ピョートル大帝4~最期の改革と女帝エカテリーナ

ピョートル大帝

全ロシアの皇帝――ピョートル大帝

カール12世が戦死し、妹のイウーリカ=エレオノーラがスウェーデン国王に即位します。
女王はロシアと通じていたゲルツ大使を処刑し、全権大使を通じてバルト海沿岸ではドイツを除き、一切妥協しない旨を通達します。

1719年9月、オーランド島で交渉が続けられているというのに、ピョートルはすぐさま報復に出ます。ロシア大艦隊を沿岸に接近させ、軍隊がスウェーデンに続々と上陸。町や工場を容赦なく焼き払うも、スウェーデンは降参しませんでした。
イギリスとウィーンがスウェーデンに協力するも、勝ち目のない戦争には手を貸さず、イギリス艦隊はすぐにバルト海を去ってしまいます。

その間、フランスルイ15世の大使カンブルドンの調停を申し出、カンブルドンがスウェーデンとロシアの間に入って交渉をします。
カール12世の甥であるホルシュタイン公が王位継承権を主張した場合、ロシアはこれを支持しない――という条件を、イウーリカ=エレオノーラの夫でスウェーデン国王となったフレドリックが条件を出すも、ロシアは拒否。
王位継承戦争を恐れたフレドリック国王は、仕方なくロシアの要求をすべてのむことを承諾します。

グレンガム島沖の海戦1720年

1721年9月、ニスタットの和議が結ばれ、リヴォニア、エストニア、イングリア、ヴィボルグ、エーセル島、ダゲーが永久的領土になりました。21年続いた大北方戦争がついにロシアの勝利で幕を下ろしたのです。

ついに念願のバルト海沿岸を手に入れ、ピョートルは欣喜雀躍します。
ペテルブルクは日々、祝宴を開いていは大酒を飲んで大騒ぎ。仮面舞踏会で道化の王を老婆と結婚させて、その床入りをのぞき見する悪趣味な遊びを、ツァーリは楽しみます。

乱痴気騒ぎが終ると、元老院はツァーリの偉業を讃え『ピョートル大帝、祖国の父、全ロシアの皇帝』の称号をかしこまりながら提案。それをピョートルは受け入れ、ピョートル大帝と呼ばれるようになります。

全ロシアの皇帝となったピョートルでしたが、粗暴と奇行は中年を過ぎても変わりませんでした。

なにかにつけて酒宴を催すたび、客たちに強引に酒を大量に飲ませ、老人や妊婦だろうと眠ることを許さずダンスをさせます。途中、皇帝が退室して皇帝のみ数時間の仮眠をとるも、客たちは宴会場を出ることを許されませんでした。
そして、皇帝がもどってくると、無理に酒を飲ませ、踊らせ――老人が死んでしまうことがあったほどです。妊婦は流産しました。
それでも大酒豪の皇帝の杯を断ると、大鷲の大杯にぶどう酒やウォッカを継がれ、無理やり飲ませられます。臣下はもちろん、外交官も皇帝の酒宴を恐れていました。

奇妙なものが大好きだったピョートルは、全国から小人や奇形を集めて自分の近くに侍らせ、死体はアルコール漬けにして博物館に展示しました。
死体解剖にたいそう興味を持ち、内心、嫌がる臣下を連れて、無理やり執刀させます。

料理は質素なものを好み、ナイフとフォークは持ち歩いているものの、ほとんどを手づかみで食べました。麦粥、キャベツのスープ、子豚の煮こごり、きゅうり、塩漬けレモン、ハム……等が好物で、甘味と魚料理が嫌いでした。

