オペラ(歌劇)の盛衰史とカストラート

カストラート ファリネッリ

カストラート ファリネッリ:引用元Farinelli | LE PACTE

バロック・オペラ~オペラの誕生

オペラは1600年ごろにイタリア宮廷の娯楽として生まれました。時はバロック――絶対王政の時代です。
ルーツは16世紀ルネサンス時代、ギリシア悲劇を復活させようという試みから始まったものです。
しかし肝心の悲劇よりもコミカルな幕間劇が人気となり、パントマイム、歌や踊りの短いショーで妖精や人魚との恋、竜退治を主題としたものでした。

幕間劇は王侯貴族の婚礼祝典に欠かせない催しだったため、豪華絢爛な舞台を背景に繰り広げられる劇はだんだんと長く、派手になっていきます。
バロック時代のオペラとは芸術を鑑賞するものではなく、非日常的なスペクタルを楽しむものでした。その本質は19世紀まで変わることはありませんでした。

17世紀中ごろになると、ヴェネチアではオペラを商業化して大成功します。
ヴェネチアは共和国であり、王侯貴族が祝典として上演する劇とは違って、観光客目当てにビジネス化したオペラ。それらは荒唐無稽で、古典や神話の教養がない庶民でも楽しめるように作られました。

18世紀に入ると喜劇ショーのオペラを、簡素な古代劇へと改革する流れが出てきます。美しい旋律と詩文で構成される様式は、オペラ・セリアと呼ばれました。
しかし上演されるころになると、荒唐無稽な演出舞台になってしまいます。
そしてカストラートの人気に火が着き、様式美を目指したはずのオペラはカストラートのショーと化しました。カストラートとは、男性器を去勢した高音域の男性歌手のことです。

カストラート ファリネッリ(中央)

孔雀のように着飾った中性的なカストラートの怪しい魅力に、観客――とくに貴婦人たちは熱狂します。
台本はワンパターンで、専制君主が三角関係に悩み、ラストは悔い改めるハッピーエンドというものでした。劇のストーリーや旋律は二の次であり、観客たちは豪華絢爛なスペクタルを楽しみます。(メスタージオ・オペラ)

いくら大衆的になったとはいえ、バロック時代のオペラは王侯貴族たちのものでした。観劇よりも社交に重点を置いた劇場に、2階中央の貴賓席とボックス席が誕生します。
貴族専用であるボックス席は劇場の側面にあり、観劇するには向いていません。見えるのは他のボックス席の客たちで、着飾った衣装や顔ぶれを眺めながら社交をしました。

ちなみに平土間(現在でいえばアリーナ)には椅子がなく、庶民たちが立ったままオペラを鑑賞しました。オペラファンたちが集まっては、熱中するあまり騒動を起こすのが常でした。

専制君主たちはオペラを芸術として楽しむのではなく、いかに莫大な資金を使ってオペラに消費するかに情熱を注ぎます。たった一夜の催しのために、数ヶ月、ときには1年を費やして、数千人の労働者を舞台づくりのために動員しました。
豪華絢爛なオペラを貴族や庶民たちが鑑賞し、王の威厳に屈服する姿を見て、専制君主たちは自尊心を満たしたのです。

バロック・オペラが勃興したイタリア、フランス、スペインですが、ドイツやイギリスでは流行しませんでした。カソリック教国とは違い、質素倹約を信条とするプロテスタント教国では、ありえない贅沢でした。

補足:カストラートについて
もともと教会で女性が歌うことは禁忌とされていて、代わりを受け持った裏声の男性がやがて、去勢されたカストラートへと変遷していきました。そして彼らは当時、非常にもてはやされており、聖歌隊だけでなく才能のある者はオペラ歌手として活躍するように。
金持ちの女性が愛人兼パトロンになることもあって、なかなか優雅な生活をしていました。ただ、一生、男として生きていけず、鬱屈した部分埋めるようにして己の芸に磨きをかけるため、相当レベルが高かったようです。その後の声楽の基礎をつくったほど。
その後、じょじょに古典劇がマンネリ化してしまって、女性歌手も登場するようになるにつれ、カストラートは衰退していきます。あと、食い扶持を稼ぐ方法として、外国で移民になる選択が主流になったのも要因でした。
玉抜き去勢の手術は始めは農家、やがて熱湯消毒と麻酔が発明されると外科医へ。当初はすべて去勢していたから、死亡率も高かったとか。そうまでしてもカストラートになりたかった少年がたくさんいたほど貧しい境遇だったのです。
※以前別ブログで投稿した記事を修正しました。

↑映画『カストラート』でファリネッリがアリアを歌うシーン。

ロココ的なオペラ・ブッファ

18世紀後半、次第に王侯貴族の権威が失われるにつれ、荒唐無稽で莫大な浪費を必要とするオペラ・セリア廃れていきます。古典劇や神話のパターン化で、飽きられつつありました。
時はロココ時代。絶対王政は弱まり、啓蒙君主の時代に変わりつつありました。貴族時代の斜陽が始まり、市民階級が台頭し始めたころでもありました。

