世界一周を競ったふたりの女性記者1

自由の女神

1.ふたりの女性記者

1889年11月14日。
ふたりの女性記者が、世界一周の旅に出発します。
ニューヨークから大西洋を横断する東廻りの旅は、ネリー・ブライ。
同じくニューヨークから、アメリカを横断し、太平洋へ向かったのは、エリザベス・ビズランド。

ネリーは25歳で、ワールドの記者でした。
ペンシルバニアの名士の家に生まれたのですが、幼い時分に父を失くし、母と兄弟とともに貧しい生活を余儀なくされます。20歳の時、女性の領分についての新聞記事に憤り、投書をします。それがきっかけとなり、新聞記者として働くようになりました。

行動的で負けず嫌いの反面、適応力が高くだれとでも仲良くなれた性格が、彼女を世界一周旅行へ駆り立てます。編集長へ提案し、当時の最速日数を目指して旅行を始めました。

女性がひとりで世界一周旅行など、当時は非常識そのもの。しかもジュール・ヴェルヌの小説よりも早く、80日未満で世界を周る。
もし成功すればワールド社の宣伝になるし、何より女性記者の地位向上が望める。
ネリーは女性が活躍できない男社会のマスコミ界に苛立っていました。

エリザベスは28歳で、コスモポリタンの記者でした。19世紀当時は、社会派雑誌で、現在のようなファッション誌ではなかったそうです。

南部の農園出身のエリザベスは、ネリーと対照的な控えめで知的な女性記者でした。文学に造詣があり、書評やエッセイ、詩、特集記事を書いて生活していました。南北戦争によって家が没落し、やむを得ず新聞記者として働きます。

ネリーが出発したその日、出版社から呼び出され、ライバルとして世界一周旅行をするよう命じられたのですが、すぐに承諾しませんでした。
しかし、強く説得され、すぐに支度をすませると、その日の夕方、シカゴ行きの列車に乗りました。

もしネリー・ブライに勝利すれば、出版社のいい宣伝になる。
そう、社長は目論みましたが、肝心のネリーはライバルが出発したことをかなりあとになって知ります。



男社会だった記者の世界

飛行機に乗ってだれでも短時間で世界旅行できる現在とはちがい、19世紀末は船旅の時代でした。
そして女性が単独で旅行をするには危険が多く、「旅には保護者が必要」という偏見がありました。身支度を調えるための荷物の多さも問題です。ネリーが当初、提案したときも社長に反対されています。

女性記者がオフィスで働くことはほとんどなく、書く記事は家庭向けでした。レシピ、パーティ、上流階級の社交界、ファッション、レビュー、家庭医学など……。
いわゆるニュース記事は男性記者が書き、オフィスのなかは乱雑で飲酒煙草、怒号が当たりまえの荒々しい職場でした。それもあって、女性記者は家で書いた記事を、出版社へ送るのが普通でした。

当時、アメリカの女性記者の割合は、わずか2%だったといいます。さらにそのなかでニュース記事を書いている女性記者はほとんどいませんでした。女性が男ばかりの職場で働くのは、無理だと思われていたのです。

しかしネリー・ブライは持ち前の行動力と機転で、精神病院に潜入取材をして成功。記事は評判となり、社長に認められます。
女性の地位向上を目指すため、女性たちの苦境をたびたび記事にしました。それでも女性記者は家庭向けの記事を書くよう、強要され、仕方なく書いたこともありました。
もちろん、賃金も男性記者よりずっと少ないのでした。

2.ネリー・ブライの旅

出発する直前までネリーはパスポートを持っていませんでした(!) 急遽、記者がワシントン・DCまで行き、発行したばかりの仮パスポートを持って、ニューヨークに戻ります。出発の4時間前でした。
世界一周を旅する服を誂えるため、ネリーは仕立て屋にかけこみ、わずか5時間でドレスを新調します。通常、数日かかるというのですから、この旅が入念に計画されたものではない、ことが分かります。

そして、荷物は丈夫な革製の手提げ鞄がひとつだけ。女性は荷物が多くないと、旅行ができない、という常識を破るために、あえて軽装にしました。
鞄の中味は鉛筆、ペン、紙、インクはもちろん、下着や寝間着、ハンカチ、水筒、コップ、裁縫道具、化粧品等です。替えのドレスは鞄にどうしても入らず、紺色のドレスと千鳥格子模様のコートで旅をします。


