◆七代目 尊厳王フィリップ二世
1180~1223年
カペー王朝屈指の名君であり、のちに尊厳王と呼ばれました。
まず主膳長を廃止、次に尚書長を空位し、限られた家門が独占している官職の権力を弱めます。
そしてカロリング王朝――大帝シャルルマーニュの血をひく姫が、フィリップ二世の王妃になったことで、「簒奪王朝」と陰口を叩かれたカペー家は汚名を挽回しました。
しかし問題は、王妃の叔父であるフランドル伯が宮廷を専横しかねない可能性が高く、牽制するためにフィリップは仲介役を、父の宿敵、アンリ・ド・プランタジュネに頼みます。
強力な後ろ盾を得たフィリップは、これを利用してシャンパーニュ家とフランドル家を排除したのですが、両家が黙っているはずがありません。
同盟を結んだ両家とフィリップは戦い、見事勝利します。王領を拡大しました。
その後、後見役だった老アンリを排除し、一転、プランタジュネ家との戦いに精を出します。カペー家の宿敵を倒すために。
その当時、若アンリは病死し、三男ジョフロワは事故死、次男リシャールと四男ジャンは領地を巡って諍いを起こします。後継者になったリシャールは、父からジャンへ領地を分け与えるよう命じられたのですが、不服だと父王へ反旗を翻したのです。
ルイ七世同様、フィリップ二世もプランタジュネ家のお家騒動に乗じ、リシャールとジャン兄弟をフランス王の下僕として、臣下の礼を取らせます。
大義名分ができたフランスは進軍し、息子たちに裏切られた老アンリは1189年、失意のまま崩御しました。
アキテーヌ公リシャールは即位し、イングランド王ノルマンディ公アンジュー伯となり、「獅子心王リチャード」として恐れられるようになります。それだけ戦争に強い君主でした。
さすがのフィリップ二世もそれ以上、戦うのを諦め、次ぎはキリスト教徒の同胞として、第三回十字軍遠征に参加します。
十字軍遠征では、フランス王フィリップ二世、イングランド王リチャード一世、ドイツ(神聖ローマ帝国)のフリードリヒ一世という、歴史に名高い名君が顔を合わせ、ともに聖地を目指します。
……が、三者三様、強烈な自我と個性の持ち主だけあり、仲違いをするのは時間の問題でした。
1190年、フィリップ二世はアッコンで包囲戦を始めるも、あとから到着したリシャール(リチャード一世)が都市を陥落します。先を越されたフィリップは面白いはずがなく、病気を理由にすぐに帰国を決めました。
聖地奪還に奮闘するリシャールを尻目に、主が不在のノルマンディを奪おうとフィリップ二世は画策します。
領地をわずかしか与えられず、くすぶっている弟ジャンを利用し、領地をいくつかフランスに割譲してくれれば、「アンジュー帝国」の後継者にしてやる、と唆しつつ秘密協定を交わしたのです。
こうして快進撃を続けたフランス軍でしたが、突如、リシャールが帰還します。
驚天動地のフィリップは取るものも取りあえず、すぐに撤退。
してやられた! と、父ルイ七世と同じように地団駄を踏んだに違いありません。
が、獅子心王リチャードと呼ばれるだけあり、たちまちリシャールの軍勢に包囲されてしまいました。ジャンはすでに降伏してしまい、頼りにできません。
ついに合戦になるも、金庫や公文書まで捨てて遁走するほどの大敗。せっかく占領した城は次々に奪い返され、和睦をするも事実上、得たものはほとんどありませんでした。
王妃イザベルが亡くなり、1193年、フィリップ二世はデンマーク王女インゲボルグと結婚するのですが、不幸に終わりました。理由は定かではないのですが、夜の生活が一度もないままだったのです。
嫌気がさしたフィリップはすぐさま離縁しようとしますが、理由なく婚姻無効ができるわけでもなく、修道院に閉じ込めても解決するわけでもなく――。
尊厳を取り戻そうと、フィリップは再び花嫁探しをします。ようやく見つけた王妃はドイツ領主の娘アニエスで、二人の子供をもうけます。
落ち度のない娘を邪険に扱われ、デンマーク王が怒らないはずがありません。
