ピョートル大帝3~ヨーロッパの思惑と皇太子の死

ネヴァ河
モスクワからペテルブルクへの遷都

スウェーデンとの戦争で手に入れたネヴァ河口――ペテルブルクは、急速に発展します。ピョートルが彼の地を気に入ったのです。ただしそれは決して住みやすいからではなく、海がそばある、という理由だけでした。
ペテルブルクは一年中潮風が吹く低地で、冬は嵐に見舞われ、夏は虫が大量に発生し、秋は長雨のために大地がひどくぬかるんで洪水を起こします。ちなみに、ネヴァはスウェーデンで「泥」を意味しました。
当然、側近たちは大都市建設に反対するのですが、ツァーリは意志を曲げず、ペテルブルクを首都にすべく建設を開始しました。

ペテルブルクを国際都市としてアピールするため、ルター派の教会を建設します。「四隻の軍艦」と名付けられた宿屋には市庁舎が入り、隣には屋根付きの市場、背後にはタタール人の古物売が並び、長い間都市の中心地になりました。

1704年に全国から年、4万人の労働者を調達するよう命令が下され、大勢の農奴が無理やり労役として連れてこられました。建設現場の環境は最悪で、まともな道具はありません。粗末な食事しか与えられず、飢えと寒さと疲労でたくさん死にます。その数およそ10万~20万人。
労働者たちが抗議するも受け入れられず、都市建設は続きました。
ツァーリ自身も建設現場に趣き、参加します。棍棒を携えながら怠けている者を叩き、現場監督を罵倒し、大工たちを褒めました。

やがて寺院、要塞、修道院、宮殿、元老院、宗務院が建てられ、桟橋がかけられます。
フランス人が設計した都市はまだ人が住んでおらず、1708年、ピョートルはモスクワから皇族と貴族たち、裕福な商人、役人を呼び寄せました。いや、要請です。病気や年齢を理由に断ることは許されません。あまりにも辺鄙な土地で本音ではだれも行きたくなかったのです。モスクワからペテルブルクの道は整備されておらず、荷物を運ぶだけで難儀でした。
モスクワが大火に遭うと建物の再建を禁じて、ペテルブルクに勅令で移住させました。そしてモスクワは衰退し、1713年、ペテルブルクが首都に定められました。

ペテルブルクは自由に家を建てられず、身分によって決められていました。レンガや石が不足していたためです。両隣を一つの壁で仕切っている建物もありました。
上流、中流階級はそれでも立派な屋敷だからよかったのですが、貧しい人々が住む地区は木造の粗末な家ばかりだったため、たびたび火事で焼け落ちました。消防団があっても、ツァーリが張り切るだけでほとんど活動しませんでした。
夜は強盗が跋扈し、周囲の森には狼がたくさん生息し、住人たちを恐れさせます。交通が整備されておらず、物価はモスクワの3倍しました。

そんな住人たちに大不評のペテルブルクですが、それでもじょじょに人口が増え、近代化されたヨーロッパの都市として発展しました。

1712年艦隊
トルコとカール12世とエカテリーナ

ロシアの黒海方面への拡張を恐れているトルコのアフメット3世を、カール12世は説得しました。1710年11月、トルコはロシアへ宣戦布告をします。

1711年2月、ピョートルはエカテリーナと結婚しました。3月「皇妃エカテリーナは、ツァーリ・ピョートルの真正にして正式の妻」だとモスクワの住人に告げます。一介の洗濯女だった娘が、ついにロシア皇妃になったのでした。
それからすぐに、ピョートルは皇妃を連れて戦場へ旅立ちます。数ヶ月も離れて暮らすことができないほど、エカテリーナを必要としていました。

対トルコ戦の援軍はわずか5000の兵士のみで、ほとんどの太守はツァーリの呼びかけに応えず、乾燥した夏の草原と砂漠にロシア兵たちは疲れ切ってしまいます。
1711年7月、さらに運の悪いことにロシア軍の5倍のトルコ軍が、プルート河大軍に待機しているところにぶつかりました。絶体絶命のロシア軍。撤退しようにも馬の飼葉も食料もなく、前進も後退もできません。
この世の終わりのごとく苦悶するピョートルに、同行しているエカテリーナは冷静に提案します。「トルコと取り引きをしてはどうですか。大臣を買収するために、わたしの小箱に収めた金貨と宝石を全て差し上げます」と。

エカテリーナの贈り物が功を奏し、プルートの和平が調印されました。条件は、ポーランドの問題に介入しないこと、ロシアの要塞をいくつか取り壊し、カール12世の帰国を妨害しないこと等でした。

