ピョートル大帝2~戦争とロシア改革

アゾフの戦い1906年
トルコとの戦い

1695年1月、ピョートルは対トルコ戦のための動員令を出します。ドン河にある要塞、アゾフの町を攻撃しました。
城壁を攻撃するも手応えはなく、しびれを切らしたピョートルはゴールドン将軍が反対するも、8月、総突撃を命じます。
あまりの無謀さにだれもが拒み、コサック隊だけが志願しますが結果は惨憺。そこで地雷を使うもほとんどが自爆。雨が降りテントは水浸しで塹壕は泥濘、ロシア軍は撤退します。

逃げ帰ったピョートルでしたが、トルコに勝利したと偽り凱旋をします。あれだけ姉ソフィアを非難したにも関わらず、同じ嘘で勝利を祝ったのでした。
苦い敗戦を忘れるかのように、次はロシア艦隊を造ることを命じます。ドン河に農奴2万人を徴集して、自らも大工道具を振るい、昼夜問わず造船と土木工事をします。
そんな1696年1月、兄イヴァン5世が崩御します。ついに皇帝はピョートルひとりに定まりました。

1696年5月、23隻のガレー船と4隻の火船が出航し、再びトルコ戦に挑みます。
やはりまた苦戦するのですが、駆けつけたオーストリアの士官と技師が、大砲の照準を正確に調整したことで、要塞は陥落。ロシア軍は勝利しました。
今度こそ本当の戦勝に、モスクワは大祝賀に酔いしれます。これで二流国家を脱することができると喜ぶピョートルでしたが、ケルチ海峡を手に入れない限り黒海への道は開けません。

そこで、貴族たちをイタリア、オランダ、イギリスの技師のもとで、航海術を実費で学ばせる命令を下します。
国境を越えて外国で学ぶなど、ロシア社会では前代未聞の出来事でしたが、ツァーリの命令に逆らえるはずもなく、泣く泣く貴族たちはそれぞれ旅路に出ました。

オランダで造船を学ぶピョートル大帝
大使節団と砲兵ピョートル

『カーライル猊下の三人の大使による報告』(1672年)より――「ロシアでは、国外に出ることは禁じられている。ほかの国民の風俗や考えを知ることにより、人々が隷属の鎖を断ち切ろうとすることが恐ろしいからである」。

1696年12月、ツァーリが貴族会議で「大使節団」の計画を発表したとき、貴族たちは戸惑ったといいます。かの偉大なるツァーリが、異教徒であるヨーロッパの国々を漫遊するなどありえるだろうか、と。
貴族と聖職者たちに諌められるも、東洋的なロシアをヨーロッパに近づけようと、ピョートルは意に介しません。
さっそく、ルフォールを主席大使に任命し、2人の大使に12人の貴族と3人の小姓、それに36人の「志願者」を同行する計画を立てます。

その志願者にはピョートル・ミハーイロフなるものがいて、ツァーリのお忍び姿でした。
いたずら好きだが、元来臆病者の彼らしいアイデアであり、見習いの身分として偽れば、周囲の目を気にすることなく自由に行動ができるからです。
……もちろん、とうに諸外国の要人たちにはバレており、ツァーリの要望どおり素知らぬふりをします。君主たるもの、妙なやり方をするものだ、と驚きながら。

1697年3月、大使節団はモスクワを出発します。
以下、ツァーリ(ピョートル・ミハーイロフ)の漫遊エピソード。

・初めに訪れたスウェーデンでは冷遇され、お忍びの身であるにも関わらず不機嫌になる。どうして私を歓待しないのか、と。要塞をしつこく調べ周り、国王に町から追い出された。怒るピョートル。

