987年から1789年まで続いたフランス王朝。中世の君主だったカペー朝の王たちのエピソードを時系列に紹介します。
革命で王位を失ったルイ16世がルイ・カペーと呼ばれたように、カペー家がフランス王朝の始祖になります。
◆初代 ユーグ・カペー
987~996年
そもそもフランスという国はいつ誕生したのでしょうか?
ローマ帝国の属国であったフランク王国のカロリング朝が、フランスの祖だといわれます。
そのカロリング朝の宮宰であるローベル家のパリ伯が、885年西フランク王国の玉座を得て、ウード、ロベール、ロベールの娘婿ラウル、大ユーグ、その息子のユーグへと王位継承されます。フランク王国のカロリング朝ルイ五世が崩御したとき、跡継ぎはいませんでした。
そこで諸侯会議選挙で選出されたのが、ユーグ・カペーでした。987年7月3日、国王戴冠式を挙げ、ランス大司教によって聖別され、初代フランス王に即位したのです。カロリング朝の血統が終わり、ここからフランスの歴史が始まったのでした。
フランスには「フランク人たちの公」という意味があります。
しかし当時のフランスは伯たちの群雄割拠で争いが絶えず、いわゆる無政府状態でした。ローマ帝国を継承したフランク王国にはもはや、王としての求心力が失われ、かつての高級官僚だった伯たちはそれぞれ独立国を作ります。
フランス王の直領はパリ周辺にある小さなもので、権威はなく、名ばかりの王でした。
そもそも、45歳のユーグ・カペーは望んで王になったのではなく、当時、最も勢力があった一伯にすぎませんでした。ルイ五世が急死しなければ、ロベール家は玉座に坐ることは無かったのです。まさしく棚からぼた餅で始まった王家。
姓であるカペーは、日本語の「合羽」という意味で、あだ名に過ぎませんでした。いつも長衣の僧侶服を着ている姿が、合羽のようだったからです。それだけ冴えない初代王でした。
諸侯貴族たちはそんな冴えないフランス王を「軽く」見ていました。だから戴冠に反対せず、看過したことがかえってカペー家の幸いとなったのです。
ユーグ・カペーは我が息子ロベールにフランスの未来を託すため、即位したわずか半年後に、ローベルの戴冠式を挙げます。
共同統治者として次代の王となるべく指名したのだと、知らしめるためでした。息子へ王位を譲ることで、選挙を阻止する狙いもありました。
ユーグ・カペーは56歳で崩御します。中世の時代では充分に長生きをした長寿年齢でした。
その後カペー家の歴代王は、比較的長生きをします。50歳を超える王が14人中、8人。そして世継である直系男子を絶やさず、341年間治世が続くことになります。
この長生きと直系男子の多さが、カペー朝を繁栄させた重要なポイントといえます。
◆二代目 ロベール二世
996~1031年
ロベール敬虔王と呼ばれたほど、当時の君主としてはずば抜けた教養と宗教心の持ち主でした。生まれながらの貴公子で育ちが良く、26歳で即位して君主として期待されるも、ぱっとしませんでした。
イタリア王女と結婚するも、いとこのブロワ伯の妻ベルトと不倫。強引に王妃と離縁、そしてベルトと結婚するも、三等親以内の婚姻はカトリック教会が禁止しているため、教会を破門されてしまいます。
なんとか許されるものの、ベルトとの間には男子が生まれず、また離縁。アルル伯王女コンスタンスと結婚して、ようやく四男一女をもうけました。
◆三代目 アンリ一世
1031~1060年
玉座を継いだものの、母であるコンスタンス王妃はアンリより、弟のロベールを可愛がっていました。ロベールを王にするため、コンスタンスは裏で画策し、反乱を起こさせます。アンリ一世は逃げ、オレルアンを奪い返し、母を幽閉しました。