とにかく思いつきで質の悪いいたずらを臣下へ仕掛けては、ときに死人を出すも、良心の呵責はまったくなかったといいます。
幼いころから全面的な自由を与えられ、自分の流儀で行動してきたピョートルには、他人が異を唱えることに我慢できなかったのでしょう。
「ドゥビーノ」と呼ばれる皇帝の棍棒を常に持ち、何かあれば可愛がっている臣下たちをそれで殴りました。しかしその後、何事もなかったかのように食事に招待し、あくまでも皇帝なりの愛情であり、お仕置きとして使っていました。
そこがロシアらしい奇妙な風習であり、厳しい体罰を与えないと人々は思い通りに動かないのでした。

女帝エカテリーナ

ロシア皇后エカテリーナ

ピョートルはエカテリーナがいるにも関わらず、次から次へと気に入った女を寝室に連れ込みました。女官から召使いと身分を問わず、目をつけた彼女たちを近くへ侍らせます。エカテリーナの宮殿はまるで後宮のようでした。
目をつけられた貴婦人たちの夫は狼狽するどころか、喜びました。うまくいけば皇帝の種を宿した息子が生まれ、出世できるからです。

しかし、皇帝の愛人である女たちの浮気は、一切、許しません。容赦なく皇妃の手でむち打ちさせ、愛人のために皇妃の宝石を盗んだ女は処刑されました。エカテリーナや皇太后が罪を軽くするよう嘆願するも、無駄でした。

そんなエカテリーナは女たちを嫉妬するどころか、ときには皇帝との仲を取り持ちます。いくら浮気しようが、彼女は夫を許しました。
エカテリーナも皇帝同様、かなりの酒豪で、酔いつぶれることはありません。戦争にも同行し、野営地で兵士たちの英気を養いました。かなりの力持ちであり、怪力の巨人であるピョートルが他国の貴婦人たちに自慢するほどでした。
祝宴の仕掛け花火の輪のなかに皇帝夫妻の名が輝き、愛の証が栄光を讃えます。

しかし卑しい出身であることには変わらず、ピョートルはエカテリーナの家族たち――農夫や娼婦に少額の年金を与え、宮廷から遠ざけました。
そして生まれた息子たちは皆、幼い時分に死んでしまいます。4歳の皇太子ピョートルは、異母兄アレクセイが死んだわずか10ヶ月後に病死します。
アレクセイの呪い――天罰にちがいない、と思ったピョートルは、後継者作るためにエカテリーナ以外の女を愛人にします。そして戦地へ同行させて子作りをするも、流産してしまいました。

落胆するピョートルは息子を持つことを諦めます。
代わりに、長年、愛情生活と政治生活、戦争で自分を支えてきたエカテリーナを戴冠させることに決めました。女性を戴冠させた前例がないと、側近たちは反対するも、皇帝の意志は揺らぎません。

1724年5月、モスクワでエカテリーナ皇后の戴冠式が行われました。それは豪華絢爛そのもので、吝嗇家のピョートルが金に糸目をつけないほど、妻を愛していました。

夏の宮殿

ロシア改革――秩序の確立

ピョートルは言いました。
「1700年~1707年は国力の蓄積。1707年~1714年は国威掲揚。1714年~1721年は秩序の確立。」
「皇帝は専制君主である」
「神が君主に従うことをお命じになる。君主は、自分に託された国民の信じる神に対してのみ、責任を持つ。君主の意志を決定するのは、君主その人であって、彼の回りには助言者および執行者以外の者がいてはならない」

皇帝の補佐官として枢密院を創設。貴族会議に代わって元老院を創設し、最高裁判所を付属させ、立法、司法、行政の三権を把握する組織としました。
従来の官庁(プリーカス)を廃止し、外務、行政監察、国庫収入、国庫支出、陸軍、海軍、司法、商務、産業の9つの参議会を作り、やがて12に増えます。それぞれの参議会は11人の参議官で構成され、スウェーデンを規範としたものでした。

行政監督官庁(オーベルフィスカル)を任命するのは、元老院の役目で「生まれのいかんは問わず、知的かつ善良な人物であることを要し、その職務は、もっとも位の高い者も例外とせず、国民のすべてを、秘密のうちに監察することにある。」

