世界一周を競ったふたりの女性記者2

3.エリザベス・ビズランドの旅


アメリカ大陸横断とエリザベスの後悔

ニューヨークのグランド・セントラル駅を夕刻、出発したエリザベスは、シカゴへ向かいます。一等客室のあまりの豪華さに、戸惑いながらも旅を始めました。
シカゴの駅に到着したときは夜遅く、コスモポリタン社が寄越すはずの迎えはありませんでした。
周囲は知らない人々ばかり。たった一人のエリザベスは孤独感に襲われます。仕方なく、軽食堂で夕食をすませたあと、オハマ行きの列車に乗り換え、旅を続けました。
当時、女性がひとりで外食をするのは、非常識とされていました。エリザベスは居心地の悪さを感じながら、駅をあとにします。

オハマに到着後、郵便急行列車に乗り換え、オグデンへ出発。遅れを取りもどすため、熟練の操縦士が猛スピードで列車を走らせます。
車内は揺れ、乗客たちは船酔い状態。あまりの乗り心地の悪さに、エリザベスは旅を始めたことを後悔するのでした。

今頃、わが家のアパートでは、姉が温かい食事を作って食べ、友人たちはお茶会で楽しいおしゃべりをしているはず。
そもそも始めから乗り気でなかったエリザベス。
突然、社命で旅をすることになり、その日の夕刻に出発。おまけに会社が案内をよこさず、孤独な旅を強いられる。
ライバルだという、ワールド社の女性記者のことなど興味はない。なのに、新聞は自分たちのことを書きたて、いやでも世間に知られてしまう。
しかし社命を拒否すれば、仕事はなくなるだろう。世界一周が成功すれば、二年間は特別待遇で高報酬が約束される。

旅を始めてサンフランシスコに到着するまでは、自分でも何をしているかわからない状態だった、と彼女は語っています。


太平洋横断、横浜に感銘。そして香港

サンフランシスコのパレスホテルに宿泊したあと、エリザベスはオセアニック号に乗船します。行き先は日本の横浜でした。
太平洋横断の旅は非常に単調で、何日も青い海ばかり。だから同乗した女性客たちとおしゃべりをし、退屈を紛らわせます。ピアノや読書、ゲーム、手芸等。
当時、女性から男性に話しかけるのは、はしたないとされていたのもあり、エリザベスの友人は女性ばかりでした。
(といっても、進歩的なネリーはしょっちゅう男性と会話する描写がありますが)

客船は嵐に遭遇しつつ無事、横浜に到着。途中、富士山の威容を目にし、エリザベスは感激します。それぞ、日本の神の山だ、と。
そして下船してからも、美しい日本の景色や小物、料理、清潔で礼儀正しい人々に感銘を受け、おみやげをたくさん買い込みます。荷物の少ないネリーとちがい、女性らしいエリザベスは大きなトランクを持参していました。

そんな日本の文化にも一つだけ違和感があったのが、人力車です。
馬でなく、人が車を挽くなんて!
ネリーも香港で驚愕していましたが、エリザベスも同様でした。

日本を気に入ったエリザベスは、世界一周旅行を終えた後年、長期滞在で訪れています。

横浜を出航して、次の目的地、香港へ到着したあと、エリザベスは友人のドイツ人夫妻の屋敷に滞在します。
丘の上に立つ高級住宅街には、8000人ほどの外国人が住み、その眼下に広がる街には16万人もの中国人が住んでいたといいます。
住宅街にはテニスコートもあり、まるで小さなイギリスがそのまま再現されたようでした。
エリザベスは香港の雑多で混沌とした活気に目を見張り、大英帝国の威光を感じ取りました。世界中、どこへ行ってもはためくユニオンジャックに。


シンガポール、コロンボ、アデン、イタリアへ

香港からシンガポールへ向かう客船テムズ号で生活するうちに、エリザベスは自分は旅が好きだったのだ、と思うようになります。
ゆったりと穏やかに過ぎていく時間、美しい自然と景色、母国とちがう熱帯の暮らし、空、山、海の色……。
船ではイギリス料理が出され、ディケンズの小説に登場したメニューを楽しみます。同船しているイギリス紳士たちの多彩なアクセントに、アメリカ南部の男たちにはない優雅さに惹かれました。

シンガポールに停泊したその日、ホテルに宿泊。夕食にカレーを食べ、部屋に泊まった夜、巨大ネズミがエリザベスの服をかじります。追い払うことができず、仕方なくそのまま放置しました。

翌日はシンガポールの街を観光し、テムズ号に戻るのですが、船倉につれていく途中の囚人が逃亡します。海を泳ぐも、ボートに乗った船員に捕らえられました。それで出航が遅れましたが、それについてエリザベスは特にコメントしていません。