一方的に離縁を迫られ、納得できないと、デンマーク王家は教皇庁に訴えます。教皇はフィリップ二世に、正式な王妃(インゲボルグ)と死別しない限り、新たな相手との結婚を禁じたのです。
1199年、勧告を無視したフランス王に、教皇は強権を発動。フランス王領における政務停止を命じます。
政務停止になると、洗礼、結婚、臨終の秘跡がフランス国内で出来ず、現代でいう役所としての機能が不全を意味します。こうなると日々の生活に支障が出てしまい、混乱は必至……。
そこでフィリップ二世はアニエスを宮廷から遠ざけ、インゲボルグを王妃に戻すと教皇庁に約束します。改めて婚姻無効取り消しを訴え出るのですが、アニエスがお産で亡くなってしまいます。
幸か不幸か、インゲボルグは王妃の位を奪われず、アニエスの子どもたちは嫡子として、フィリップが教皇庁に認めさせました。
1197年、フランドル伯、ブローニュ泊、ブロワ伯、トゥルーズ伯が反旗を翻し、リシャールまで同盟に加わったことで、フランス軍は敗退します。
敗戦続きのフィリップ二世ですが、1199年、「アンジュー帝国」の諸侯を揺さぶってリシャールへの反乱を企てていたさなか、攻城戦でリシャールは戦死します。
その後を継いだのが弟ジャンで、のちに「失地王ジョン」と呼ばれたほど暗愚な王でした。
我が婚姻のごたごたで、いったんジャンと和睦を結んだフィリップ二世。虎視眈々と機会を伺います。
そんなあるとき、ジャンがある問題を起こし、ラ・マルシュ伯がフィリップ二世へ訴えた出たことで、フランス王として出頭を命じます。婚約者のいるアングレーム伯の女相続人をひと目で気に入り、さらってそのまま結婚式を挙げたためでした。ラ・マルシェ伯はその女相続人の婚約者です。
出頭を無視したのを理由に忠誠義務に反したと判断。フィリップは領地の没収を告げます。
これを口実にフィリップ二世はノルマンディ公領へ侵攻。その戦いのさなか、反撃するジャンは王位継承者の甥をおのれの剣で惨殺します。おのれの王位を脅かす者は、許さないのだと。
あまりの卑劣さに「アンジュー帝国」の諸侯たちがフランス側に寝返ります。
1204年、好機到来とばかりにフィリップは、ノルマンディ最大の要塞ガイヤール城を陥落、北ノルマンディを征服します。
しかし、南は王領をもしのぐ大領主が支配しているため、フランス側はいったん兵を収めるしかありませんでした。
こうしてフランス王領を三倍に増やしたフィリップは、「征服王」とも呼ばれます。
広くなった王領には宮内官僚の代わりに地方官僚を置き、国王会議を改革。政治を協議する閣議と行政を掌る官庁機能を分離させました。
会計監査院と高等法院、大学、市場をパリに設置することで、常に領内を移動していた王家が、一ヶ所に留まるようになったのはフィリップ二世の治世が始まりでした。戦争で金庫を紛失しないよう、ルーブル城に厳重に保管するようになります。
ちなみにこの当時は、首都という概念はまだありません。
1209年、イングランド、カンタベリー大司教の選出に意義を挟んだジャンは、破門を宣告されます。
それを聞き、激怒した教皇インノケンチウス三世はジャンの廃位を宣言し、イングランドの王冠をフランス王フィリップ二世に与える、と言い出しました。
大きなチャンスが到来したとばかりに、フィリップは大急ぎでイングランドへ上陸するための艦隊を作ります。
1700隻もの艦を揃え、出港準備が整ったころ、ジャンとローマ教皇のが和解したとの報せが入りました。
ジャンは教皇にイングランドとアイルランドを差し出し、教皇を封主に仰ぎ、自分は臣下として統治するという、いわば子供だましの策でした。
それをインノケンチウス三世は喜び、フィリップ二世にイングランドへの侵攻をやめるよう命じます。
戦費を艦隊に莫大に注ぎ込んだ挙げ句、あまりの理不尽さに怒りが収まらないフィリップは、その矛先をフランドルへ向けます。しかし、艦隊は海戦で壊滅してしまいます。
その戦争はフランドル伯だけでなく、ブーローニュ伯、イングランド王が加勢し、その背後には神聖ローマ帝国皇帝オットー四世がいました。
