁されたたのです。
その2年後、弟のユーリーが生まれ、大公家は安泰かと思われたのですが、ヴァシーリー三世は突然、腰に腫瘍ができてしまい、大量の膿を出しながら死んでしまいます。

残された大公妃エレーナは、叔父と愛人を摂政にして統治をするも、先代大公によって特権を削がれた大貴族たちが権力闘争を始めます。そのなかには、先代大公の弟たちもいました。
玉座を狙う義弟たちを恐れ、エレーナは牢獄に入れて、餓死させます。それに反発した大貴族たちの陰謀により、突然、エレーナは死んでしまいます。だれもが毒殺だろう、と思いました。
そのとき、イヴァンはまだ8歳の少年でした。

まだ幼い君主を舐めていた大貴族たちは、権力闘争に明け暮れます。かつての寵臣たちを牢獄に入れ、毒殺し、裏切り、宮殿には奸計がはびこっていました。
ある時、たったひとりの信頼していた乳母まで、獄死した寵臣の妹という理由で、遠方の修道院に送られてしまいます。
孤独になったイヴァンとユーリーは、いつ捕らえられるかと恐怖しながら、ひっそりとすごします。同時に、毒薬と絞首台と剣を手中に収めれば、彼らを支配できるのだ、ということを学んでいきました。

大貴族たちの血にまみれた権力闘争に囲まれているうちに、イヴァン自身も残忍な少年に成長しました。高い塔の上から、子犬を落とす遊びを楽しみ、小鳥を捕まえてはナイフで目玉をえぐり出し、腹を割いて内蔵を取り出すことに喜びを見出しました。
臣下である大貴族たちは、イヴァンとユーリーにまともに食事を与えず、服も粗末、父の財宝をすべて盗みました。幼い君主を利用しようと考えていたのか、命は奪われませんでした。

13歳のとき、大貴族たちをクリスマスの宴に招待し、彼らの蛮行を大公として咎めます。もっとも罪が重い者をひとりだけ死刑に処し、これでおまえたちを許そう、と言いました。
大貴族たちが反発して、今度こそ、命を奪われるかもしれない――。
大貴族たちは成長したイヴァンに驚くものの、うやうやしく従います。イヴァンは賭けに勝ったことで、大公としての自信をつけ、昼は狩猟で遊び、夜はひたすら聖書を読み、勉学に励むのでした。

イヴァン4世

2.ロシア皇帝イヴァン四世の改革

当時のロシアの大貴族はそれぞれが古くから領地を所有し、大公に負けず豪華な生活をしていました。彼らは誇り高く、簡単に君主の言うことをききません。
商人は中国等、アジアと取り引きをして富み、教会は広大な領地と農民を所有し、信心深い民衆から喜捨をされ、裕福な生活をしていました。
いっぽう、ロシアのほとんどを占める農民や労働者は、教会と領主の重税に苦しみながら貧しい生活を強いられました。行軍中の軍隊を養う義務もあります。
迷信と東方正教会への信心深さが、ロシアの人々の生活とともにあり、西ヨーロッパ諸国ほど文化が進んでいませんでした。

ローマ帝国皇帝を直系の子孫とするリューリク王朝。その末裔であるイヴァンは、皇帝(ツァーリ)として君臨し、ロシアを帝国にすることこそが神の啓示だと、臣下である大貴族たちに告げます。
大貴族たちは「大公と皇帝に何の違いが?」と疑問に感じるも、その後に控えている花嫁選定を進めるために、賛成します。もし自分の親族から皇帝の花嫁が選出されれば、大出世が約束されるからです。

1547年、モスクワの寺院で聖別式が府主教によって行われ、イヴァンはロシアの専制君主として戴冠します。
その後、すぐにロシア中から花嫁候補千人が選ばれ、さらに選抜されたなかから、イヴァンはお気に入りの令嬢を見つけます。
同年、イヴァンとアナスタシア・ロマーノヴアが結婚をします。彼女はのちのロマノフ朝の家系の娘でした。

皇帝になったイヴァンは権力に酔いしれ、気まぐれに臣下を罰します。彼らの絶望した顔を見るのが楽しかったのですが、モスクワが大火に見舞われたことで、神の懲罰だと恐れます。
民衆は普段、虐げられた恨みを晴らすように、火事のさなか貴族たちの邸宅を襲い、奪略しました。彼らは支配者である皇帝とその寵臣たちを憎んでいました。