・ケーニヒルスベルクで砲術を学び、修了証を受け取る。砲兵ピョートル・ミハーイロフとして、その後の演習や戦争に参加した。

・オランダのハノーファー選帝侯妃ゾフィ=シャルロットが手紙に書いたピョートルの印象。「彼が、洗練された食事の仕方を学ぶことがなかったのはたしかだが、一方で、彼の態度は自然であり、その頭脳は明晰である」「彼はお人好しであると同時に意地悪でもある。彼の国の風習をそのまま身につけた人物だ」「ツァーリのことをお話するのが、とても楽しくて、それにもしわたしが少々うぬぼれ屋でしたら、正直に言って……」

・夜会で淑女とダンスをしたピョートルは、「ドイツ女というのは、えらく骨が硬いもんだ!」と心の中で呟いたという。ヨーロッパ化されていないロシアには、コルセットの習慣がまだなかった。

・オランダのザーンダムにある小さな港町で、ピョートルは鍛冶屋の男と親しくなり、粗末な小屋で寝食をともにする。召使いはいない。船大工ピョートルとして、造船所で働いて知識を蓄えた。ついにロシア皇帝だと発覚してしまい、黒山の人だかりに癇癪を起こしたピョートルは、わずか一週間で町を去った。

・ブールハーヴェの解剖教室「テアトルム・アナトミクム」の人体解剖に感激し、外科手術道具を一式買い込む。素人ながら手術に参加した。歯抜きを見て興味を持ったピョートルは、初歩的な知識と道具だけで、臣下たちの抜歯をする。口腔を見て虫歯らしき歯を見つけては、容赦なく怪力で抜いた。生涯、抜歯技術を誇り、抜いた歯を小袋に集めてコレクションしたという。

・イギリス大司教バーネットの『回想録』より。「ツァーリは気性が激しく、どんなつまらなぬことにも激昂し、そうなるとまったく手がつけられない。このようにもともと興奮しやすい質が、さらにひどい結果を起こすのは、彼がブランデーなどの酒を好まれるからで、彼自身、この好みを抑えようとずい分努力しておられる。……その本性は、偉大な君主よりむしろ巧みな船大工に向いているのではないかと思われる。……これほどの荒々しい人間を世界でもっとも大きな国の支配者につけられた神の摂理に、ただ驚きをおぼえるばかりだった」

・イギリス滞在時、ツァーリたちロシア人は泊まった家を乱痴気騒ぎでひどく荒した。3ヶ月占拠したある屋敷――窓とドアは燃やされ、床は凹み、壁は剥がれ、かけていた絵画は射撃の的にされ、花壇は踏み荒らされ、吐瀉と唾で住めるような状態ではなかったという。

ピョートル大帝
叛乱と髭

大使節団はウィーンからベニスへ向かう準備中、急遽モスクワへ帰国しました。銃兵部隊が叛乱を起こしたと使者が伝えたためです。
かつて摂政ソフィアの側近であった官僚と連隊長が、幼いアレクセイを帝位につけようとして、叛乱を起こしたことがありました。大使節団がモスクワを出発する一ヶ月ほど前のことです。
首謀者は捕らえられ、拷問にかけられ、残酷な処刑にさらし首になったものの、その叛乱の火はまだくすぶっていました。

以前、辺境に送られた銃兵部隊たちは田舎の暮らしに絶えられず、モスクワに戻れるよう嘆願をしていたのですが、要求は退けられました。我慢ならなくなった兵士たちは、再びソフィアを摂政につけるため、叛乱を起こしたのです。
しかし、大砲の前では為す術もなく、あっけなく捕らえられてしまいました。

モスクワに帰ったピョートルは、あらゆる拷問で兵士たちを自白させます。むち打ちの刑、焚刑、吊るし落としの刑、熱い鋏で挟む刑、脚を燃やす刑、肋骨砕きの刑……。
阿鼻叫喚が響き渡るなか、ピョートルだけは冷静だったといいます。そして赦しを給うよう、イコンを差し出す総主教を怒鳴りました。「私の努めは罪人共を裁き、ロシアの民を守るためなのだ!」と。

