サンソン家の末代~初仕事を逃亡した死刑執行人

1830~40年 パリ

フランス革命の死刑執行人で紹介した、シャルル・アンリ・サンソンの孫アンリ・クレマン・サンソンが、サンソン家6代目の死刑執行人です。そしてサンソン家の末代でもありました。
アンリ・クレマンを最後に、サンソン家は断絶します。

パリ風景

父の職業を知らなかった少年時代

アンリ・クレマン・サンソンは1800年に生まれました。
裕福なサンソン家は広大な屋敷を所有しており、そこには十数人もの使用人がいました。父と母は優しく、祖父母はおおらかで温かく、一人っ子のアンリ・クレマンは何不自由なく大切に育てられます。
本が大好きなアンリ・クレマンでしたが学校には通わず、母と神父が家庭教師につきます。近所の子供たちと遊ぶことも許されませんでした。
神父が亡くなり、ようやく小学校に進学するものの、なぜかパリ郊外に祖母と引っ越し、学校ではロンヴァル姓を名乗ります。

幼いアンリ・クレマンはとくに疑問に思わず成長し、12歳でパリの中等学校へ進学します。小学校同様、ここでも両親と祖父母は、友達を家に連れてこないように、また遊びに行かないように、しつけられました。
そして15歳のとき、ついにサンソン家の運命にアンリ・クレマンは翻弄されることになります。

たまたま学校がいつもより早く終わったある日、アンリ・クレマンは「親友」を我が家の晩餐に誘います。
しかし、親友はサンソン家からやんわりと拒絶されてしまいました。
理由がわからず腑に落ちないまま、翌日、学校で親友に両親の態度を詫びよう、とするものの、アンリ・クレマンは親友に無視されました。翌日も、その翌日も……。

突然の裏切りに怒ったアンリ・クレマンは親友に事情を問い詰めます。
そうして返ってきたのが、スケッチブックに描かれたギロチンの絵と、ラテン語で書かれた「おまえの父は処刑執行人」。

その瞬間から、アンリ・クレマンの苦悩の人生が始まったのです。

1830年7月革命

処刑場から逃亡した初仕事

サンソン家の本当の職業を知ったアンリ・クレマンに祖母が事情を話し、死刑制度が国にとって必要な職業だと諭されます。どうしようもない人間に罰を与え、社会正義を守るの我がサンソン家なのだ、と。
祖母がとくに強調したのが、夫――4代目アンリ・シャルルの苦悩です。
革命で国王ルイ16世夫妻を処刑したこと、革命後の大粛清で数えきれないほど無辜の人々を処刑したこと、堪えきれず手が震え、ノイローゼになったこと、それでも職務を全うするため処刑を続けたこと……。

つぎに5代目である父アンリが死刑執行人としての立場を説明します。
いくら社会正義のためとはいえ、死刑執行をするのはとてつもなく辛いこと、なのに感謝されるどころか人々からは忌み嫌われること、そんな偏見を払拭しようと先代が腐心するも、死刑制度は廃止されないこと……。
決して報われる職業ではないが、社会のために必要であり、誰かが背負わなくてはならないのだから、代々誇りを持って遂行しているのだ、と。

そして父はアンリ・クレマンに「死刑執行人の職業を継ぎたくなければそれでいい。おまえの自由だから」と言います。
しかし継がないのを意味するのは、父や祖父の職業を否定しサンソン家を蔑むことになります。

それ以上父とは話しづらく、アンリ・クレマンは祖母と相談します。祖父は7歳のときすでに亡くなっていました。

アンリ・クレマンが家業を継ぐことを迷っていた20歳のあるとき、病気で寝込んだ父親の代理として、初めて死刑を執行します。
一睡もできないまま当日を迎え、死刑台につれてこられたのはまだ20歳の若者でした。強盗目的で2人の婦女を殺害した死刑囚は、死を怖れる様子はなく、不遇の人生だから仕方がない、とみんな――執行人を許す、と死の直前に告げました。

が、それでもアンリ・クレマンは処刑するおのれを許すことができません。
執行の合図を出せず、察した助手がギロチンの刃を落とし、血まみれになった処刑の後片付けを放棄して、逃亡しました。