大西洋を横断してヴェルヌに会う

ニューオリンズのホーボーケン港から客船アウグスタ・ヴィクトリア号に乗って、出発。大西洋を横断して、イギリスへ向かいます。サウサンプトンの港からロンドンへ向かうルートです。
大型旅客船は一等、二等、三等に部屋が分かれており、ネリーは一等客室でした。料理も豪華で同乗する客たちもお金持ちばかり。ネリーは船酔いに悩まされながらも、気丈さで乗り切って船旅を満喫します。

いっぽう、三等客室は労働者や庶民で溢れており、船倉ですごしました。薄暗く、湿気がこもり、嘔吐物が床に散らばったままという、不衛生な環境。寝床がないから、マットレスを持参して、皿や匙、コップも必需品でした。それがないと、配給される料理を食べられないからです。食事はパン、じゃがいも、スープ、オートミールといった質素なものでした。
ネリーがワールド社へ送った記事には、三等客室についてまったく触れていませんでした。

ロンドンへ到着したネリーは、すぐさま正規発行されたパスポートを受け取ります。そして南部へもどり、フランスのアミアンへ向かいました。
当時、『八十日間世界一周』が大ヒット。作家ジュール・ヴェルヌの名を知らない者はいないぐらい有名でした。ネリーはヴェルヌに会える幸運に喜びます。そしてヴェルヌ夫妻は、79日以内にニューヨークへゴールするように、と健闘を祈りました。
ヴェルヌの蔵書室を見学したネリーはたくさんの資料に驚きます。意外にも執筆をする書斎は狭く、ニューヨークの自分のアパートと大差がありませんでした。
61歳のヴェルヌは足を痛めており、自由に旅行ができませんでした。「だから今、書いている作品は全て作り話の想像なんだよ」と言います。妻とは仮面夫婦でしたが、ネリーが訪問したさいは、仲睦まじい夫婦を演じています。

ヴェルヌとネリーの件を掲載したワールド社の新聞記事が、アメリカ中の話題になります。かの高名な作家は、ネリーの旅を一躍有名にさせたのです。

フランスのカレーから列車に乗ったネリーは、イタリアへ向かいました。ブリンディジの港からヴィクトリア号に乗って、エジプトのポートサイトへ出航します。


ネリー・ブライ・レースとピュリツァー

ワールド社はピュリツァーが社長に就任したあと、記事を大衆化したことで売上を5倍に伸ばします。しかし、売上は頭打ちになり、新社屋を建設していたために、莫大な資金が必要になりました。
ネリーの世界一周旅行の企画が持ちあがったのは、新聞の売上を伸ばすためでした。若い女性の一人旅、しかも世界一周を最短など前代未聞。
肝心の記事が郵便でなかなか到着せず、情報は短い電報文だけだったことで、記事がマンネリ化します。現在と違い、海外の郵便は船での輸送でしたから、到着には何週間もかかったのです。

そこで記者たちは、読者を飽きさせないように、ネリーの旅をギャンブルにします。到着日時を予想させ、一番近い応募者へ豪華ヨーロッパ周遊旅行をプレゼント。当時としては破格な賞品でした。
ただし条件があって、専用のクーポンが必要。ワールド社の日曜日新聞を切り取って応募しなくてはなりません。
ワールド社はネリー・ブライの旅を予想レースにしたことで、売上を爆発的に伸ばしました。

そんなことを知らないネリーは、着々と旅を続けます。
スエズ運河を通る船は非常にゆっくりと進み、ネリーをいらだたせます。同船した乗客のほとんどがイギリス人で、恐ろしく面白みのない人たちだ、とネリーは書いてます。

アデンの港に到着しますが、あまりの暑さに外出を控えるよう注意されます。好奇心旺盛なネリーは数人の客たちと、上陸してみたものの、英語で話す物売りや、どこにでも翻るイギリス国旗――ユニオンジャックに嫌悪感がわきます。
アメリカ人であるネリーにしてみれば、世界中を植民地にした大英帝国の威光に反発を覚えたのでしょう。イギリス人と話をしていても、上からの物言いに不愉快な思いをしました。