兵士たちの処刑が終わったあと、次はその妻や皇女に使える女官まで訊問します。それでも、皇女ソフィアが陰謀に加担しているという証拠と自白は一つも得られません。
結局、ソフィアは罪に問われなかったものの、ノヴォデヴィチーの修道院に閉じ込めたまま、尼僧にさせられます。
叛乱に関わっているに違いない、と疑い続けるピョートルは姉を許すことはありませんでした。ソフィアのいる修道院の庭で兵士たちの処刑を行い、死体をそのまま5ヶ月放置したほどに。

処刑が一通り終ると、ヨーロッパを見聞したピョートルは、ロシアの改革に手を付けます。
手始めは退屈すぎる妻エヴドキヤを尼僧にして、離縁することでした。「わたしがいったい、なんの罪を犯したのでしょう!」と、憤慨するエヴドキヤでしたが、強引に修道院に閉じ込め、9歳の息子とも別れさせられます。
独身に戻ったピョートルは、堂々とたくさんの愛人たちを作っては憂さを晴らしました。

次に取り掛かったのは、髭を剃ることでした。まず側近たち、続いて臣下。そして勅令を出して、聖職者以外の男は全て、髭を伸ばすことを禁じます。それでも伸ばしたい者には高額な税金を課せられました。払えない者は、労役が課せられます。
これで貴族、軍隊、商人、職人たちは髭を剃りました。当時のロシア正教は、髭を剃ることは禁忌でしたから、内心不満を持たない者はいません。

それでもヨーロッパ化したいピョートルは、次に衣服をドイツ風に改めさせます。伝統的な長いカフタンと分厚いマントの衣服が、男は、短い上着、スボン、長靴か短靴、ドイツ風の帽子に変わりました。女はスカートと短靴、折返し帽子です。
町に見本の図が張り出され、違反したものは衣服を鋏でちょん切られました。なかなか馴染めず、新しい衣服を来た人々は互いの姿を見て笑ったほどです。

ビザンツの伝統的な暦を廃止し、1月1日を暦の初めとしました。ロシアが正月を祝う習慣の始まりでもありました。
新聞を発行して町に張り出し、諸外国――ヨーロッパのニュースを定期的に伝え、ロシアの人々の心を近代化させようとします。
そしてあの陰気な女だけの世界である、テーレムを廃止し、女性貴族たちもドレス姿で夜会に参加するようになりました。

カール12世
好敵手カール12世

1700年8月、30年にも渡るトルコとの和平協議がようやく締結したのを契機に、ピョートルはバルト海のあるスウェーデンへ戦いを挑みます。
15歳で即位したスウェーデン国王カール12世はまだ18歳。まだ経験の浅いうちに、敵を倒そうとしました。
しかしそれは計算違いでした。カール12世は周囲の者を驚かせるほどに、豪胆で指導性があり、不敵で、王としての力量が充分あったのです。

ナルヴァの要塞を攻めたロシア軍でしたが、なかなか陥落せず、ついにカール12世が先陣を切って進撃する情報が入り、恐慌状態に陥ります。ピョートルは「ポーランド国王と会見するため」にと理由をつけて、逃亡。残されたロシア軍は、すぐに投降しました。

幸いなことにカール12世はそれ以上、ロシアを攻めず、ポーランドと戦争をしました。
安堵するピョートルでしたが、圧倒的数で勝っていたはずのロシア軍が、敵に破れたことに忸怩たる思いに駆られます。
このままでは、ロシアがヨーロッパ諸国に認められないではないか、と。

ナルヴァの敗戦後、敵の襲来に備え、ロシア中で町や修道院の防御が固められます。人々は無我夢中で働きました。国民総動員の宣言、新たに10連隊が作られ、製鉄工場の建設、教会の鐘を接収して大砲を鋳造、銃と望遠鏡の買い付け、造船、銃兵部隊を再編成します。
同盟国であるポーランドとデンマークとの結束を強め、つぎの戦いに備えます。