カール12世は和平条約に激怒して、陣地のテントへ自ら乗り込みます。トルコの総理大臣は言いました。「われわれはロシア軍と戦った。あなたも彼らと実力を競いたいのなら、ご自分の軍隊を使ってなさるがよかろう。一度締結された条約を破棄するつもりはない。」
あまりの悔しさに地団駄を踏むも、カール12世はどうすることもできませんでした。

九死に一生を得たピョートルは、黒海をいったん諦め、バルト海のスウェーデンに再び狙いをつけます。
しかしヨーロッパ諸国はそんなロシアを警戒します。ベルリン、イギリス、オランダはスウェーデン王国の衰退を望んでおらず、ロシアが港を得れば自国の船で貿易をすることを懸念していました。オーストリアはスウェーデンの影響力を恐れてはいるものの、牽制する役目はプロシアに期待しています。

……どの国からも味方を得ることができず、ピョートルは自分でヨーロッパの国々に決着をつけることにしました。
スウェーデンと交渉するため、まず、フィンランドに遠征していくつかの都市を占領。
1714年7月、バルト海でスウェーデン艦隊をロシア艦隊が打ち破ります。敵艦隊とオーランド島を手に入れたピョートルは、中将へと昇進しました(もちろん自分で自分を報奨)。対トルコ戦で夫を救った、妻エカテリーナへも勲章を授受します。

ハンゲの海戦1714年

自称同盟国であるイギリスとオランダはロシアの勝利をコペンハーゲンで祝うも、デンマークは密かに警戒して街を防御し、住民に武器を配布しました。
「船乗りピョートル」の名声は高まっているはずなのに、各国の軍艦が集結するなか、ある噂が飛び交います。「ロシアの海洋進出を快く思わないイギリスが、ツァーリをロシアへ強制的に送り返そうとしている」。
実際、ピョートルは臣下のような態度で国王アウグストと接しており、姪の婚姻によってドイツ北部に4万のロシア兵を常駐させていました。ジョージ1世が軍隊を引き払うよう要求しますが、ピョートルは受け入れません。
そして対スウェーデン同盟の参加国の思惑はバラバラになり、軍事同盟会議を開いても意見の食い違いが大きくなるばかりでした。結局、同盟は延期され、それぞれの国の艦隊は帰国します。

つぎにオランダのアムステルダムへ向かったピョートルですが、歓迎されませんでした。なぜなら、カール12世の腹心の部下であるゲルツ男爵と密かに通じているという噂があったからです。
ゲルツ男爵は狡猾な人物として知られており、バルト海沿岸をロシアへ割譲する対価として、イギリス国王ジョージ1世を廃位。ジェイムズ2世の息子を即位させる計画に加担する――という内容でした。

当然、ロンドンのロシア大使はその噂を否定し、抗議するものの、ピョートルはそれだけうさんくさい人物として見られていました。当たらずとも遠からずといったところでしょうか。
イギリスとデンマークに期待を裏切られたピョートルは、プロシアとフランスに近づき、ロシア、ポーランド、フランス、プロシアで対スウェーデン同盟を結ぼうと画策します。

ピョートル大帝
小さなフランス国王と辛辣なプロシア王女

老齢のルイ14世が亡くなり、幼いルイ15世がフランス国王に即位したのを契機に、ピョートルはフランス宮廷を訪問します。
1717年5月、ルーブル宮殿に到着したロシア皇帝は大歓迎されますが、フランス側は内心、仕方なくといったところでした。
フランスはスウェーデンと協定を結んでおり、まだ期限が切れていなかったのもありますが、突然、北方から現れた野蛮な大国の君主を嫌悪していたのです。

ルーブル宮殿のピョートルの野暮なファッションは、洗練されたフランス貴族たちには新鮮に映ったらしく、「ツァーリの上着」としてパリで流行しました。黒っぽい灰色のマントに、グレーの毛織物の上着、ネクタイもカフスもシャツの袖口レースもつけない、無骨なファッションとして。

宴会では周囲が驚くほど豪快に飲み食いした挙げ句、摂政オレルアン公の訪問だけでは満足しないピョートルは、フランス国王を呼び寄せるよう要求します。
……根負けしたフランス宮廷は、まだ7歳の国王ルイ15世をツァーリが滞在している館を訪問させました。
挨拶を交わしたあと、作法も忘れ、ピョートルは突然、幼い国王を抱き上げます。「ツァーリが国王の脇の下に腕を差し入れて、自分の顔の高さまで抱き上げ、そうして空中でキスをなさったので、皆は大そう驚いた。……対等な君主としての敬愛と優しさがあふれていた。」とサン・シモンは書いています。
そんなツァーリをルイ15世は、まったく怖がる様子はなかったといいます。