コロンボから香港

セイロンのコロンボへ到着したネリーは、島の美しさに感激します。東洋の宝石と呼ばれるセイロン島(現スリランカ)の高級ホテルには、たくさんの外国人観光客がいました。美味しい料理を食べ、そのなかで初めて食べたカレーが好物になります。
2日滞在するはずが、ネパール号が遅れに遅れ、オリエンタル号へ乗り換えが終わり、出発したのは5日後でした。その間、観光と芝居見物を楽しみます。
ここで初めて、旅の予定に遅れが出ました。

シンガポールの港に到着するも、ペナン島で中国人労働者のトラブルがあったことで、またも予定が遅れます。郵便規約もあり、24時間、客船は港に停泊する決まりがありました。ネリーは焦燥感に襲われます。

出航までの間、観光をして御者の家に立ち寄ったとき、そこで飼っていたサルをひと目見て気に入ります。旅の愉快なお伴になると思って、買ったものの、ニューヨークに連れて帰ってもずっとなつかなかったそうです。
ひっかき、かみつく可愛くないサルにしてみれば、とんでもない遠い異国に連れてこられたネリーを好きになれなかったのでしょう。
しかし、そのサルがネリーのマスコット的存在になり、肩乗りった相棒として新聞に掲載されます。現実は一度も、肩に乗ることはなかったそう。
「シンガポールの王侯から贈られたの」とネリーは、帰国後、みなにそう語りました。

客船兼郵便船は香港に到着し、予定より2日早かったことで、遅れを取りもどします。日本行きの切符を買い求めたとき、初めて自分以外のライバルが、世界一周をしていることを知ります。
その彼女は3日前に香港を旅立ち、ネリーは競争に負けそうだと、旅行会社の店員は言ったのでした。
寝耳に水のネリーは、驚き、闘争心を燃やします。いつも戦って私は勝ってきたんだ。負けてなるものか、と。

横浜へ出航するまでの5日間、ネリーは香港と広東を観光して気を紛らわせます。人力車に違和感を覚え(人が車を引くのは欧米ではありえない)つつ、街を見て周るのですが、すぐに飽きます。
ならば、と広東まで汽船で移動し、ガイドを雇って見学しました。沙面島、繁華街、処刑場、刑務所、寺院、11616の個室がある試験場の建物(本書では書いていませんが、おそらく科挙の郷試)等。香港にもどったら、山に上ってビクトリア・パークを一望します。

出航前、ネリーは大量にガムを買い求めます。世間では若い女性がガムを噛むのははしたない、とされていたため、新聞社は「ネリーはガムなど噛まない」と答えていたそう。


太平洋横断とアメリカ大陸横断

ネリーを乗せたオセアニック号は横浜を経由して、太平洋を横断します。
当初、旅の目的は秘密でしたが、レースが有名になるとだれもがネリーを見るなり、大歓迎します。オセアニック号の船長は、予定より2日早く到着してみせます、と請け負いました。

4日ほど嵐に見舞われたものの、客船は順調に航行を終えます。
サンフランシスコに到着し、そこからニューヨークまで鉄道を使う計画だったのですが、大吹雪で西部の列車はほぼ運行不可能な状態でした。
困ったネリーでしたが、ワールド社は社運をかけて南部の路線に特別列車をチャーターします。計画では特別便は使わない方針だったものの、列車の運行再開が一週間以上かかるのだから、やむを得ない決断でした。
旅の最短記録更新はもちろん、ライバルであるコスモポリタン社――エリザベス・ビズランドに負けたくなかったからです。

列車で移動中、ネリーは停車駅で大歓迎を受けます。
ホームには晴れ着姿の人々が大勢いて、差し入れや、「青い目のネリー」という流行歌を合唱。もちろん、旅をしているネリーを歌にしたものでした。

あまりの歓待ぶりに、ネリーは驚きます。旅立った当初は、見送りもほとんどなく、孤独な出航だったというのに。
アメリカ中の誰もがネリーに熱狂し、どの駅で停まっても同じく大歓迎、そしてインタビューを何度か受け、時のスター扱いでした。

まるで凱旋行進のようだった、とのちにネリーは語ってます。


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