セイロン島のコロンボでブリタニア号に乗り換え、イタリアのブリンディジを目指します。途中、アデンに停泊し、夜に街を観光します。

岩山だらけの乾いた都市でしたが、エリザベスは神秘的な光景に感動します。アデン・タンクという、古代人が掘った巨大な貯水池の描写は、神話混じりで書かれています。
歴史に思いをはせ、この旅の日々は記憶として、いつでも再会できるのだ、とエリザベスは嘆息しつつ、本当の人生を生きてみたい、と思うのでした。


ロンドン、不運続きの大西洋横断

ブリンディジからインド郵便列車に乗り込みます。税関の荷物検査に遅れが生じ、間一髪で間に合いました。
エリザベスの当初の計画では、パリを経由して、ル・アーブルの港で高速蒸気船に乗り換える予定でした。しかし、行き違いがあり、郵便列車が遅れたために蒸気船はすでに、出発したというトマス・クック社の代理人から聞かされます。
急遽、予定を変更して、ロンドンへ向かうことになりました。

しかしそれは誤報で、実際に高速船ラ・シャンパニュー号は三時間もエリザベスの乗船を待っていたのです。その遅れは損害訴訟に発展しかけました。
結局、誤報の原因は後日になっても判明しませんでしたが。

ドーバー海峡を渡り、ロンドンに到着。そこから急いで、帰国の手段を探すのですが、最悪なことに、大西洋を横断する船は航行を取りやめ、来週へ延期となっていました。

なんとか手段を確保しようと、列車でアイルランドのホーリーヘッドへ向かいます。それまでの間、食欲がなくあまり眠れませんでした。
当初は乗り気でなかった旅でしたが、ここまで来るとどうしてもネリー・ブライより早く、ニューヨークに到着したくなったのです。それだけ、旅は充実したものでした。

不運は続き、アイルランドの天候は荒れ、ホテルの厨房が故障していたため食事は冷たい紅茶と固いパンだけ。
天候が悪く、食料も乏しく、活気のない人々の様子に、エリザベスは実感せずにいられませんでした。貧しさのあまり、人々がニューヨークへ移民をしたのだと。
三日ほど待って、ようやくボスニア号に乗船したとき寒さと空腹で疲れ果てていました。

さらに不運が重なり、大西洋を航行する船は絶えず冬の嵐に見舞われます。
コスモポリタン社は「エリザベスが誤ったルートを選んで帰国したからだ」と言ってましたが、実際は西廻りの航路が原因でした。
ネリーが大西洋を横断した11月はまだ嵐は少ない時期ですが、1月、大西洋の航路は荒れます。
不快な旅をようやく終えたエリザベスは、ついに自由の女神を見たのでした。

4.ゴールとその後のふたり


勝者、ネリー・ブライ

フィラデルフィアに列車が到着するなり、駅で待っていた群衆にネリーは大歓迎されます。そのなかに母親がいました。親子はしっかり抱き合い、感動のシーンを迎えます。
ニュージャージに向けて出発した列車内では、ワールドの編集局長を始め、親族、市長の祝電、保険会社、新聞社、鉄道会社……たくさんの人々に祝辞されます。

ジャージシティの駅には、一万五千人もの群衆がいて、誰もがネリーをひと目見ようと押し寄せます。まるで黒い高波のよう、だと書かれています。
ネリーがホームに降り、ワールド社がストップウォッチを止めると、旅は終わりました。72日と6時間11分14秒が世界一周最短記録として記されます。

ヴェルヌの書いた架空のイギリス人フォッグの記録を破ったことで、さらに群衆は興奮し、暴徒化寸前までいきます。「ネリー・ブライ、万歳」の声援とともに。
市長の祝辞が終わり、馬車に乗ってフェリーに向かい始めると、どっと群衆に取り囲まれ、身動きができないほどでした。
混乱のなか、なんとかニューヨークのワールド社に戻ったネリーの姿に、ブロードウェイは大混雑します。人が押し寄せ、馬車が通る大通りにも群衆があふれるほどでした。

レースに勝利したネリーは、一躍有名人になります。旅は劇や歌になり、ネリー・ブライの名前が入った広告が多数作られ、一番の人気は旅を再現した、ボードゲームでした。
あまりにも有名になりすぎ、帰国後しばらくネリーは仕事ができなかったほどです。何をしても注目され、混乱を引き起こしました。

旅の講演を依頼されたネリーは、アメリカ中を旅します。始めは大盛況だったのですが、やがてマンネリ化。だんだんと空席が目立つようになり、大衆紙はあることないことを書き立てます。
ネリーは講演をしながら、再び記者の仕事に戻ると決めたものの、突然、訴訟問題に巻き込まれます。旅をする前、潜入取材をしていたネリーを証人として、ワールド社が呼び戻そうとしました。

