3.カザン攻略
内政改革を進めるいっぽう、イヴァンは周辺諸国の情勢にも目を配っていました。
隣国のスウェーデン、ポーランド、そして一番の悩みの種は異教徒の国、タタールでした。ロシア領内を何度も侵入し、イヴァンをいらだたせます。
そこで1547年、カザン征服を実行。
自由民の終生銃部隊、農民から徴募された兵士部隊、花形の騎兵部隊、そして貴族将校が主流でしたが、イヴァンは功績によって昇格できる制度に変えます。外国人傭兵も導入。
生まれではなく、実力で司令官に抜擢されるため、ロシア軍は以前にはない強さを発揮するようになります。
これでタタール軍を降伏させられる、とイヴァンは思ったのですが、ヴォルガ河の凍結した氷が裂け、兵士も馬も食料も大砲も飲み込まれてしまい、撤退します。
1549年、二度目のカザン征服。
投石器、大砲を使って町を襲撃しますが、城壁はびくともしません。雪解けの悪天候で全てが流され食料も失い、撤退を余儀なくされます。
仕方なくカザンにほどちかい小さな要塞を攻略し、次回に備えることにしました。
1552年、三度目の征服に出発したイヴァンは、カザンに到着するとミサを捧げます。神を描いた軍旗、僧侶の祝福――これは神の代理としての聖戦なのだと。
町を襲撃しますが、タタール人の抵抗に敵わず、苦戦します。嵐が吹き荒れ、糧食を失い、ロシア軍は後退。
撤退をしたくないイヴァンは兵士たちを鼓舞します。水源を爆破し、巨大な木の塔を作って60台もの大砲を乗せて攻撃。さらに地下道を掘って、町をあちらこちら爆破します。
そして総攻撃をし、大勢の犠牲者を出しながら、ついにカザンの城を陥落しました。
ロシア兵たちは同時に奪略も行い、市場の金銀細工や、女子供と捕まえ奴隷として売り飛ばします。
降伏した王や後宮の女たちはキリスト教に改宗し、カザンはロシアの領土となりました。
ロシアでは、大公みずから戦地で指揮をとることはなく、安全な後方でひたすら祈りを捧げるのが伝統でした。だからイヴァンも、兵士たちを鼓舞することはあれど、戦場で戦ったことは一度もありませんでした。
4.病魔とイギリス遠征隊
カザンを攻略したことでロシアの宮廷は盛大な祝賀ををします。神の意志によって勝利したのだと、イヴァンは確信したものの、タタールは反乱をおこします。
そんなおり、イヴァンは突然、高熱を発し、病に倒れます。助からないかもしれない、と覚悟した皇帝は遺言書を作成します。生まれたばかりの息子を摂政し、国を治めるようにと。
しかし大貴族たちは幼い皇帝ではなく、有能なイヴァンの従弟を次期皇帝にしようと画策します。
その結果、2つの派閥に分かれ、大貴族たちは牽制しあいました。幼い皇子を摂政派と、従弟ウラジミールを次期皇帝派です。
イヴァンはおのれの枕元で宣誓させようとするのですが、側近のほとんどは黙って見守るだけでした。そのなかには、信頼厚い補佐官たちも含まれていました。司祭シリヴェストル、アレクセイ・アダーシェフです。
彼らはどちらの陣営につくか慎重になるあまり、中立の立場を取っていました。
死ぬ――と思われたイヴァンでしたが、奇跡的に回復します。
玉座を狙っていたイヴァンの従弟ウラジミールは、へりくだり媚びた眼差しで、皇帝の健康を喜び祝いました。
イヴァンは裏切った側近たちを密かに憎みます。皇帝の片腕だったシリヴェストルとアダーシェフへ、以前のように打ち解けて話すことはなくなりました。
アナスタシアも警戒し、よそよそしくなります。それでも国政のため、皇帝夫妻は彼らを処罰することはありませんでした。
一命をとりとめたイヴァンは、妻と赤子の息子を連れて巡礼の旅に出ます。神への感謝を捧げるためでした。
赤子にはまだ旅は早く死んでしまうかもしれない、と側近のアダーシェフは忠告するも、無視をして出発。しかし本当に長旅に耐えられず、皇子は死んでしまいます。
わが息子が死んでしまったのは、アダーシェフたちが魔術をかけていたからにちがいない。予言が成就したではないか。
イヴァンはそう思いこみ、さらに憎しみを募らせるのでした。
1553年、東方の蛮族の侵略に頭を悩ませていたころ、突如、イギリスのヒュー・ウィロビー卿遠征隊の船が、北海に寄港します。インド航路を探していたものの、嵐にあい、その一隻だけが奇跡的に残ったのでした。
イギリス人リチャード・チャンセラーは、エドワード六世の親書を携え、モスクワへ橇で移動します。宮廷にいる皇帝に謁見し、通訳がラテン語の手紙を読み上げました。
商人の旅が自由にできるよう厚い保護を頼み、ロシア皇帝を讃える友好的なイギリス王の言葉に、イヴァンは感激します。食料と燃料の補給を約束し、大宴会でチャンセラーたちをもてなしました。
チャンセラーが帰国するさい、イヴァンは「兄にして従兄エドワード」と書いた手紙を託します。
チャンセラーは「モスクワの王宮はまるで教会と隊商の住処のようだ」とのちに語っています。豪奢できらびやかな反面、洗練されておらず、絵画の一枚もない。鏡もない。あるのはイコン(宗教画)ばかり。香と蜜蝋と灯油が混じった匂いに包まれていた、と。
1555年、イギリス女王メアリの親書とともに、イギリスの商船がロシアにやってきます。両国の交流の始まりでした。
5.リヴォニア制圧
イギリスとは友好的だったものの、隣国ポーランドとは不仲でした。ポーランド国王ジグムント=アウグストは、親書の宛名を決して皇帝ではなく、「モスクワ大公」とし、ロシアの皇帝として認めませんでした。
その態度にイヴァンは腹を立て、「リトワ大公」と親書を返し、その応酬でさらに亀裂が入ります。
そもそも両国はキエフの領地をめぐり、昔から不仲でした。
タタールがクリミアが撤退したのを機に、積年の夢であった不凍港を得るため、バルト海のリヴォニアを征服することを、選択者会議でイヴァンは発言します。
皇帝の野心に側近のシリヴェストルとアダーシェフは猛反対。まずは異教徒の平定だと意見するも、イヴァンは彼らを追い出し、自分の思うままに強行します。
1558年、ロシア軍はリヴォニアへ侵攻し、領土を拡大。生き残った人々はカトリックから東方正教会へ改宗しました。
リヴォニアの騎士団長ケスラーは、神聖ローマ帝国、オスマン・トルコへ援軍を求めるも、果たされず、ポーランドからも無視をされたことで、リヴォニアは確実にロシアのものになりました。
そもそもリヴォニアは、他国からしてみれば戦争の火薬庫のようなもので、大国と戦争をしたくない思惑があったのです。
リヴォニアを手に入れ、皇子イヴァンに続き、皇子フョードルが誕生したことで、イヴァンは幸福の絶頂にいたのですが、アナスタシアが病に倒れてしまいます。
六度目のお産のあとから、体調を崩していた大公妃は、1560年に亡くなりました。
イヴァンは嘆き悲しみ、妻の葬儀では弟に支えられないと、まともに歩けなかったほどでした。
1.若き皇帝のロシア改革
3.疑心と恐怖政治
4.息子の死と崩御