日露混血少年、満州を脱出する~1

古賀一家の肖像写真。『たった独りの引き揚げ隊』(角川文庫)より引用。

日本人の父とロシア人の母を持つサンボ(ロシア国技)選手だった、ビクトル古賀。彼は満州で生まれ、終戦直後、11歳のときたった独りで、日本に帰国しました。
ロシア人との混血だったため、帰国するさなか「ソ連に帰れ」と引き揚げ隊から追い出されてしまったのです。それでも持ち前の明るさと生命力で、少年はいくつものピンチを切り抜けます。
それはビクトルの血に流れるコサックとしての生き方が、彼を救ったのでした。
第二次世界大戦直後の満州と、そこに生きたコサックと日本の人々について紹介します。

1917年ペトログラード・ソヴィエト会議

ロシア革命と祖父と両親

ビクトルの祖父フョードル・ミハイロビッチ・ラーパルジンは、1880年ロシアサバイカル州ブイカル村に生まれました。清国との国境に近いコサックの村です。
ロシア政府はコサック軍団に多額の資金と投入し、国境警備をさせました。コサックの男たちは幼い頃から騎兵として訓練し、最高の栄誉はロシア皇帝の近衛兵に選ばれることでした。18歳のフョードルはその栄光を授かったのです。

その後、貴族の娘と恋愛結婚。日露戦争で捕虜になったことで、フョードルは日本を敬愛します。当時の日本軍は捕虜を客として、丁重に扱っていたのでした。
帰国して平穏な暮らしをするも、10年後の1914年、フョードルは第一次世界大戦へと出征します。当時、ロシアでは革命が起こり、1917年にソヴィエト政府が樹立。300年続いたロマノフ朝は崩壊しました。

コサックは皇帝の兵として革命軍に弾圧され、フョードルの妻は疎開するも、クセーニア――ビクトルの母を産んで亡くなりました。戦争から帰国したフョードルは白軍(反革命軍)として、赤軍(革命軍)との内戦に身を投じます。

ソ連政府は富裕層であるコサックの財産をすべて没収し、遠方へ追放しました。1920年、赤軍の弾圧を恐れたコサックたちは、満州へ向います。亡命でした。
フョードルたちコサックは国境に近い満州の地を開拓し、コサック村を作ります。彼らは宗教とともに、革命前の習慣で暮らし続けました。

ビクトルの父、仁吉は柳川家藩主を血筋に持つ石橋家の出身で、生まれてすぐ古賀家の養子になりました。兄とともに商会を立ち上げ、満州で軍服や毛皮製品を販売したのが大成功します。それだけ当時の満州では、警備用の服や防寒着の需要が高かったのでした。

仁吉は商品の材料である毛皮を調達する仕事をしていたとき、ビクトルの母クセーニアと出会い、恋に落ちます。クセーニアは商家で子守として働いていました。
祖父フョードルが日本びいきだったのが幸いし、ロシア正教徒の洗礼を受けることを条件に祝福の結婚します。仁吉はニキータという洗礼名を授かるものの、その後、ミサにも行かず、イコンに祈りを捧げることはありませんでした。

ビクトル少年とコサック村

コサックたちが作った村々一帯は三河と呼ばれました。二十数ヶ所の村には国籍を持たないコサックたちが1~2万人ほど移住します。
三河の地はソ連軍の攻撃と中国の重税で苦しい生活を強いられていましたが、1932年に満州国が成立した後、暮らしは一転します。
インフラ、交通が整備され、学校が建設され、減税され、宗教の自由を認められます。三河は満州の大穀倉地帯として発展しますが、裏の顔は対ソ連工作活動の拠点でした。

暮らしが豊かになった代わりに、有事には戦闘員になることを求められます。対ソ連の諜報員として訓練され、村の頭目だった祖父フョードルもその一員でした。
結局、終戦まで一度も、コサックと日本軍はともに戦うことはありませんでしたが。

1935年、古賀正一(日本名)――ビクトル・ニキートヴィチ・ラーパルジンは満州国ハイラルに生まれます。
国民学校に通う日本人のビクトルは誇り高いコサックの一員として、祖父たちから伝統を受け継ぎます。平日は学校、休みの日はコサック騎兵の訓練です。

6歳になったビクトルは馬を与えられ、17歳のコサック、コーリャに指導を受けます。他にアリョシカ、パシェカがいました。
馬で走りながら地面を下りて、またすぐ飛び乗る訓練。走っている馬の背で立ち上がり、座る訓練。お互いの馬に同時に飛び移る訓練……。
3人の少年はコーリャからさまざまな騎兵の特訓をされるのですが、半分日本人の血が流れているビクトルは、一番の下手くそでした。生粋のコサックには敵わない、と。