しかしジャンの甥であるオットーもかなりの問題児で、教皇から何度か破門を宣告されています。業を煮やしたのかインノケンチウス三世は新たな皇帝――フリードリヒ二世を擁立し、フィリップ二世はこれを支持します。
フランドル伯側の軍勢がフィリップ二世の廃位と、フランス王国の分割をどうするか話し合っているさなか、肝心のフランス王はフランドル領内への進撃を中止することはありませんでした。
――まだ勝算はある、とフィリップは踏んでいたのです。
1214年の大戦で、背後を皇帝オットーの軍に迫られたフィリップは自軍を二つに分け、王太子ルイを南に送ります。
ルイはプランタジュネ家のジャンとアンジェ郊外で戦い、形勢不利とみるやあっけなくジャンは退却しました。王太子の勝利で、フランス王は志気を高め、「征服王」フィリップのもとへ貴族、豪族、聖職者たちが馳せ参じます。
「この神の御前で諸君らは、自らの王のため、自らの祖国のために戦うことを、朕に宣誓して欲しい」
そのフィリップ二世の呼びかけに、全員が誓いを立てました。
こうしてブーヴィーヌの戦いが始まります。フランス王軍の四倍もの軍勢がある皇帝オットーの軍でしたが、激しい戦いの末、オットーはついに軍旗を奪われます。
大勝したフィリップ二世は、フランス王として確固たる地位を築き、威光を高め、さらに領土を広げました。
アンジュー帝国が崩壊したことで、敵対する国内勢力は消失し、治世のあいだに四倍もの王領を拡大したのです。
いっぽうのジャンは島国イングランドしか残されておらず、重税で恨まれ、かの「マグナ・カルタ」を受け入れるしかありませんでした。イングランド議会で決定しない限り、フランスの土地を奪回することは不可能になってのです。
イギリス議会政治の始まりでした。
◆八代目 獅子王ルイ八世
1223~1226年
文武両道に秀で、美しい王妃カスティーリャ王家の王女ブランシュを娶り、12人もの子供に恵まれ、何の不自由もない順風満帆な王太子ルイ。
しかし父フィリップ二世が偉大すぎるあまり、共同統治すら許されず、戴冠式は父の死後でした。
そんな鬱屈を抱えたある時、イングランド王ジョンの廃位をイングランド議会が求め、代わりにフランス王太子ルイを王に選出します。王妃ブランシェがヘンリー二世の孫にあたるためでした。
教皇庁が待ったをかけるも、1216年ルイは張り切ってイングランドに上陸します。
侵攻するルイでしたが、ジャンが崩御し、教皇庁が王位に立てたのはジャンの息子ヘンリー三世でした。まだ9歳の少年でしたが、議会はすぐに手のひらを返すように、ヘンリーを支持します。
戦争に敗北し、仕方なくフランスに帰国しました。
1223年に35歳で即位するなり、まさしく獅子のごとくルイはかつてのプランタジュネ家の領地を征服します。
1226年には十字軍遠征参加を正式に表明し、リヨンの南ランドックを征服するものの、志なかばにして退却しました。
真夏の井戸の水で、赤痢に感染、そのまま崩御……。わずか3年にも満たない短い王位でした。
◆九代目 聖王ルイ九世
1226~1270年
わずか12歳で戴冠したルイ九世ですが、戴冠式に欠席した諸侯貴族を警戒する必要がありました。大貴族の諸侯がフィリップ二世を恨んでおり、カペー王家をいつ裏切るか知れたものではありません。
そこで母ブランシェは一計を案じて前王の遺言を捏造し、王母である自分を摂政にしました。
ブルターニュ伯、シャンパーニュ伯、ラ・マルシェ伯が反王同盟を結び、それを摂政ブランシェが秘密裏に交渉。領地の一部と現金が与えられました。
面白くないのが王家の譜代たちで、ルイ九世の叔父であるユルペルが新たな同盟を結んで、ブランシェの摂政権を返せと訴えます。本来ならば、親王である自分が摂政だったはずだ、と。
1227年少年王ルイは寸前のところで、叔父に拉致されそうになります。
そしてトゥールーズ伯がランドックを奪取しようと立ち上がり、これもブランシェが交渉をして戦いをやめさせました。王弟と伯の娘を結婚させる約束で和解します。