その下につくフィスカルは500名おり、彼らはスパイとして裁判官や官吏たちの汚職や横領を嗅ぎ回って探しました。やがてフィスカルは官吏たちを脅し、密告を恐れた彼らは賄賂を渡して逃れます。
私腹を肥やすフィスカルは忌み嫌われ、逆に彼らの何人かが横領や偽証罪で密告され、処刑送りになりました。
結局、フィスカルは廃止され、元老院に検事総長を創設します。

皇帝に隷属する元老院は口論と無駄話で話が進まないため、1720年からは政務討論は30分と時間が決められました。
罰を恐れた元老院は規則を守りますが、それでも未決の議題が山程残っており、賄賂が横行、議長ですら私腹を肥やすありさまでした。

元老院は県知事を統べており、アルハンゲリスク、イングリア(ペテルブルク)、モスクワ、スモレンスク、キーエフ、アゾフ、カザン、シベリアの8県がありました。県が広大すぎるため、さらに郡に分けられ統治します。
県知事は警察、交通、裁判はもちろん、おもな仕事は徴税でした。思いのまま税を搾り取れるため、知事はたいそう私腹を肥やします。
国が要求する戦費も存分に支払うことができ、その下にいる役人たちもまた賄賂で私腹を肥やします。徴税を効率良くしようと、ピョートルは役人を直接元老院の下に置くも、かえって混乱が生じて諍いが耐えませんでした。

ピョートル大帝の銅像

その他、ピョートル大帝が行った改革

・都市の雑多な人民を整理するため、3つのギルドに編成。
第1は金融業者、富裕商人、医師、親方。第2は一般の職人と商人。第3は労働者、人夫、零細自由民。
それぞれが1年任期の役員を選出し、警察の監督のもとで跋扈する盗賊や野盗退治に協力した。

・軍隊の徴兵制。
貴族の子弟は全員、16歳で兵士として軍隊に編入。名門貴族は近衛連隊、小貴族は前線の部隊へ配属された。彼らは兵士として宿舎で暮らし、あらゆる雑用をこなし、もっとも高い位階へと昇進していく。
貴族は軍隊に組み込まれ、逃亡や徴兵忌避を行った者は、財産を全て没収され、法律に守られないアウトローへ落ちぶれた。

・庶民階級へ貴族の位階を解放と、庶民の徴兵制度
1724年の勅令で下級階層の兵士が、士官にまで昇進を許され、同時に世襲貴族の称号が与えられるようになった。これにより、古い貴族社会の枠組みがゆらぎ始める。
ナルヴァの敗戦で多大な兵士を失ったピョートルは、主人の許可がなくても農奴が兵士になることを許可した。その後、召使い、聖職者の子弟、労働者問わず、納税者のいる家族20人に対して1人の徴兵を命じ、1年で3万の新兵を確保した。
あらゆる階級から平等に徴兵された兵士の左手には、十字架の入れ墨を入れ、逃走を防いだ。

・人口調査(住民登録)
全ロシアの国民を勅令で登録することを義務付けた。税の平均額と徴兵の割当を決定するためである。
住民登録された国民全てに一定額の税を割り当てられ(人頭税)、徴税する地主の権限が強くなる。そのため、農民も農奴と同じように奴隷のごとく扱われた。
税金をごまかそうと、地主はよく住民の数をごまかした。もちろん、発覚すれば厳罰があった。人の数が地主の財産となり、人身売買が横行した。税に耐えられず、農村を逃亡する者があとを絶たなかった。
人頭税で確実な税収が国庫に入るが、農奴制の強化は、外国から見れば時代を逆行する嘆かわしい制度だった。