悪母が死んで災いは去るものの、まだまだ王としての権力は弱く、諸侯から王領まで奪われてしまいます。
そんなアンリ一世の功績は、まだ七歳の世継フィリップを戴冠させ、共同統治者にしたことでした。
◆四代目 フィリップ一世
1060~1108年
幼くして王となったフィリップ一世には、フランドル伯ボードワンが摂政が付きます。伯の娘婿はノルマンデ公ギョームであり、1066年に海を渡ってイギリス王国を征服、王になった人物です。
巨大化したノルマンディ公家とフランス王家は、この歴史以降、たびたび衝突することになります。
1067年、15歳で騎士叙任を受けたフィリップ一世は、親政を開始。なかなか有能な君主だったようで、フランス王家の領地がじょじょに増えていきます。
アンジュー伯家やフランドル家の家督争いに乗じて領地を奪い、ノルマンディ公家の分家から父が泣く泣く割譲した地を取り戻し、1101年にはブールジュ市を買収してロワール河以南の地をものにします。
一番の功績は内政の改革であり、無法状態だった諸侯対策に王家五大官職を制定したことです。
主膳長、司酒長、主馬長、官房長、尚書長の五大官職は名目上、王家の家政に携わる雇い人でしたが、実際は将軍として戦場に派遣され、代官として占領地に赴かされ、大使として外交交渉を任ぜられ、政治的な役割が大きいものでした。
なぜなら、自主独立の気風が強い諸侯貴族たち、王家に仕えさせることによって、家臣として主従関係を結ぶためだったのです。
そんな有能な王でしたが、ロベール二世同様、不倫問題でつまづきます。
19歳の時、フランドル伯ロベールの義理の娘、ベルトと結婚。長男長女をもうけますが、40歳の時、アンジュー伯フルクの妻ベルトラードと恋に落ちます。すぐに王妃ベルトと離縁し、ベルトラードと再婚するも、司教から不法であると責められます。王妃が亡くなっても、再婚は正式に認められず破門され、フランス王国は危機に陥ります。
ローマ教皇庁に何度も懺悔をし、ようやく許され、キリスト教国の君主として復活するも、傍らからベルトラードを手放すことはありませんでした。二男、一女までもうけます。
◆五代目 肥満王ルイ六世
1108~1137年
フランス王家始まって以来のルイ王のはずが、六世である理由――フランク王国の王から数えているためです。
幼少期をサン・ドニ修道院で過ごしたルイ六世は、12歳ごろ城に戻るも、継母のイジメに遭います。腹違いの弟は可愛がられ、自分は宮廷にいることができず、独りで暮らします。毛布すら与えられず、マントで身を包んで眠ったほどひどい境遇でした。
後妻にうつつを抜かす父フィリップ一世は王として政治を務めることができず、長男のルイが自動的に代理の統治者としての役目を担うことになります。
ヴェクサン伯領を与えられたルイは成人の証として、騎士叙任を受けますが、それは秘密裏でした。継母ベルトラードが息子のフィリップに王位を継がせたいと息巻いていたからです。
しかし隠し通すのは難しく、イングランドのヘンリー王のもとへ一時、亡命しました。
1101年に帰国すると、ルイは目覚ましい活躍ぶりを発揮します。
肉体的に優れ、戦争を好んだルイは豪胆なその性格も相まって、次々と修道院や教会を荒らした家臣たちを遠征で懲罰し、屈服させます。同時に、聖職者たちの絶大な好感を得ます。
父フィリップ一世は教皇庁に赦免を請うているさなかだったことで、いくら後妻がわが息子を王位継承者にしようとするも、頑なに譲ることはありませんでした。
1107年、ルイはロシュフォール伯の娘リュシエンヌとの婚約破棄を宣言します。
なぜなら弟フィリップが同じくロシュフォール家の娘エリザベートと先に結婚し、ロシュフォール家を背景に王位簒奪を狙っていたためでした。
