フランス国王~カペー朝の君主たち 3 神殿騎士団に呪われた(?)末期

フィリップ三世

フィリップ三世

◆十代目 勇敢王フィリップ三世

 1270~1285年

偉大な父王を持ったがためにその影響は大きかったのか、父のような聖人になろうと志したものの、どちらつかずの優柔不断な王でした。
政治は寵臣に頼りっぱなし、死別した王妃のあとに嫁いだ花嫁の実家家臣と、母実家家臣との権力争いでも見守るだけ。ついに妻の王妃側が勝利すると、言いなりになる様でした。
王妃マリーは贅沢好きで、清貧を旨としてきた先代ルイ九世の質素さが払拭され、王宮はたちまち華美な空間へと変貌します。

争いを好まずどちらつかずの平穏さが幸いし、フィリップ三世の統治は安定していました。平和を保つために、王領地を政略的にローマ教皇へ寄進、イングランド王家に下賜します。
さらに国内を安定させるため、伯領を購入したり、大都市を共同領主権にしたのち併合、息子たちにそれらの領地を分け与えました。

そして長年、独立心旺盛で反抗的だったシャンパーニュ伯の領地を、政略結婚によって王家のものにします。
後継ぎの男子がおらず、女伯である幼い姫を保護する対価として、王太子を婚約させました。シャンパーニュ伯はナバラ王を兼ねたことで、王領はさらに拡大しました。

フィリップ三世は地方の領主が解決できなかった裁判案件を、パリにある高等法院――いわゆる最高裁判所へ上訴できるようにします。
その「上訴」の発想が、諸侯ら地方領主たちを代官としてフランス王に隷属させる意味を持ち、さらに王の権限を強めました。

平和主義のフィリップ三世でしたが、1285年イタリア半島の争いに巻き込まれてしまいます。
教皇マルチネス四世とルイ九世の弟であるナポリ・シチリア王が共謀し、アルゴン王を後ろ盾にしている皇帝派の一掃を計画したためでした。
その奪われたシチリア領地と戦争で奪う予定のアラゴン王国を、フランス王の息子に与えようと教皇たちが秘密裏に決めたことで、フィリップ三世は否応なく戦争に加担せざるを得ません。

アラゴン遠征をしたくない王に対し、臣下らはほぼ全員、重臣会議で「出征賛成」します。仕方なく優柔不断な王は重い腰を上げて、戦争を開始しました。
その侵略戦争のさなか、フィリップ三世は疫病にかかって崩御します。

フィリップ四世

フィリップ四世

◆十一代目 美男王フィリップ四世

 1285~1314年

フィリップ四世は非常に寡黙な王でした。がために、容姿ぐらいしか褒め称えるものがなかった、という説があります。

フィリップ四世自身は表立って政治をせず、有能な家臣たちに務めさせました。王が無能だったからなのか、王の知恵で敏腕者を集めたのかは定かではありませんが。
そのなかで最も特筆すべき功績は、法律顧問(レジスト)を登用したことであり、王族、諸侯以外の大卒エリートを側近にしました。

より強い王家にしようと、フィリップ四世は法律顧問を使って、政治的スローガンを作りました。「王はその王国においては皇帝である」と。
そして、フランス王の召喚に応じなかった、アキテーヌ公兼イングランド王エドワード一世の忠臣義務違反を口実に、パリ条約で和平を結んだイングランドと戦争を起こします。ただ、フィリップ四世自身は戦争に行かず、全てを王弟のヴァロア伯シャルルに任せました。

1299年いったん和平を結ぶも、1300年に「これは休戦だった」として、再びフィリップ四世はイングランドへ攻め入りました。王弟シャルルは戦争に長けており、主要都市を次々に陥落させます。
問題は膨大な軍資金が常に不足することでした。

そこで貨幣鋳造で金の含有量を減らしたり、間接税を数年導入したり、聖職者に課税を求めます。フランス王の家臣ではない聖職者たちは当然、猛反発し、激しく抗議します。
それでもフランス王と揉めたくなかったらしく、教皇は特例として聖職者課税を認めました。
その代償として、王弟シャルルを東方ラテン帝国皇帝の女相続人と結婚させ、将来、聖地を守らせるために教皇側は王を利用しました。