・工業と産業の発展
まずロシア中にどこにどれだけ地下資源があるのかを調査し、鉄、銅、銀、石炭の鉱脈を発見したら土地の所有者がすぐに発掘しないと、権利を失った。鉱脈を隠匿した者は死刑になった。多くの精錬所が作られ、とくにウラルの鉱物産出量は莫大であり、巨大な工業都市が作られた。
1725年時点でロシアには86の精錬所と武器製造所が造られ、羅砂、滑皮、毛織物、絹物の工場もあった。浮浪者や娼婦、囚人、逃亡農奴等が強制的に工場へ連れてこられ、給金すら払われず毎日、14~16時間労働した。
国内産業を発展させるため、輸入製品には高額の関税をかけた。
材料や製品を運搬するために道路と運河が整備され、宿屋を作ったが、ラドガ運河建設では3万人もの労働者が死亡するほど過酷だった。

・官等表の制定
従来の身分の評価に代えて、個人の功労によるクラス分けをするため、1722年に官等表を制定。文官、武官、宮内官の3つのカテゴリーとされ、さらに12段階に分かれ、対応する位官が明示された。一番低いのが参議官の帳簿係で、最高は宰相、元帥、侍従長。
庶民、外国人誰でも門戸が開かれ、口先だけの山師でも出世できた。8等官(少佐や上級秘書官)まで進むと、古い名門貴族と同じ処遇を受けることが定められた。
庶民から野心で最高官位まで成り上がった者のなかに、菓子屋だった宰相のメーンシコフ、生地屋だった副宰相のシャフィーロフ等がいた。

・長子相続制
不動産を有する者は遺言により、子どもたちのなかから1人を相続人にすることが定められた。遺言がない場合は、長男か長女が土地と農奴を相続した。
これにより、貴族の土地分割は避けられ、不動産を持たない子供たちは独立する。学問、軍隊、商工業で労働しなくてはならず、貴族らしい優雅な田園生活は相続者に限られた。

・アサンブレーの導入
衣服だけでなくアサンブレー(オープンなサロン)の習慣を導入して、ロシアをヨーロッパ化しようとした。
持ち回りでホストになった貴族は屋敷や別荘をアサンブレーのために解放し、その日は誰でも自由に参加できた。アサンブレーでは社会や政治的な話題だけでなく、男女が自由におしゃべりやダンスを楽しんだ。テーレムから解放された女性たちはおしゃれを楽しみ、やがて破廉恥な話題に事欠かなくなった。

その他、ロシア全土の地図を作成したり、貴族の子弟に教育を施したり、プロテスタントのように教会の権力を弱めようと奮闘するも結局、古式派と新派どちらの宗教家からも皇帝は憎まれてしまうのでした。

臨終のピョートル大帝

皇帝の死

独裁政権を維持するため、ピョートルは常に密告と拷問を利用しました。重大な情報を密告した者には、報奨金だけでなく土地や農奴が与えられます。ささいな軽い罪(皇帝が病気だと言った、皇帝だと知らなかった等)で、流刑やむち打ちの刑に遭ったほどです。

人々は密告を恐れて生活していましたが、側近であるメーンシコフも免れることはできませんでした。彼は常に私腹を肥やし、莫大な賄賂をもらい、公金横領の罪を告発されました。
裏切られたと激昂したピョートルは身分を剥奪しようとするも、メーンシコフは機転で難を逃れます。
しかしエカテリーナが弁護したことで、怒りに火が付き、ピョートルはメーンシコフから領地と農奴、官位を奪いました。エカテリーナとメーンシコフは昔、愛人同士だったのです。それでも彼はまたいつか側近く仕えると信じて宮殿に住み続けます。

もうひとりの側近、シャフィーロフも公金横領の罪で密告され、裁判で死刑を言い渡されます。処刑寸前のところで、皇帝の恩赦が下り、間一髪首が繋がりました。禁固刑になり、娘婿の屋敷で隠遁します。