1701年にモスクワで大火があったものの、数カ月後にロシア軍はフィンランド軍をエーレスターで打ち破ります。
1702年、ヴォルマル、マリエンブルクで勝利。秋、ネヴァ河に貯蔵庫と船舶を造り、ノーテブルクを攻撃し、小さな島の要塞は降伏します。
1703年5月ネヴァ河を下り、河口にあるニエンシャンツの要塞を落とすも、それを知らないスウェーデン軍の軍艦が2隻やってきます。ロシア軍は小舟に乗って、敵軍艦に乗り込み白兵戦で勝利。
ついにロシア軍が初陣を飾り、ピョートルは大はしゃぎします。

1700年頃のロシア兵

ツァーリは戦勝の報奨を臣下に授与します。そのなかに砲兵大尉ピョートルもいました。奇妙な話ですが、自分で自分に勲章を授けたことになります。
ついにバルト海につながるネヴァの河口を9世紀ぶりにロシアが奪い返したことで、ピョートルは多いに自尊心が満たされました。
粗末な丸太小屋だけだったネヴァの河口に要塞が建造され、そののち「ペテルブルク」(ピョートルの町)と呼ばれることになります。

いっぽうカール12世はポーランドで連戦連勝し、国王アウグスト2世に退位を迫ります。同盟国であるピョートルも参戦し、ポーランドのスウェーデン軍に続けて勝利するのですが、それはあまり意味がありませんでした。
そのあいだ、カール12世はフィンランドの大軍でザクセンに攻め入り、恐れをなしたアウグスト2世に不利な条約を結ばせます。そしてスウェーデン側が擁立したスタニスワフを、ポーランド国王にしました。

ヨーロッパ中がカール12世の勝利と知略を讃えます。ロシアのツァーリが講和の意志があることを、フランスの外交官が告げると、カール12世はペテルブルクを含む、ネヴァ河口領土の返還を要求。ロンドンとウィーンが仲介に入るも、カール12世の意志は揺らぎません。

――ペテルブルクを守るためには、戦争しかない。
ピョートルは1703年に銃剣を取り入れ、ロシア軍の近代化を進めます。
重税でロシアの民に不満が募り、1705年ついに暴徒化し、アストラハンで銃兵部隊が鎮圧されました。
1706年、カール12世はロシアに侵攻します。グロドノ、フランシュタットでロシアとザクセンの連合軍は敗北するも、ツァーリは諦めません。
さらに郵便、漁業、製塩、煙草、馬車のグリース、魚油、豚毛――とあらゆる物を専売にし、宿屋、製粉所にも税金が課せられました。大量の信用貨幣を鋳造し、国庫の90%は戦費に消え、最後の勝利へ向けて総動員します。

ついにカール12世は本格的にロシアへ攻め入り、1708年8月モヒレフを攻略してモスクワ侵攻を伺います。「私は軍隊と結婚したのである。幸運なときにも不運なときにも、私は軍隊とともにあり、軍隊と生死をともにするだろう」。

ロシア軍は町を焼き払いながら撤退します。そしてじりじりと冬が到来するのを待ちました。
進むスウェーデン軍はどこを見ても荒野と焼け跡ばかりで、まともに補給ができず、飢えていきます。
カール12世はレーヴェンハウプトの部隊に応援が来るのを期待していたのですが、その前にロシア軍との白兵戦で破れてしまします。さらにリューベッカーの部隊も負け、食料と兵を全て失いました。
絶望的な気持ちでモスクワを諦めた国王は、ウクライナへ向かいます。しかし待っていたのは、ロシア兵に蹂躙され尽くした大地でした。トルコ側に寝返るはずのコサックの首領は味方がおらず、スウェーデン軍はコサックのゲリラ戦に苦しみます。
冬の嵐で食料も調達できず、兵士たちは飢えと寒さと病気で死んでいきました。

