裏切られ、置き去りにされて
1946年8月の終わり、ビクトルは父と親戚に見送られ、ハルビン駅から引き揚げ列車に乗ります。
保護者の小隊長は父が奔走して探し回った知り合いでした。子供が単独で引き揚げることはできなかったのです。
列車はハルビンを出発し、新京、奉天、錦繍へと800kmほど南下し、最終地点は遼東湾のコロ島という小さな軍港でした。そこから船で日本へ帰国します。
引き揚げ隊は隊長の指揮が絶対であり、自由行動は許されません。置いていかれないよう、父からしっかりと言い聞かされていました。
屋根のない箱列車の集団のなかに、あのタカギ君の姿がありました。ビクトルは笑顔で手を振るのですが、そっぽを向かれてしまいます。
夏の暑さにもかかわらず、携行できる服は数が決まっていたため、人々は着られるだけ着込んでいました。
のろのろ進む列車が停止すると、列車を飛び降りた人々は線路脇で用を足します。置き去りにされては大変だと、女性たちも同様でした。
中国人運転手に渡すための金品集めも、引き揚げ隊の代表者の役目であり、賄賂がないと列車は停止したままでした。
やがてハルビンの南100km地点にある第二松花江で、列車は停まります。鉄橋が壊れてしまったため、船で向こう岸へ移動しなくてはなりません。
ビクトルは大人たちに混じり、10km先の船着き場を目指して歩きます。
と、髭面のいかつい男に突然、ビクトルは罵声を浴びせられます。
「ロスケのガキの世話なんかできるもんか」
「違います、日本人です」
「お前みたいの、面倒みきれん」
男は裕福な父がいるハルビンへ帰れ、と言います。保護者代わりの小隊長も同意し、タカギ君に助けを求めるも、「こいつなら置いて行ってもひとりで帰れる」と冷たく言い放ちます。
「裕福な父親がいるんだから、家族と一緒に帰国すればいい。おまえみたいなのがいたら、隊の統率が乱れて迷惑するんだ」
小隊長がそう告げると、ビクトルはヒゲ男たちから荷物のリュックを奪われます。抵抗して暴れるビクトルをタカギ君は押さえつけ、「達者でな」と小馬鹿にした笑いともに去っていきました。
それでもビクトルはハルビンに帰るつもりはありません。窮屈な生活がいやでたまらないのだと。
他の隊へ入れてもらおうと駆け寄るも、みな拒絶します。大人たちは悲壮な顔つきで、身寄りのない少年にかまう余裕はなかったのです。
結局、船着き場から船に乗るのを諦めます。ズタ袋を開けたら、わずかな食料と着替えしか入っておらず、コーリャからもらった大事なナイフもありませんでした。
日が暮れるなか、空腹のビクトルを救ったのは共産党軍の兵士でした。マントウをくれた彼らは「置いていかれてかわいそうに」とかわいがってくれ、自然と行動をともにします。
国民党軍と戦う共産党軍のなかに、数人の日本兵がいました。彼らはシベリアから脱走したのか、中共へ捕虜として送られたのかは語らず、農民上がりの中国人兵に戦い方を教えていました。
数日後、松花江を渡ったあと、ビクトルは敵地へ潜入した兵士たちに置いていかれてしまいます。子供をかまう余裕がなくなったためでした。
どうするか迷った挙げ句、ビクトルは単独で南へ向かうことを決めます。
草原とともに生き延びる
独りになったビクトルは決して、線路沿いを歩きませんでした。線路の脇には盗賊よけの浅い堀が続き、ここを歩けば効率よく辿り着けそうですが、周囲には匪賊が隠れていました。
だからといって線路を見失うと、進む方向がわからなくなります。だから、常に左目の視界ぎりぎりに線路が入る位置を選びながら南下しました。
白は目立つからコサックの緑色のシャツに着替え、小枝でステッキを作ります。使ったナイフは共産党軍にいた日本兵から借りた物でした。
このナイフのおかげで、ビクトルは荒野を単独で旅を続けることができたのです。それだけコサックにとってナイフは必需品でした。