――ついに人間ではなく、処刑人になってしまった!
と嘆きながら。

フランス軍


王政復古の時代、王家の人間を暗殺しようとした者は躊躇なく処刑されました。
とくに軍隊はブルボン家を嫌う者が多く、皇帝ナポレオンの時代のように叩き上げで出世できる道が閉ざされてしまいます。革命前のように能力がなくても、将軍になれる貴族たちに反感を覚えます。
「ラ・ロッシェルの四軍曹」は、軍事クーデターで王家を倒そうとしたため、死刑になります。しかし彼らはだれも傷つけておらず、殺してもいません。

崇高な若い軍人たちに世間の同情が集まり、アンリ・クレマンは処刑人として苦悩します。そして死刑制度を憎み、廃止を願います。

その反面、大量殺人を犯した死刑囚のほとんどは、死そのものを恐れません。ギロチンにかけられようが、不敵に笑う者までいたといいます。
社会正義のためとはいえ、いったい、死刑制度が犯罪の抑止力になっているのか?
そう、疑問に思わずにいられません。

1830年パリのカフェ

放蕩と突然の罷免

死刑執行人を始めて20年後、ついに父、5代目アンリ・サンソンが亡くなります。
6代目サンソンになったアンリ・クレマンは、5代目が引き継いだルイ16世へのミサを放棄し、副業であった医業も引き継ぎませんでした。
祖父の代まで医者は限られたものの、19世紀をすぎると医学部を卒業した医者が増え、医師免状がないとやりにくくなったためです。

父親という枷を失ったアンリ・クレマンは、これまでの鬱憤を晴らすかのように放蕩を始めます。死刑執行の数もぐっと減り、収入も同じく減ったものの、先代までが貯蓄した財産や株の配当で不自由なく暮らせる――はずでした。
自由を得たアンリ・クレマン。娼館に足繁く通い、賭博でハメを外します。嫌でしょうがない死刑執行の仕事を忘れるように。

わずか数年でサンソン家の財産を使い果たし、借金がみるまに膨らみます。
アンリ・クレマンは借金取りから逃げるも、死刑執行の仕事が法務大臣から命じられると、遂行しないわけには行きません。
死刑囚の処刑と埋葬を終えた直後、待ち構えていた借金取りに捕まり、債務不履行で監獄に収監されてしまいます。
屋敷はとうに売り、馬車も売り、それでもお金が足りない…………。

1847年、ついに、アンリ・クレマンはサンソン家の仕事道具である、ギロチンを売ってしまいます!

が、ギロチンがないと死刑執行ができず。
一日だけでいいから、返してくれ、と売った先に懇願するも断られ、法務大臣へ泣きつくと、買い戻すための資金を都合してくれました。

1830年7月革命


そんなあるときの夕方、法務大臣から一通の封書を受け取ります。
また死刑執行命令か、と思ったら、なんと。

――死刑執行人の罷免。

突然、死刑執行人の仕事から解放されたアンリ・クレマン。
一族の忌むべき宿命が終わり、残りの人生は穏やかに過ごせるでしょう、と年老いた母も感動します。
親子は嬉しさのあまり涙を流さずにいられませんでした。

娘二人は医者に嫁がせ、後継ぎの息子は幼い時分に事故死。これでサンソン家は自分の時代で断絶する――そして一族は、忘れ去られる。
そのはずでした、が。

1862年、アンリ・クレマン・サンソンは『サンソン家回顧録』全6巻を出版します。
初代から代々残した記録をまとめ、おのれの半生を書き、サンソン家の数奇な運命と死刑制度の廃止を問う内容でした。
それは大ベストセラーとなり、サンソン家の名前が一気に脚光を浴びます。
家門の名折れだったはずのアンリ・クレマン・サンソンは、こうして大功労者として歴史にサンソン家の名を残したのでした。

ちなみにサンソン家のあと、死刑執行人を引き継いだのはサンソン家とは全く無関係の者でした。

参考文献


フランス反骨変人列伝 (集英社新書)
↑6代目サンソンのほかに、ルイ14世寵姫の夫モンテスパン侯爵、叩き上げネー元帥の悲劇、死刑囚詩人ラスネール。

※4代目シャルル・アンリ・サンソンについてはフランス革命の死刑執行人にて紹介しております。