ポルトヴァの戦い1709年

1709年4月、カール12世はウクライナの中心地、ポルタヴァの古い城塞都市を占領します。側近が撤退を促すも、国王は諦めません。若い彼は、ロシアを二流国家だと過小評価していたのです。それが大きな過ちでした。
偵察にでかけたカール12世は左脚に銃弾を受けます。負傷したまま偵察を続けたのですが、陣地にもどった途端、意識を失いました。外科手術で弾丸を取り出したものの、衰弱がひどく動けません。

代わりにレーンシェルド元帥が軍の指揮を取ります。それをチャンスと捕らえたピョートルは、進撃を開始。スウェーデン軍とロシア軍はぶつかります。
銃弾が飛び交い、ピョートルは胸に銃弾を受けるも、奇跡的に金の十字架に当たって跳ね返りました。アラブ馬を駆って、命令、激励、罵倒しつつ軍を鼓舞する姿は、臆病者のツァーリとは思えないほどだったといいます。
接近した両軍は白兵戦で血を流し――担架に乗せられたカール12世は逃走。大勢のスウェーデン軍の兵士が捕虜となり、たくさんの武器を奪ってロシア軍は勝利を収めました。

報奨が雨あられのごとく降り注ぎ、「砲兵ピョートル大尉」にも当然、授けられます。臣下たちから「少将に昇進されては」とすすめられ、彼は喜んで承諾しました。

逃亡したカール12世はトルコの皇帝アフメット3世に保護を求めました。
妹へ宛てた手紙――「万事好調です! ただ、最後になって、偶然が災いして事故が起こりました。軍が敗北したのです。が、これは、じきに取り返すことができるでしょう。」
そんな国王は1718年11月、ノルウェーとの戦争で銃弾が頭に当たって亡くなります。30歳でした。

エカテリーナ1世
エカテリーナとの出会い

マルタはスウェーデン領リヴォリアにある農民の家に生まれました。幼くして両親が他界し、牧師館の養女となり召使いとして働きます。
1702年7月、シェレメーチェフの部隊がマリエンブルク要塞を包囲した少しあと、スウェーデン軍の司令官は民間人を脱出させます。そのなかに牧師夫妻とその召使い――マルタがいました。
夫妻はモスクワへ逃れることになったのですが、召使いはロシア軍の慰み者として陣地留まりました。まだ17歳の彼女は金髪でグラマー、朗らかで陽気な性格がシェレメーチェフ元帥に気に入られたのです。

初めは司令官の愛人になり、次にシェレメーチェフ老の愛人になるもすぐに呆れられ、メーンシコフに譲ります。家事と夜の相手に勤しむマルタでしたが、あるとき野営地で働いているとピョートルの目に止まります。
機転が利く彼女を気に入ったピョートルは、夜の相手を命じます。しばらく臣下と愛人の共有がつづき、それに我慢できなくなったピョートルは、自分だけの女にしました。手放したくなかったメーンシコフですが、ツァーリの命令は絶対です。
決して美人でない娘でしたが、健康でたくましく、落ち着いた明朗さ、野営地での生活もまったく苦にしない姿にピョートルは惹かれました。これこそ、私にふさわしい女、だと。

1705年にマルタは改宗し、エカテリーナと改名します。そのときすでに二人の子供がいました。
その頃には堂々と愛人がいる場へ補佐官たちを招き入れ、もっとも重大な事柄についての意見を求めるようになります。エカテリーナの意見を認め、それを受け入れるピョートル。
ヴィルボワは「ツァーリは本来、女を軽蔑し、寝るときの役にしか立たぬと言っておられたが、最近では、大臣たちと意見が食い違うと、エカテリーナに相談する」と書いています。


ピョートル大帝1~ふたりのツァーリと摂政ソフィア
ピョートル大帝2~戦争とロシア改革
ピョートル大帝3~ヨーロッパの思惑と皇太子の死
ピョートル大帝4~最期の改革と女帝エカテリーナ