1229年には、親王ユルペルとシャンパーニュ伯が衝突し、翌年にイングランド王がフランスに上陸したことで、戦争が始まります。それをブランシェが休戦に運び、ユルペルと和平を結び、ブルターニュ伯を屈服させました。
やがて少年王が成長し、1234年に母を摂政の任から解くと、諸侯たちの反乱は静まります。
20歳の青年王はプロヴァンス伯の姫、マルグリットと結婚します。ルイと王妃は仲睦まじく、11人もの子供をもうけました。
が、それが面白くないのが、母ブランシェでした。いわゆる、大事な息子を嫁に取られた、姑といったところでしょうか。摂政として命を張って息子を守ってきたのに! と。
夜の寝室はともかく、それ以外の時間は若夫婦が一緒に過ごすことを望まず、邪魔ばかりしていた、と城に仕えた騎士の証言が残っています。
1336年にまたもブルターニュ伯とシャンパーニュ伯が同盟を結び、反王家の狼煙を上げます。ルイ九世はすぐさま自らの軍を率いて、反乱軍を降伏させました。
次ぎは副伯が決起、続いてラ・マルシェ伯が反乱、そしてイングランド王ヘンリー三世が上陸、同時にトゥールーズ伯が復讐の挙兵――を、ルイは全て撃破します。まさしく向かうところ敵なしの青年王でした。
1244年病に倒れたルイは奇跡的に回復します。その「神の奇蹟」に報いるため、ルイは十字軍遠征に参加する決意を固めます。聖地エルサレムがまたも異教徒に奪われたためでした。
1247年、王が不在の王宮を守るための準備として、托鉢修道僧を全国に派遣します。役人たちの不正行為の調査を行い、告発させ、処罰を実行しました。綱紀粛正が終わると、母ブランシェに留守を預けます。
1248年第七回十字軍遠征に出発。アイユーブ朝エジプトに進軍し、初めは勝利するも、弟のアロトワ伯が戦死します。
自身も大勢のキリスト教徒ともに捕虜となり、解放されるも多額の身代金支払いを約束させられます。ひどい目に遭ったルイですが、すぐに帰国しませんでした。まだ多くの仲間が囚われの身となったままだったからです。
母が亡くなったと知る1254年まで、捕虜の解放に尽力し、イスラム教徒との紛争交渉にあたりました。
帰国したルイ九世は、その後、人が変わったと言われます。
まず自身の生活態度を改め、豪奢な王らしい衣装を着ず、食事は出されたものだけを食べ、清貧を心がけたといいます。
次に教会の保護と、修道会や施療院の厚遇、各派の僧院寄進、パリに神学校研究のための学寮を創設――のちのソルボンヌ大学の誕生でした。
そして王国に大勅令を発し、正しい裁判の励行、贈収賄、借金、不動産取得、通婚等不正の温床となる行為の禁止、泥棒、賭博、売春等をしないよう戒めます。
最も変化があったのは、政治問題の解決に武力を使わないことでした。
若い時分、ルイ九世は戦争で諸侯らを屈服させてきましたが、それを不徳だったと懺悔し、以後は和解交渉を進める形をとりました。
まずアラゴン王との交渉でランドックの領有権を取り戻し、次にヘンリー三世とパリ条約を結んで、ノルマンディ等を放棄させる代わりに、アキテーヌを返還させる、というものでした。祖父と父の代から続く諍いを、交渉によって解決しました。
そしてキリスト教同士が争うべきではないと、シャンパーニュ継承問題やフランドル継承問題等、大小の揉め事にルイが介入し、裁定を下し、流血が起こらないよう心血を注ぎます。
とくに有名なのが、1264年のアミアン裁定であり、ヘンリー三世とレスター伯の闘争に介入しました。イタリアでは皇帝派と教皇派の調停をしばしば頼まれます。
そんなフランス王ルイ九世は「平和をもたらす王」と知られるようになります。
神のために我が身を捧げるルイは、再び十字軍遠征を目指します。
1270年、北アフリカに上陸するも、疫病のため崩御しました。
その十字軍遠征は、すでに初期の志は失われ、半ば強引にフランス王ルイが活動していた状態でした。教皇庁の後ろ盾はないまま、フランス軍がほぼ単独で強行したといいます。
フランス国王~カペー朝の君主たち 1
フランス国王~カペー朝の君主たち 2
フランス国王~カペー朝の君主たち 3