ルイは戦いに勝利し、父が崩御したことでついにフランス王に戴冠するはずが、またも継母に横槍を入れられます。
息子フィリップを王にするよう、貴族たちと蜂起するも、司教たち高位聖職者に気に入られていたルイは、すぐさま戴冠式を挙げ、五代目のフランス王になります。1108年8月のことでした。
戴冠したものの、公家たちはフランス王に臣下の礼を取ろうとはしません。そして勝敗がつかない、ノルマンディ公との数度の戦争。
そこでルイは目を転じ、群雄割拠する諸侯を束ねる前に、内政に焦点を絞ります。まず領内の貴族たちを恭順させ、フランス王としての地位を固めるためでした。
反抗的な領主貴族たちを次々に粛清し、フランス王家の家臣団を作ります。家臣は領主貴族だけでなく、領地を持たない騎士を重用することで、王に忠実な家臣になるよう期待します。
侍従、酌役、厩番、祐筆といった役職の低い騎士層のうち、最も出世したのがガーランド家で、四兄弟は主膳長、司酒長、官房長、尚書長まで出世しました。
そんなガーランド家は役職を私物化し、宮廷内で増長したことがルイ六世の逆鱗に触れ、解任されてしまいます。領主貴族のもとへ逃亡し、イングランド王ヘンリーと同盟してフランス王へ宣戦布告するものの、敗北。
そんなガーランド家をルイは許し、再び尚書長に復職させました。裏切り者は許さないが、忠誠を誓う者は歓迎して受け入れるのが王の信条だったのです。
ガーランド家と入れ替わりに重臣となったのが、側近ヴェルマンドワ伯ラウルとサン・ドニ大修道院長シュジェでした。ラウルはルイ六世の従兄弟で勇猛果敢な騎士であり、王の晩年まで仕えました。血気盛んなラウルでしたが、王族だったことで貴族のような野心を持ち合わせていませんでした。
戦争好きな王と家臣をなだめるのが、僧侶シュジェの役目で、ルイは父王のように浮気をすることなく、六男二女をもうけます。
ただ飽食の罪からは逃れられず、肥満王の呼び名のとおり、40歳を過ぎたころには馬に乗れないほど太っていました。
先が長くないと悟った王は幼いルイ七世のために、シュジェを代理人として闘争が続いたブロワ家と和平を結び、ラウルを後見人に指名します。
◆六代目 若王ルイ七世
1137~1180年
ルイ七世は16歳で王になりました。ゆえに若王と呼ばれます。
アキテーヌ公女アリエノールは15歳の王妃で、アキテーヌの領地を相続していました。結婚によってルイ七世は労せずして、広大なアキテーヌの領地を手に入れました。
しかしシャンパーニュ伯との内輪もめで戦争になり、勝利はしたものの、和平交渉でせっかく手に入れたシャンパーニュ領を手放してしまいます。
さらにイングランド王家はヘンリー一世が崩御し、娘と甥の相続争いにルイ七世は悩まされます。娘はアンジュー伯妃マチルド、甥はブーローニュ伯エティエンヌ・ド・ブロワで、両者はフランス諸侯でもありました。
ルイはエティエンヌを支持し、伯の息子に妹王女を嫁がせます。それに安心したのか、エティエンヌはイングランドの制覇に腐心するも、手薄になったノルマンディの領地をマチルドの夫、アンジュー伯に征服されてしまいます。
その当時、十字軍遠征を教皇が呼びかけます。ビザンツ帝国の弱体化で東方のキリスト教徒が異教徒に抑圧されている。兄弟たちを救うため、西側の同胞が団結して立ち上がるべし、というもの。
1096年、第一回の遠征は大成功し、エルサレム王国等が建国されるも、いつまで保てるかわからない状況でした。イスラム教徒たちから同胞を守るため、第二回の十字軍遠征の報せが、ルイ七世の耳に入ります。