パリを見学し、社交や酒場、街の女にうつつを抜かすピョートルでしたが、この頃から寄る年波に勝てなくなり、暴飲暴食をしたあと嘔吐して体調不良を訴えるようになります。
そんな遊び回っているピョートルには本当の旅の目的がありました。ロシア、フランス、プロシアと協力関係の条約を結ぶことです。

ルイ15世

スウェーデンを裏切り、野心的な新参者と手を組むことを快く思っていないフランス摂政と、ツァーリは話がつかず、外交官同士で何度も交渉した結果、アムステルダム条約が結ばれました。
三国のあいだで永久的な友情と同盟関係を結んだはずでしたが、肝心のフランスはスウェーデンとイギリスとも親密な関係のままでした。何かあれば、国家間で仲裁をする、とツァーリに告げます。
大した成果とは言えないものの、ピョートルは不平を言える立場ではありませんでした。
……秘密交渉と言いながら、その裏ではイギリスのジョージ1世が糸を引いており、条約を骨抜きにしていたのです。

酒と女で体調を崩したピョートルは、温泉で療養します。そこでは鉱泉水を流し込み、サクランボとイチジクを大量に食べます。
やがて物足りなくなったピョートルは、鉱泉水にアルコールを入れました。
暇があれば、農家を見て回り、夜、ごちそうを食べる生活を1ヶ月ほど続けた後、オランダで皇妃エカテリーナと合流し、ベルリンへ向かいます。プロシア国王ヴィルヘルム1世に会うためでした。

サン・スーシ宮殿に快く迎えられたツァーリ一行でしたが、8歳だった王女――のちのバイロイト辺境伯夫人(フリードリヒ大王の姉であるヴィルヘルミーネ)は、回想録にピョートルの印象を辛辣に書いています。

「ロシアの紳士たちが、滞在した各地でどれほどの混乱を引き起こしたかを考えて、プロシア王妃は、あらかじめ家中の家具をどけ、こわれやすいものは全部持ち出してしまった。」

「とても大きくわりに美男子だが、顔つきに荒々しいところがあり、恐ろしい感じがした。」

「エカテリーナ皇妃は背が低く、ずんぐりして、色は黒く、上品さと優雅さに欠けていた。見ただけで下層の出であることがわかった。」

皇妃は400人もの召使い女を女官として連れており、召使いたちは腕に着飾った赤子を丁寧に抱いていました。あなたの子供なのか、と彼女たちに尋ねると、「恐れ多くも、陛下がこの子の種をわたしにくださったのです」と答えました。

国王が自慢する博物館の彫刻コレクションを見たツァーリは、「ひどく淫らな格好をした異教の神」を気に入って無遠慮に譲ってくれ、と言います。内心しぶしぶ、ヴィルヘルム1世は承諾しました。
それに気を良くしたツァーリは、さらに「極めて高価な琥珀の寄せ細工の戸棚」を譲り受けました。

ベルリン滞在で、ツァーリ一行は宿舎を滅茶苦茶にして帰国します。
「この野蛮な宮廷は、その二日後に出発した。……わたしはかつてあんな光景を見たことがない。全てが破壊され尽くしていて、王妃は家をほとんど全部建て直さなくてはならなぬほどだった。」

皇太子アレクセイ
皇太子アレクセイの死

皇太子アレクセイはピョートルとは対照的な、ひ弱で宗教に慰めを見出す青年に育ちました。先妻エヴドキヤの血を濃く受け継ぎ、9歳のとき、理不尽な理由で突然、母を奪われたことで父親を憎みます。
しかし表向きは従順でした。エヴドキヤ同様、ピョートルを非常に恐れてもいました。

そんなアレクセイの周囲には、反体制的な人物が集うようになります。
ロシアを近代化し、髭を剃ることに納得できない人々が大勢おり、かつてのように宗教の権威を取り戻すことを願っているのでした。もちろん、アレクセイもその一人です。
進歩的なヨーロッパに目を向ける父と異なり、アレクセイはモスクワの風習に固執し、父がドイツに留学するよう命じても出発しません。
ようやく学び始めても、科学や建築に全く興味を示さず、ゆいいつ父に似たのは放蕩癖。暇さえあれば、女と酒に溺れます。

軍隊に入れられても、やはり指揮官としての能力はなく、やる気も無し。
そんなあるとき、突然、アレクセイは父の命令で結婚させられます。相手は16歳公女シャルロッテ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルで、痩せこけて顔の長い妻はアレクセイにとって魅力的ではありませんでした。

新婚当初からアレクセイはシャルロッテに冷たく、一時、別居します。そんな皇太子妃をピョートルがペテルブルクへ住まわせ、皇妃エカテリーナとともに暮らしました。
アレクセイは農奴の娘だった愛人を連れてペテルブルクに帰ります。下品な愛人にシャルロッテは苦しむますが、妊娠し、娘を産みます。また妊娠するも、階段から落下して息子ピョートルを出産直後、亡くなりました。21歳でした。
薄幸なシャルロッテが死んだのは、アレクセイが乱暴していたからだ、という噂が流れるほど、皇太子は妻を愛していませんでした。