ビクトルはコーリャから騎兵だけでなく、たくさんのコサックとしての生き方を学びます。
方位の見方、風の読み方、変動する天候への対処、川の流れの読み方と匂い、ナイフの使い方等など……。常に鳥の鳴き声や虫の動きに注意し、自然の異変を察知します。
森に入り木の実を採取、ミツバチの巣を探して蜂蜜を舐め、川では釣りをします。川はコサックにとって神聖なるもので、生きるための全てのがそろっていました。

終戦後、アリョシカはソ連の軍人になり、スパイ容疑で父を日本軍に連行されたパシェカは不明。勇敢だったコーリャをビクトルは探し続けるも、最後まで消息はつかめませんでした。

満州の日本軍

ソ連軍侵攻とハイラル崩壊

国民学校の5年生だったビクトルはソ連との国境に近いハイラルの大草原で、コーリャたち3人の少年とともに馬に乗って駆けます。1945年8月9日の早朝でした。
その日、学校は登校日でしたが、ビクトルにとっては二の次で、騎馬訓練のできる貴重な夏休みを過ごしていました。コサックとして少年たちは馬の上に立ち、飛び乗り、ナイフを抜いて掲げます。

その日はやけに飛行機が飛び交い、軍用道路には日本軍のトラックや車が列をなしてハイラルの町へ向けて走り、牧場の牛たちが啼きながらそれに続きます。
異様な空気を感じながらハイラルの町にもどると、道には穴が開き、建物の屋根は吹き飛んでいました。
いつも閉じているわが家のドアが乱暴に開かれたまま――誰もいないと直感したビクトルは裏の牧場や、近所の叔父さん(父の弟)の家に行くも、そこに母の姿はありません。
父仁吉と叔父たちが経営する店に向かうももぬけの殻。父はその時軍隊に招集されており、音信不通でした。

馬に乗って学校に行ってみますが、校舎には人の気配がありません。向かいに立つ公社は盛大に燃えていました。
だめだ、と悟ったビクトルは東郊外にある軍人官舎は向かいます。そこには伯母さん一家が暮らしていました。その道中、たくさんの日本兵が走り回り、鉄砲音、叫び声、渦を巻く炎、そして大きな鳥居が燃えています。中国人街では人々が逃げ惑います。
その時点でビクトルは暴動か馬賊の襲来かわからないままでした。日本人らしき人々はどこにもいません。そのとき日本人たちは、防空壕か自宅に引きこもって、災禍をじっとやりすごしていたのです。

30分かけて軍人官舎へ到着しますがすでに廃墟となっており、そこももぬけの殻でした。
ビクトルはすぐに官舎を去り、露人住宅で母の友人を見つけます。そこで母は弟たちを連れて、馬車で逃げたと聞かされます。そして、ソ連軍が満州を攻めてきた――戦争だ、と知らされたのでした。
母の友人はビクトルに忠告します。
「ソ連兵に見つかったら、コサックはその場で殺されちまう」。
当時、革命を嫌ったコサックたちは帝政復活のスローガンを掲げており、ソ連側にしてみれば反体制の敵でした。
しかし好奇心旺盛なビクトル少年は「本物の戦争を見てみたい」一心で、馬を下りて駅へと向います。

軍人会館や憲兵隊本部は日本軍が重要書類を焼却するため、火をつけて燃やしていました。
駅舎前はソ連軍の戦車が近づいてくるという流布のため、逃げようとする人々であふれかえるも、線路が爆撃を受けており、列車が来る気配はありません。その騒動のなかで軍人が刀を抜いて叫ぶも、ごった返す人々――大人たちは阿鼻叫喚でした。

空恐ろしくなったビクトルは駅を背にしてうろついていると、20人ほどのコサックの行進を目撃します。
「浅野部隊だ!」と、心の中で歓喜するも、彼らは突如、発泡した日本兵に射殺されます。それは激しく、コサックたちはばたばたと倒れて命を失いました。

浅野部隊とは、1937年に関東軍情報部がコサック集めて編成した対ソ連部隊のことで、正式名称は白系露人部隊。白系露人はソ連政権を支持せず、ロシア国外に亡命した人々を意味します。その部隊は機密だったため、部隊隊長の姓をとって浅野部隊と呼んでいました。
戦局の悪化で浅野部隊は解体されるも、ソ連侵攻を知ったコサックたちは再集結して立ち上がります。しかし日本軍との連絡がうまくとれず、赤軍に寝返ったと誤解されたのでした。

浅野部隊の悲劇に耐えられなくなったビクトルは河原にもどるも、そこにつないだ愛馬は消えていました。
コサックの格好をしているビクトルは、ときおりかすめる銃撃を恐れながら物陰に隠れます。そのとき、運良く持ち主とはぐれた馬を見つけました。

どこへ行くか迷った挙げ句、古賀家の別邸があるハルビンへ行くことに決め、線路沿いに馬を進めます。ハイラルからハルビンまで約750kmもの距離がありました。
その夜、ビクトルは住人が逃げ出したばかりのロシア人の家に入り、そこで食事と睡眠を取ります。


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