皇后アナスタシア

改悛したイヴァンは、さまざまな改革を進めます。

まず民衆から嫌われていたグリンスキー一族を権力から遠ざけ、選抜者会議(イズブランナヤ=ラーダ)と呼ばれる新しい会議を設けます。賢明で穏健、献身的として知られる僧侶と貴族が選ばれました。
特に重用したのは、司祭シリヴェストルと、頭角を現した貴族士官、アレクセイ・アダーシェフ青年です。ほかにアンドレイ・クルスプキー等。彼らは皇帝の相談役として、そば仕えました。
残忍なイヴァンでしたが、妻のアナスタシアの献身的な愛情によって、冷酷な君主としての一面が抑えられました。悲しむ妻の顔を見たくない、と。

大火で焼けたモスクワの町を再建したあと、1550年に全国会議(ゼムスキー・ソボール)を開きます。全国から僧侶、貴族、大官吏ら、代表が宮廷にやってくるのですが、実際はかたちばかりの会議で、君主の決定事項の拝聴でした。
会議のあと、皇帝は彼らを引き連れミサをし、クレムリンの広場で大勢の人々の前で話します。
おのれの罪を悔い改めつつ、幼いときの不遇――貴族たちの仕打ちや裏切り、強欲さを語り、彼らが君主の教育をないがしろにし、国を乱したのだと。
それはいつも臣下の前で話していたのですが、民衆の前で話すのは初めてでした。そうやってイヴァンは、人々の不満を大貴族のみへ向けさせようとしたのです。

私はおまえたちの信仰と私への忠誠をかけて誓う。今後は弾圧と掠奪からおまえたちを守る。過去のことは寛大な心で忘れ、神の御心と愛とともに一団となろうではないか。私がおまえたちを裁き、守る者となろう。

イヴァンはそう演説し、民衆たちは感激します。キリストの再来だ、と。
虐げられてきた人々は、皇帝を崇め、涙を流すのでした。

さらにイヴァンは改革を進めます。
地方ごとにバラバラだった法典を統一し、中央集権化します。地方裁判所を復興させ、裁判官は中央の官吏と地方で選ばれた司法官を任用。司法組織の最高法院をモスクワとし、処罰に関しての刑罰を定めました。(現代の感覚では、窃盗や詐欺でも死刑だからかなり厳しい刑罰です)
しかしロシアには昔から袖の下――賄賂がはびこっており、罪を犯しても修道院に逃げ込む者はたくさんいました。

各地方の要所要所へ、中央から平民の役人を派遣し、司法、行政、財政の行政を務めさせます。こうやって、貴族たちの特権をじょじょに奪っていきました。
この改革によって、人々はロシアが中央集権の国だと認識するようになりました。頂点に君臨する皇帝が、国を統治しているのだと。

そしてもう一つの懸念だった、教会を改革します。
当時、西ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れており、東方正教会の威厳をさらに上げることで抵抗しました。府主教はじめ、聖職者を宮廷に呼び、教会の活動を改革する『百章(ストグラーフ)』を渡します。
風紀の乱れをただし、祈りの正しい方法、祭事、男色の禁止、娯楽の禁止、ひげ剃りの禁止、外国服の禁止……等など。それらを守らない者は異端だ、と。

当時のロシアでは字を読める僧侶はごくわずかしかおらず、ミサの内容は暗記していました。なぜなら、印刷用の輪転機を作っても、悪魔の道具だと人々は恐れ、壊したからです。
手書きだと誤りが多く、効率が悪い。印刷機を普及させるには、僧侶たちの教育がまず先だと考えたイヴァンは、宗教会議で、統一した教育制度を提案します。読み書き、計算、聖歌、宗教の教育を、教区長と書記官が運営する学校で学ぶことになりました。

教会の巨大な権力と落とすため、教会の土地を皇帝へ返還するよう、イヴァンは意見するも、さすがにそれは不敬だと、主教たちは猛反対します。折衷案をとり、今後、土地を取得するさいは、皇帝の許可が必要になりました。

あとは、貴族階級を根本的に改革するため、大貴族たちの下に位置する勤務貴族から、千人の有能な青年貴族を選び、皇帝の親衛隊にしました。彼らは毎年春になると、与えられた土地へ移動し、そこで農民を引き連れて土地と行政を管理します。
そうして少しずつ、大貴族の特権を削ぎ落としていきました。
しかし、奴隷のような苦しい生活がいやになり、農民たちは森へ脱走したといいます。


1.若き皇帝のロシア改革

2.領土の拡大と大公妃の死

3.疑心と恐怖政治

4.息子の死と崩御