シャルロッテの葬儀のあと、アレクセイを待っていたのは、父からの廃嫡予告でした。
そのころ、後妻エカテリーナが息子を出産し、人々は皇位継承権を生まれたばかりの息子に指名するのでは、という噂をします。やる気がなく怠惰で、何をしても成果が出ない無能な長男に、ピョートルは嫌気がさしていたのでしょう。
アレクセイは周囲の側近たち――僧侶へ相談します。彼らは口を揃えて言いました。「皇位継承権を放棄しなさい」と。

しかしピョートルは怒り、激しく非難をします。まったく申し開きをしない長男に。
「生き方を変えて私の後を継ぐに相応しい息子となるか、あるいは世を捨てて修道院に入るか。」と選択を迫られます。
そこでまたアレクセイは側近たちに相談。皇帝は重責すぎて継ぎたくないものの、母のように僧院に閉じ込められて老いていくのは耐えられません。
側近たちは言います。「一度、どこかの僧院に入ったあと、俗界に戻った人はたくさんいます。入って時を待ちましょう。」

本当に僧侶になっていいのか? 半年時間をやるから考え直すよう、父から言われたアレクセイは、ほっとします。
そして、約束の半年がすぎても、返事をしません。そのあいだ、放蕩に耽ってそんな約束など忘れてしまったのです。

返事をよこさない息子に、ピョートルは激怒し、最後通牒を突きつけます。
アレクセイはまたも側近に相談すると、ツァーリはすでに閉じ込める修道院を決めているはずだ、と告げられます。
そこで返事をするために父の元へ赴く演技をし、集めた旅費で義理の兄である神聖ローマ帝国皇帝カール6世を頼ることにしました。ウィーンへ愛人エヴフロニシアを同行させます。

ピョートル大帝と皇太子アレクセイ

亡命を謀ったアレクセイでしたが、ピョートルのほうが何枚も上手でした。息子が逃亡したと知るや、すぐにスパイを放ち、ナポリの隠れ家を見つけます。
側近トルストイがやってきて、まず愛人エヴフロニシアを買収し、彼女を使ってアレクセイに帰国するよう説得しました。
そのまま留まるのなら、愛人と引き離されてしまう――そう言いくるめられ、アレクセイはエヴフロニシアとの結婚を許可するのなら、という条件付きで帰国を承諾しました。

モスクワに到着したアレクセイに、ピョートルは「共犯者」の名前を一人残らず挙げるよう命じます。気弱なアレクセイはおのれが助かりたい一心で、自分の側近たちばかりか、友人、知人、母エヴドキヤの名前まで口にします。
名前が上がった人々は、容赦なく拷問ののち、無残に処刑されました。

ツァーリの使者がエヴドキヤのいる僧院で、彼女を調べると、40歳を過ぎた元皇妃には愛人がいました。
その愛人グレーボブ大尉は野心家であり、アレクセイが即位した暁に、エヴドキヤを利用して出世する腹積もりだったのです。
しかしグレーボブも「共犯者」にされ、もっとも残酷な串刺しの刑で死にます。自分から妻を捨てたピョートルでしたが、嫉妬し、妻の愛人を許せないのでした。

いっぽう、妊娠した愛人エヴフロニシアはアレクセイを裏切り、彼がツァーリの命と玉座を狙っていたのだと告白し、主教と元老院に宛てた手紙の草稿を渡します。それには無理やり修道士にさせられ、死んだといういわれなき嘘を信じるな、といった内容でした。
それが決定的な証拠とされ、とうとうアレクセイは拷問にかけられます。

吊るされ、背中へのむち打ち刑を食らったアレクセイは、息絶え絶えに自白します。
その3日後、またむち打ちを食らったあと、力尽き、28歳の生涯を終えました。死刑の判決後、父ピョートル自ら、息子へむちを振るった記録が残っています。
公式では発作による死、と伝えられるも、それを信じる者はいませんでした。ツァーリが毒殺したのだ、と噂が流れます。

その息子の葬儀で涙するも、ピョートルは「これで悪を根絶やしにしたはずだ」と安堵するのでした。

アレクセイの愛人エヴフロニシアは、その後、ツァーリ夫妻の庇護により、駐屯大尉と結婚し、30年間豊かで幸福な生活を送りました。


ピョートル大帝1~ふたりのツァーリと摂政ソフィア
ピョートル大帝2~戦争とロシア改革
ピョートル大帝3~ヨーロッパの思惑と皇太子の死
ピョートル大帝4~最期の改革と女帝エカテリーナ