風向きや風の冷たさで雨の気配を察知したときは、木陰を探してやりすごします。雨に当たると体温を奪われ、体力を消耗することをコサックから学んでいました。
体力を温存するため、疲れたときはまめに休憩を取ります。いざ、逃げる時、疲労していると早く遠くまで走れないからです。
小川を見つけると木の実を採って食べ、水を飲みました。
問題は靴でした。炎天下の荒野を歩いていると、すぐにほころび底が取れてしまいます。
引き揚げ時、ゴムの運動靴を履いていたビクトルは、線路脇に転がっている死体から靴をもらうことにしました。
線路脇には列車に乗り遅れた人、貨車から転がり落ちた人、車内で息を引き取った人たち――行き倒れの日本人の死体が埋葬されないままたくさんありました。
靴はよく破け、ぼろぼろになる前に死体を探しては、十字を切って靴をもらいます。他に食料やタオル、布類、紐もありました。
日が沈めば一気に気温が下がるため、明るいうちに野宿の寝床を探します。くぼみや岩陰など身を隠せる場所を寝床にします。土や草の上だと体温を奪われ、狼や野犬、人に見つかる可能性が低いからでした。
ブヨや蚊――満州のそれは大きく、刺されるのを防ぐために虫除けとして馬糞を水で溶いたものを首や帽子に塗ります。虫が苦手な、トゲだらけの泥棒草を周囲に置くこともありました。
それを知らない日本人たちは、虫の猛攻撃に悩まされ、ろくに眠れなかったといいます。
ビクトルは寝首をかかれないよう、寝るときは荷物を左肩のそばにおき、一番近くにナイフを置きました。
あるとき、線路脇を歩いていた母子連れが、匪賊に撲殺されるのを目撃します。あまりにもむごたらしい光景に、草むらに隠れていたビクトルは言葉を失います。
当時、最終列車に間に合わず、逃げ遅れた引き揚げ者が大勢いました。裕福ならば賄賂で優先的に列車に乗れたのですが、貧しい引き揚げ者は命がけの旅でした。
ときにロシア人が住んでいる家を見つけ、宿の世話になります。しかし誤って中国人の家だと命を奪われかねないため、煙突から出る煙を観察し、慎重に判断しました。
白系ロシア人たちは、置き去りにされた10歳(11歳だったが、さらに幼いと同情された)の少年の事情を聞くと涙し、十字を切るビクトルにごちそうを出します。さらに靴下や手ぬぐいをお願いし、日持ちのする黒パンや岩塩をわけてくれました。
とくにお年寄りが親切でした。……それを見つめていた家の子どもたちは、胡散臭そうな目だったそうですが。
生きるために必死になっているビクトルは、精一杯気の毒ないい子を演じ、南下の旅を続けます。
宿がないときは、食べられる木の実を探します。とくに好物はクルミで、見つけたら手作りのパチンコで何個も落としました。
動物性の食べ物が欲しくなったら、中国人農家の庭に忍び込み、鶏の卵を抜き取ります。
そうやって旅を続け、ようやく新京にたどり着きました。
弱い日本人と二度目の置き去り
満州国の首都、新京は避難民で溢れかえっていました。ビクトルは日本人たちの最後尾について一緒に収容所へ入ります。しかしたった独りでいる少年には冷たく、若い中国兵が食事をくれるだけ。
引き揚げ隊に入れないと悟ったビクトルは、翌朝、荒野を歩きます。
線路脇にはたくさんの日本人たちの死体が転がっていました。
殺害された死体もありましたが、多くは弱って息絶えたようで、空中を掴むようにして亡くなっていました。
――行き倒れの人々は助けを来るのを待った挙げ句、死んだのか、ひと目につく場所で死体になっていた。
とビクトルは語ります。
腐敗し、膨らみ、はじけて黒く溶けた死体が哀れなあまり、ビクトルは死体をうつ伏せにしてやりました。神様に祈りながら。
ときおり線路の脇を歩く日本人の集団を見つけ、大人数のときは一緒に歩きました。
ある隊は、壮年のリーダーの速さについていけず、途中で行き倒れる女子供たちがいて、ビクトルは憤ります。どうして弱い者を見捨てるのだろう、と。