しかし公演中だったこともあり、ネリーは拒否。そして旅を終えてからというもの、あれだけの活躍をしたのに、新聞社は何も報酬を出さなかった、と不信感を露わにします。
これにピュリツァー社長が激怒。ネリーはワールド社を辞め、フリーの記者になろうとします。

しかしあまりにも有名になりすぎたネリーには、記者の仕事はできませんでした。どこへ行っても、注目され、目立つからです。
そのころ、執筆した旅行記を出し、ベストセラーになるも、ネリーは大怪我をしてしまい、ベッドから出ることができなくなりました。
おまけに得意なルポタージュができず、フィクション小説の依頼。創作が苦手なネリーは、まったく筆が進みません。
他社から依頼された仕事もままにならず、失意と憂うつに悩まされます。田舎に家を買い、母親とひっそりと暮らすしかありませんでした。

ネリーが世界一周旅行を終えて、わずか一年と一ヶ月あまりのできごとでした。


敗者、エリザベス・ビズランド

大西洋を横断し、ニューヨークの港を降り立ったエリザベスの歓迎は静かでした。わずか数百人の出迎え。姉と抱き合い、ネリーに負けたのだと知らされます。
記録は76日19時間30分。もし、フランスで高速船に乗り換えることができたら、記録はネリーより早い、71日でした。

春、エリザベスはコロンボで知り合った令夫人の屋敷で過ごすため、イギリスへ出発します。一年間滞在したことで、エリザベスは大衆の熱狂から逃れます。
令夫人を通して上流階級の社交界に出入りし、新聞にも書かれますが、肝心のエリザベスは「退屈でつまらなかった」と、書いてます。


その後のエリザベス

結婚したエリザベスは二十年ほど、穏やかな生活をします。新聞や雑誌にコラムを書き、本を数冊出版し、家事をこなします。
しかし夫チャールズが精神病に罹り、生活が一転。療養を兼ねて再び、東洋へ旅行をします。昔と変わりつつある光景と人々を残念に思いつつ、日本に長期滞在しました。

夫の病状は良くならず、イギリス南部へ移住するも、第一次世界大戦が勃発。大勢の負傷兵を手当するエリザベスは、悲しみに沈みます。
イギリスにいても心休まらず、エリザベスとチャールズはアメリカのワシントンに帰国。看病空しく、療養所に入れられた夫はついに亡くなります。

夫の死を悼みながら、エリザベスは余生をすごしました。郊外の小さな一軒家で生活をしながら、執筆活動を再開します。亡くなる67歳までそれは続きました。


その後のネリー

27歳のとき、記者に復帰し取材をするものの、表舞台に立つことはありませんでした。ネリーが世界一周旅行を達成したことで、新聞社はこぞって女性記者を雇うようになり、彼女たちの記事が注目されていたのです。

そんな折、ネリーは列車でシカゴへ移動中、ある紳士と出会い、電撃結婚します。その相手は70歳。鉄鋼会社の社長でした。明らかな玉の輿狙いの結婚に、世間は非難するのですが、ネリーは何もコメントしていません。
それでも幼いころから、裕福な紳士と結婚したいという夢が叶ったことには違いありませんでした。

しかしまたもや、ネリー・ブライの高名が彼女を窮地に陥らせます。経営に興味がなかったネリーは、一切の経理を部下に任せていたのですが、彼らはネリー・ブライの名を使って、会社の金を使い込みました。
ネリーが気がついた時はすでに手遅れ、破産するしかありませんでした。

裁判から逃れるため、ネリーはオーストリアへ5年ほど移住します。
そして帰国するなり、今度は母親と兄に訴えられ、勝訴するものの、すでに鉄鋼会社は倒産していました。
兄が母をたきつけ、ネリーが友人に預けた株を取り戻そうとしたのです。

ニューヨークに戻ったものの、母と過ごすことができず、無一文になったネリーは記者の仕事を再開します。
時代は進み、思うように活躍できなかったものの、イヴニング・ジャーナルの記事は評判になります。おもに貧しい人々を取材し、苦境と貧困問題を扱いました。
ホテルに住み、報酬や寄付を使って、ネリーは貧しい人々を救おうとします。
食べ物や衣類を与え、捨て子の里親を探す活動をしました。

慈善活動をこなす日々でしたが、若い時の無理がたたり、肺炎にかかったネリーは急死します。57歳でした。


参考文献

ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む―4万5千キロを競ったふたりの女性記者
↑ネリーとエリザベスの旅の描写、当時の女性記者の境遇、19世紀末のアメリカ社会、がたっぷりと書かれています。


世界一周を競ったふたりの女性記者1
世界一周を競ったふたりの女性記者2