エデッサの陥落で、王妃アリエノールの叔父が支配しているアンチオキア候領が危うくなったと知ったルイは、十字軍遠征に参加することを決意。二年をかけて準備をし、王妃を連れて遠征に出発するものの、大失敗に終わりました。
フランス陣営とドイツ陣営、東方のビザンツ陣営は仲違いし、戦う前にバラバラになってしまったのです。
おまけにルイはアリエノールとの仲に決定的な亀裂が入ってしまい、離縁にまで発展します。
アンチオキア候である叔父と王妃が不倫をしているという、噂が立ったためでした。それだけ叔父はまだ若い美男子で、噂の真相は定かではないものの、ルイは嫉妬します。それはちがう、といくらアリエノールが説得しようとしても、聞く耳を持ちませんでした。
ついにアリエノールも堪忍袋の緒が切れてしまったことで、妻としての役目を拒否。結婚して十年後、司教会議で両者の婚姻無効――離縁が決定します。
が……ルイは驚天動地します。
なんと、離縁したわずか二ヶ月後、29歳のアリエノールは再婚していたのですから。
相手は19歳のアンジュー伯アンリ・ド・プランタジュネ。ノルマンディ公領を所有する公は、アリエノールとの結婚で広大なアキテーヌ公領まで手に入れます。
地団駄を踏むルイ。
やられた、としきりに悔しがったに違いありません。
アンジュー伯アンリは、以前、ノルマンディ公としてフランス王に臣下の礼を取ったおり、アリエノールに一目惚れしたことで、二人は恋したのです。
しかも、アンリはイングランド王スティーブンが崩御したことで、イングランド王ヘンリー二世として戴冠。1154年のことでした。
こうして西ヨーロッパは、プランタジュネ家が領地を果てしなく広げ、「アンジュー帝国」を築きます。
やられっぱなしのルイ七世。失意のあまり病に伏す――ことはなく、後継者を作るために再婚します。カスティーリャ王アルフォンス七世の王女、コンスタンスを王妃に迎えます。
同時に「アンジュー帝国」に危機を覚えた諸侯たちと同盟を結び、内戦を回避します。そして重要だったのが、ナント伯ジョフロワの存在で、彼はアンジュー伯アンリに冷たくされた弟でした。
ルイは巧みにジョフロワに近づき、蜂起させます。兄弟同士の戦争にアンリは苦慮し、フランス王の家臣として忠誠を捧げることを誓います。
こうしてルイはプランタジュネ家をフランス王の臣下にし、おのれが君主である、と認めさせました。
1170年、アンリの長男、若アンリが共同統治者イングランド王として戴冠します。
ルイ七世の娘マルグリットと若アンリが結婚し、平和が続くと思われたのですが、プランタジュネ家はまたも親族の内紛が勃発します。自分にも領地を分けて欲しい、と訴える三男ジャンに、アンリは長男の領地を一部、与えようとするも、若アンリは断固拒否。以前から傲慢だった父に反抗するため、反乱を企てたのです。
反乱のおり、若アンリが最も頼りにしたのが、義父であるルイ七世でした。
チャンス到来、とルイは若アンリを支持し、それに乗じてスコットランド王、ブロワ伯、フランドル伯、ブローニュー伯に決起を促します。
「アンジュー帝国」に恐怖していた貴族たちは、フランス王を主導者にして次々と団結、馳せ参じるのでした。同時にカペー家の権威が高まります。
ノルマンディに出兵したルイとアンリは戦い、アンリが優勢になると、ルイはプランタジュネ家の調停役に立ち回りました。平和交渉でアンリ親子の仲を取り持ち、和解させ、休戦にこぎ着けます。
そのころ、老年に差し掛かっていたルイは病に倒れ、フランスとイングランドの和睦が成立しないまま、その後を長男フィリップに託しました。
フランス国王~カペー朝の君主たち 1
フランス国王~カペー朝の君主たち 2
フランス国王~カペー朝の君主たち 3