日本人たちは歌うこともおしゃべりすることもせず、悲壮な顔で歩くだけ。つらいときこそ陽気にならないと気力を失ってしまうのに。
コサックであるビクトルから見た日本人は、弱い民族でした。
道中、何度か、ビクトルは国共内戦に遭遇しています。
両者が山砲を撃ち合っているのを丘の上から観戦していると、激しい衝撃音とゴム人形のように飛ばされる兵士が見えます。銃撃戦に遭遇したこともあります。
そのときビクトルは思います。
――戦闘で死んでいったのは、命を惜しんで逃げたり叫んだりする人だった。だから危険なときは慌てず、落ち着いて、心でにっこり笑うのを忘れなかった。
激しい下痢に襲われたときは、体力を消耗しないようじっとしていました。
何度か死ぬかもしれない、とビクトルは思ったといいます。
そんなビクトルが一番怖かったのが、人間でした。引き揚げ者だと知れたら連れ去られてしまうため、街を歩くときは現地の少年になりきります。
10月なかば、ようやくビクトルは奉天に着きました。
ここでも大きな隊のあとにくっついていき、収容所に入ります。久々の給食に感激し、無蓋列車に乗って出発します。
遼河を越えた翌朝、用を足すために列車降り、再び乗ろうとしたとき、男たちが拒絶します。「ロスケにはひどい目にあった。乗せない」と。
「僕は日本男児だ」と訴えても、男たちは乗ろうとするビクトルを押し返します。
ついに列車は遠ざかり、またも置き去りにされたのでした。
ついに到着。そして日本へ
錦州までの旅は土地が開けていて、危険なこともなく順調でした。
ここでは追い払われず、アメリカ兵に真っ白なDDTをふりかけられ、親切な職員に収容所へ案内されます。
保護され給食がある代わりに自由はありませんでした。ビクトルは「これで日本に帰れる」と安堵します。
そばにいる大人たちは大変だった引き揚げのことを話すのですが、二度も置き去りにされ、独りで荒野を歩き続けたビクトルにしてみれば、言いようのない感情がこみ上げてきます。
のちのビクトルは語ります。
「日本人ってとっても弱い民族ですよ。打たれ弱い、自由に弱い、独りに弱い。誰かが助けてくれるのを待っていて、そのあげく気落ちしてパニックになる」
「もし、引揚隊と一緒に行動していたらどうなっていたかな? 死んでいたかもしれないな」
埠頭から米軍の輸送船に乗り、ビクトルはようやく日本へ帰国します。
収容所へ柳川から迎えにきたのは、ハイラルの軍官舎に住んでいた叔父でした。柳川の家に入ると、ハルビンで別れた親戚たちが目を丸くして驚きます。
歓迎されるどころか、ビクトル――正一は叱責されました。一人で先に出発したのに、どうして二ヶ月も遅れたのか、と。
とても独りで帰ったとは言えず、ひたすら「ごめんなさい」と謝りました。
つらかったはずの単独帰国でしたが、夜、目を閉じると、なんて楽しい日々だったのだろう、とビクトルは思い出します。
あの日々は宝物のようだった、と。
12歳から親戚の家を転々とし、やがて格闘家への道へ進みます。そしてソ連の国技サンボと出会い、「ビクトル古賀」と名乗って世界チャンピオンとなります。
母クセーニアと弟イーガリーが日本に到着したのは、1953年7月8日でした。抱き合い泣いて喜ぶ母子は8年ぶりの再会でした。
その1ヶ月後、父仁吉と弟ワシリー、ニコライもようやく帰国します。
ビクトルはクセーニアとイーガリーとともに、東京の引き揚げ者住宅で暮らします。念願の親子水入らずの生活でした。
日露混血少年、満州を脱出する~1
日露混血少年、満州を脱出する~2
日露混血少年、満州を脱出する~3
参考文献
たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く (角川文庫)
↑記事で紹介した古賀一家のその後の詳細については、上記書籍にあります。ほかにも紹介しきれなかった満州の暮らしや戦争、引揚げについてたっぷり回想があります。コサックの歴史も。