ローマ教皇との諍いを発端に、1302年パリのノートルダム大聖堂にて聖職者会議を開催します。貴族と平民も参加しました。のちの全国三部会は1789年にフランス革命を起こした代議機関であり、フィリップ四世が始めたものです。
フランスの教会はローマ教会に属しつつ、独立性を保つ、と宣言したことで、さらにローマ教皇との間に亀裂が生じ、フィリップ四世を弾劾します。

1303年、ローマ教皇の弾劾が影響して軍資金が調達できず、フランドル戦争の和平、イングランド王との和平を結びます。フィリップ四世が征服した土地を全て返還しました。
そして法律顧問ギョーム・ノガレをイタリアに派遣し、教皇ボニファキウス八世を拉致しました。フィリップ四世の破門を阻止しようと、強硬手段に訴えたのです。
当然、イタリアの人々から猛反発を食らい、わずか3日で教皇は解放されましたが。

フィリップ四世の専横は留まることを知らず、フランドルとの戦争再開、勝利。新たに即位したフランス人教皇クレメンス五世を味方にし、ローマにも勝利します。

しかしここでも膨大な軍資金のため、国庫は赤字になります。借りた先は神殿騎士団が副業にしていた貸金でした。十字軍遠征が下火になったものの、神殿騎士団はその時の寄進で肥え太り、貸金業で儲けていたのです。
国庫の莫大な借金を帳消しにしようと、法律顧問ノガレは陰謀を企て、調査を口実に神殿騎士団の修道士を全員逮捕。神殿騎士団の廃止を教皇クレメンス五世が勅書で出し、ついに破滅に追いやったのでした。

フィリップ四世の晩年は息子たちの妻の不倫問題に悩まされ、課税が不満な貴族に反乱を起こされ、心痛のまま崩御します。

ルイ十世

ルイ十世

◆十二代目 ルイ十世

 1314~1316年

即位しても、王国の統治を家臣たちに任せっぱなしだったルイ十世でしたが、父王が恨みをたくさん買ったために、貴族の反乱に悩まされます。驚いたことに、反乱貴族のなかには、叔父のヴァロア伯シャルルまでいました。
不幸中の幸いだったのが、怒りの矛先が法律顧問ノガレの後任のマリニイに向かったことで、彼は処刑されます。

治世が二年満たないとき、ルイ十世は謎の崩御をします。

フィリップ五世

フィリップ五世

◆十三代目 フィリップ五世

 1316~1322年

ルイ十世の死後、後を継ぐ男子はいませんでした。ゆいいつの希望は、王妃のお腹に宿った命です。
待望の男子ジャンが生まれるものの、わずか数日で天に召されてしまいます。
そしてフランス王に即位したのが、ルイ十世の王弟、フィリップ五世でした。長身王と呼ばれます。

フィリップ五世は常に三部会を召集し、議会でフランス国の意見をまとめようとします。戦争が起こりそうになるたび、三部会。起こったら三部会。戦費を捻出するための税も三部会。
……かなり民主的な王でしたが、後継ぎのないまま崩御します。もし長生きしていたら、イギリスのような議会制政治になっていたかもしれません。

シャルル四世

シャルル四世

◆十四代目 シャルル四世

 1322年~1328年

フィリップ五世の王弟、シャルルが戴冠がします。父王フィリップ四世同様、戦争好きな王だったようで、フランス王家の宿敵であるイングランド王と戦争を始めました。
和平を破り、またも戦争――そして戦場で活躍したのが、老叔父のヴァロア伯シャルルでした。それを最後に、ヴァロア伯は亡くなります。

戦後、エドワード二世の王妃イザベル王女はシャルル四世の妹であり、王太子である息子を擁立してエドワード三世に即位させました。シャルル四世は伯父として、エドワード三世のアキテーヌ公領の所有を認めてやります。
しかしシャルル四世は兄たち同様、短い治世で崩御しました。

フィリップ四世の息子たちが後継ぎを持たないまま、短い治世で崩御した謎を、人々は噂しました。
――神殿騎士団の呪いに違いない、と。

そして、フランス王の玉座を継いだのは、ヴァロア伯シャルルの息子、フィリップ六世でした。
こうしてカペー朝は幕を閉じ、ヴァロア朝のフランスが幕を明けます。

カペー家系図

カペー家系図:引用元 カペー朝 フランス王朝史1 (講談社現代新書)

参考文献


カペー朝 フランス王朝史1 (講談社現代新書)


フランス国王~カペー朝の君主たち 1
フランス国王~カペー朝の君主たち 2
フランス国王~カペー朝の君主たち 3