倹約をモットーにする市民たちは、膨大な報酬が必要なカストラートへの批判を強めます。カストラート一人の報酬が、2000人もの飢餓を救うことができるのだと。
豪華絢爛なオペラ・セリアを催すことが難しくなり、次に登場したのがオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)でした。

神話や古典、専制君主を称える歌を、カストラートたちがアリアで歌うのではなく、ブッファは登場人物たちを人間らしく、アンサンブルで自然に登場させます。優美な自然主義のロココとマッチしたことで、庶民だけでなく貴族たちも喜劇オペラを好みました。

オペラ・ブッファの作曲者で一番有名なのがモーツァルトです。
喜劇を好んだモーツァルトは、型にはまったオペラの登場人物たちを、丹精に人間らしく描きます。善玉、悪玉と二分せず、悪役にも魅力を与えて人間臭くしました。

様式――パターン化に凝り固まったオペラを、モーツァルトは複雑なドラマに仕立て上げ、男女の恋の駆け引きのさまざまな感情を表現します。リアリズムなヒューマニズムを作り出し、自然主義なロココ時代らしいオペラにしました。
いくら下世話だとしても、恋のスキャンダルに興味のない人間はいません。いつの時代でも、需要があります。そんな「下品な題材」を、モーツァルトは美しく複雑な旋律で、見事な芸術に仕上げました。

しかし、あまりにも前衛的すぎたためか、登場人物の心の機微を表現する旋律が複雑なあまり、聴衆だけでなく奏者からも難解だと言われました。
モーツァルトがオペラを斬新に生まれ変わらせたことにより、王侯貴族の宮廷文化が衰退しても、オペラは生き残ることができたのです。

ロッシーニ

「音楽の王政復古」ロッシーニ

フランス革命後、オペラは民衆のものになりました。悪徳権力者からの救出をテーマにした革命オペラが、中流階級のコミック・オペラ座で流行します。パリのオペラ座も革命戦士たちに占領され、「もう王はいらない!」と役者たちは叫びます。

ナポレオンが皇帝になると、オペラは再び古代劇に主題がもどるものの、以前にもましてスペクタル性が増します。少人数で構成されていた舞台は、大勢の役者が「群衆」となり、仰々しく賑やかなオーケストラが流れます。
古典や神話の教養がなくても、見るだけで誰もが楽しめるオペラが主流となり、上品な貴族たちが鑑賞するものではなくなりました。

さらにナポレオンは古典ではなく、メキシコ征服をモチーフにした壮大なオペラを作るよう命じます。スペインを征服したナポレオンの野望を連想させるように。
ナポレオンの失脚後、オペラはさらに大衆化され、ヨーロッパ中で誰もが知っているほどの人気作曲家が登場します。ロッシーニでした。

王政復古の時代、血なまぐさい革命に懲りた民衆たちは、軽やかに楽しめるオペラを求めます。
イタリア人であるロッシーニのオペラは単純明快、モーツァルトのような毒を含んだ喜劇ではありません。頭を空っぽにして鑑賞でき、時の文化人たちはみな彼のオペラに熱狂しました。

その後、フランスのオペラ座で上演された「ウィリアム・テル」は享楽的だったロッシーニのオペライメージを覆します。雄大で壮大な構成とストーリ、古典や神話でない近世を舞台にした熱い独立戦争の歴史物語……。
ロッシーニ嫌いのワーグナーでさえ、褒め称えたほど、ウィリアム・テルは完成度が高い傑作でした。その後、グランド・オペラへと続きます。

ボックス席

グランド・オペラのビジュアル化

グランド・オペラは7月革命時、パリの王立オペラ座で上演された5幕構成の壮大な歴史オペラのことを指します。豪華な舞台装置と、群衆場面が特徴で、2幕か3幕にバレエを入れるのが特徴です。

7月革命はブルジョワ階級が起こした革命で、オペラの観客はブルジョワ成金たちが主流になります。
金融業者や商人たちが財力をひけらかす手段のひとつとして、オペラ座へ通います。貴族が退場した社交界は、ブルジョワたちが貴族の真似をします。オペラ座の公演にはドレスコードが厳格に決められ、欠席は笑いものになります。
何がなんでも欠席を回避するため、成金たちは必死になってチケットを買い求めます。それに目をつけた者たち――ダフ屋が、高額でチケットを売ります。
こうしてグランド・オペラは1830年代のパリの似非上流社会化としました。
見栄を張るため、借金をしてまで馬車や衣装、チケットを用意する者さえいます。金さえあれば何でも実現する世の中を、オペラ座は象徴していました。