密告はついに皇后エカテリーナにまでおよびます。
匿名の密書がピョートルのもとに届き、皇后が侍従の美青年ウィリアム・モンスと密通しているという内容でした。奇しくも愛人はピョートルが若い時夢中になった愛人、アンナ・モンスの弟でした。手引きをしたのは皇后の侍女であり、モンスのもうひとりの姉だったのです。
ピョートルは激怒します。無欲で忠実と信じていた妻に愛人がいた、と。裏切られた怒り――自分に逆らう者は決して許さないピョートルは、すぐさまウィリアム・モンスを処刑します。

しかしエカテリーナは処刑の日も平然といつもどおり過ごし、死体になった愛人の姿に動揺せず、寝室に置かれたアルコール漬けの生首を見ても顔色ひとつ変えません。
そしてエカテリーナは国庫横領の疑いの名目で、彼女の財産を封印されます。金のやりくりがつかなくなった皇后は、周囲に借金をして回りました。

――いったい私は誰を信じればいいのだ?
疑心暗鬼に陥ったピョートルは、体調に異変をきたすものの、憂さを晴らすように暴飲暴食や視察に精を出します。あるとき、郊外の河で兵士が乗っている船が座礁しているのを見つけると、氷のように冷たい水に入って救出作業をしました。
それが決定的となり、以前から患っていた膀胱が悪化。性病が再発し、高熱を出してしまいます。それでも、クリスマスには暴飲暴食をして周囲を驚かせます。

しかしこれが限界だったのでしょう。1月を過ぎるころにはベッドから起き上がれず、寝込んだまま執務をするも、20日に急激に病気が悪化。膀胱の手術をして溜まった膿を取り出すものの、痛みで唸って臨終をゆっくりと迎えます。
そばにはずっとエカテリーナがついて、泣き叫び、気絶をしますが、周囲は演技だと見破っていました。ピョートルが倒れたおかげで、皇后の疑惑の件が有耶無耶になったまま難を逃れたためでした。

ピョートル2世

エカテリーナ1世の即位

臨終の皇帝は遺言で後継者を指名しておらず、側近たちが密かに皇后と話し合います。以前から、孫のピョートル大公を推す派閥と、皇后のエカテリーナを推す派閥に宮廷は分裂していました。

1725年1月28日、53歳のピョートル大帝は息をひきとりました。
メーンシコフを始めとする側近たちは、エカテリーナが即位すれば自分たちの権力が維持できると考え、戴冠したことを理由に元老院は「正統なロシアの女帝」として宣言書を読み上げます。女帝エカテリーナ1世の誕生でした。妻が皇帝になるなど前代未聞であり、世界中が驚きます。

密告と拷問で抑圧されたロシアの人々は、寛大だとお噂される女帝の治世に期待しましたが、エカテリーナは夫の政治を踏襲すると宣言します。
権力の頂点にたった女帝は、政治を全て側近に任せ、贅沢と愛人に溺れる日々を過ごします。

側近のメーンシコフがそれをいいことに増長し、2年後にエカテリーナが崩御すると、娘をピョートル2世と婚約させることに成功しました。
あまりの横暴さに周囲が離反し、少年皇帝ピョートルがメーンシコフを嫌ったことで逮捕され、彼はシベリア流刑になります。流刑には婚約者だった娘も含まれていました。

恐怖政治に怯えたはずのロシアの人々でしたが、ピョートル大帝の治世を懐かしみ、わずか30年で国を劇的に近代化させた偉業を称えます。

女帝エリザヴェータ

1730年1月、まだ14歳だったピョートル2世が天然痘で崩御。ピョートル大帝の娘である長女アンナもその前に死去。
女帝アンナ・イヴァーノバナ、幼い皇帝イヴァン6世と続き、ピョートル大帝の娘エリザヴェータが帝冠を頂きます。わずか32年間のできごとでした。


ピョートル大帝1~ふたりのツァーリと摂政ソフィア
ピョートル大帝2~戦争とロシア改革
ピョートル大帝3~ヨーロッパの思惑と皇太子の死
ピョートル大帝4~最期の改革と女帝エカテリーナ

参考文献

大帝ピョートル (中公文庫)