ブルジョワたちが主流になったことで、オペラは祝祭に義務として鑑賞するものではなく、余暇に娯楽として楽しむものへと変化します。なぜなら、彼らは貴族と異なり、昼間、労働をして金を稼ぐ必要があったからです。
こうしてブルジョワだけでなく、市民たちが夜、オペラを「趣味として」楽しむために鑑賞するようになりました。

オペラ座

教養がない市民たちのために、オペラは非日常的スペクタルに溢れたエンターテイメントに生まれ変わります。舞台は視覚効果で、観客たちをあっと驚かせるシーンもありました。
セリフを聞かずとも、誰が敵味方で、誰に恋して、なぜ彼は怒り、彼女は悲しんでいるのか、一目瞭然。ぼうっと見ているだけで楽しめたのです。

商業化したオペラは劇場にカジノを併設し、その収入で劇場の運営をします。
ボックス席を買った客には、楽屋の出入りが許可され、バレエダンサーと自由に交渉できました。ちなみに、当時のバレエダンサーは売春婦の意味も含まれます。
サクラを動員して舞台を成功させたように見せかけ、大衆紙のジャーナリストにレビューを書かせた始まりでもありました。ジャーナリストたちは賄賂を要求したため、払わなかった役者や作曲家は紙面でけなされもしましたが。

さらに大衆化したオペラは劇場の上階のボックス席を撤廃し、天井桟敷に改装します。オペラを見たい一般市民に、安いチケットを大量に売りさばくためでした。
そしてオペラを見た大衆たちのなかから、「オペラ通」が現れます。彼ら知的な若者たちは、何度もオペラを鑑賞し、劇場で野次を飛ばしながら批判を議論をします。

そんな大衆化するオペラでしたが、階級差は歴然と残っており、ボックス席を購入できるのは、一部のブルジョワに限られました。革命前の貴族社会が劇場内の世界には残っていたのです。

蝶々夫人

国民オペラとワーグナー

パリでグランド・オペラが隆盛すると、ヨーロッパ中で国民のためのオペラが誕生します。
オペラはイタリア様式とフランス様式が主流だったため、ドイツ等他国では何を歌っているのか理解できないのが欠点でした。そこで自国民のために作られた自国語オペラが上演されるようになります。(国民オペラ)

国民オペラは自国の言語、文化、歴史を織り交ぜるのが特徴で、国民をひとつにまとめ高揚させる役目を担います。とくに東欧等の19世紀当時の後進国で盛んになります。
それらがフランスで異国オペラとして大流行します。当時、帝国の植民地政策が主流だったのが、オペラにも影響しました。(エキゾチック・オペラ)

やがて国民オペラは海を越え、欧米化されたエジプトや南米でも作曲、上演されました。しかし作曲したのはイタリアやフランス人たちです。後進国ではオペラを作るだけの下地がありませんでした。
海外制作したそれらは異国オペラと呼ばれるようになります。特に有名なのが「アイーダ」と「蝶々夫人」です。

1864年。バイエルン王ルートヴィヒ2世が即位し、ワーグナーを呼び寄せたことからオペラはさらに変化していきます。(王とワーグナーの詳細はこちらの記事を参照)

バイエルン王がパトロンになったことで、ワーグナーは王者のように振る舞います。恐いものは何もありません。莫大な国庫の資金を食い尽くしながら作曲をします。
ついに完成した「ニュルンベルクの指輪」は偉大な創作物となり、劇場は崇拝するための空間へと変貌しました。
ワーグナーオペラを称えることは、同時にバイエルン王を称える意味になったのです。

こうして大衆化されたオペラは、崇高な芸術品と生まれ変わり、かつての社交性と娯楽性を失います。階級の象徴だったボックス席はなくなりました。
絶対的芸術となったオペラは娯楽性が排除され、古典的名作を再現する場となり、上演中は静かに鑑賞します。19世紀末から20世紀初頭は、まさしくオペラが伝統になり、同時に退屈になった時代でした。

オペラの衰退

1918年に第一次世界大戦が終わると、一気にオペラの需要が失われます。戦争があらゆるロマンチシズムを吹き飛ばしたためでした。
近代兵器を投入した戦争は、莫大な数の戦死者を生み出しました。そんな時代に、夢や恋だの詩人の魂の憧れなど、どうでもよくなります。それどころか芸術家たちは拒絶をします。

世界大戦は階級社会をも破壊しました。
王侯貴族はさらに権威を消失し、帝国は共和国になり、ブルジョワたちの贅沢な生活様式は時代遅れになります。
庶民たちは成金的な生活に憧れを持たなくなり、代わりに大衆が好んだのはジャズやダンス、ボクシング、カーレース等でした。

そして一番のトドメは、映画の登場でした。
幻影的で非日常的な仰々しいオペラに人々は飽きてしまい、リアルな世界を上映する映画に夢中になったのです。
こうしてオペラはたちまち衰退しました。

参考文献


オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)

その他おすすめ


↑モーツァルトのオペラ音楽と貴族たちの社交界を堪能できます。