ハプスブルク家 皇帝の好物2~皇妃エリザベートはダイエットの先駆者

マリア・テレジア

マリア・テレジア

7.マリア・テレジア(1740-1780) オリオ・スープ

女帝マリア・テレジアの夫であるトスカーナ公フランツ・シュテファン・ロートリンゲンは、ハプスブルク家にフランス料理人を連れてきた。ここからウィーン宮廷の料理がフランスの影響を受け、さらに豊かになる。

新興国プロイセン王国のフリードリヒ2世は、女子が帝国を相続することに反対しており、オーストリア領地であるシュレージエンを一方的に占領した。(オーストリア継承戦争)
二度目の戦争で今度こそシュレージエンを取り戻そうとするものの、ロシア女帝エリザベータが逝去し、ピョートル3世が皇帝に即位したことでまたも負けてしまう。ピョートル3世は熱烈なフリードリヒ大王の信奉者だったからだ。

そしてさらに痛手だったのが、オーストリア継承戦争のさなかバイエルンの選考帝カール・アルブレヒトに神聖ローマ帝国の皇帝位を、策略によって奪われた。皇妃がヨーゼフ1世の娘マリア・アマーリエであるのが理由だった。
幸いなことにカール・アルブレヒトはまもなく逝去。すぐさまマリア・テレジアは夫フランツを、神聖ローマ帝国の皇帝フランツ1世として即位させる。

フランツ1世と一家

フランツ1世と一家


常に政務で多忙だった女帝マリア・テレジアはフランツとのあいだに、16人もの子供をもうけた。
そのパワーの源が、父カール6世も好んだ「オリオ・スープ」だった。
おやつ代わりとして食事の合間に、毎日7~8杯も飲んでいたという。とてもカロリーが高く、中年の女帝はかなりの肥満体だった。

・ハプスブルク宮廷料理人による100人分のオリオ・スープの材料

A:仔牛肉10キロ、バター250グラム、水30リットル、すね肉15キロ、人参、セロリ、パセリ、タマネギ
B:栗500グラム、粉糖500グラム、ウザギ肉、ベーコン、蕪500グラム、ウズラ2羽、野鴨1羽、キャベツ1.5キロ、レンズ豆250グラム、キノコ250グラム、鶏肉2羽、羊もも肉500グラム

Aの材料でスープを作り、Bの材料をそれぞれを裏ごしする。AとBをごった煮にしてアクをとったあと、布でこして味を整える。
澄んだローズ褐色のオリオ・スープのできあがり。

もともとはスペインの田舎料理であり、当初はどろどろしたスープだったが、マリア・テレジアの時代になると洗練され、澄んだスープになった。
滋養のあるオリオ・スープはウィーン宮廷の晩餐会だけでなく、舞踏会でも振る舞われた。それを作る専用の台所があったほど、ハプスブルク家の名物になった。

女帝はほかにイギリス風のローストビーフを好んで食べ、精進日はこっそりと自室で肉を食べていた。魚だけでは体力を維持できなかったからである。

料理だけでなく、給仕もフランス式に変化した。料理は2~3コースに分かれて出され、全部をテーブルに並べる方式である。
好きな料理を好きな量だけ食べられるが、遠くの料理を取ってもらう必要があり、時間がたつと冷めるという欠点があった。
フランスのブルゴーニュ・ワイン、シャンパンが飲まれるようになり、菓子類が増えた。

昼食会や晩餐会になると、34種もの料理が出てきた。プロバンス風、香草風、ベシャメル風、ブルゴーニュ風のフランス料理と、神聖ローマ帝国やイタリア料理である。
神聖ローマ帝国の代表的なメニューは、鯉料理、赤カブと鶏肉の料理、ザワークラフトと雉の料理、「チーズ・ノッケルン」(小麦粉の団子にチーズをバターをあえた料理)、「ミルヒラーム・シュトゥルーデル」などである。

女帝は子供たちひとりひとりに専用の台所を作って、それぞれの成長にあった料理を作らせた。政略結婚で未来のハプスブルク家を背負うのである。食べることを惜しまなかった。

ヨーゼフ2世とレオポルド2世

ヨーゼフ2世とレオポルド2世


やがて夫フランツが亡くなり、長男ヨーゼフと共同統治をするようになると、母子はたびたび衝突をする。政策面――とくに宗教関係で対立した。

ヨーゼフ2世は宮廷のかなりの支出を占める食費について反対し、マリア・テレジアが63歳で崩御すると、子供たち専用の台所をなくした。親子別々でとっていた食事を、家族そろってすませて経費を減らした。
ヨーゼフ2世はワインを飲まず、もっぱら水を飲んで模範を示したほどの徹底ぶりだった。

フランツ2世

フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)

8.フランツ2世(1792-1835年) ほうれん草

ヨーゼフ2世が崩御すると、弟のレオポルド2世が帝位につくもわずか2年で逝去した。
そして長男のフランツ2世が皇帝に即位する。

ハプスブルク家にとってナポレオンの登場は災いそのものだった。962年から続いた神聖ローマ帝国が消滅したからである。
1804年にナポレオンがフランス皇帝に即位すると、フランツ2世はオーストリア帝国皇帝として「フランツ1世」と名乗った。
そしてフランスと和睦の証として、長女マリー・ルイーズをナポレオンと結婚させる。あの憎き男に嫁がせるのは、父親として苦渋の決断だった。

マリー・ルイーズ

マリー・ルイーズ


フランツ1世の時代、ナポレオンとの戦争で膨大に戦費が膨らみ、インフレで物価が高騰。国庫は赤字で財政は火の車だった。
そんな1810年1月のオーストリア皇帝夫妻の晩餐メニュー。

若鶏のからあげ入りスープ
鶏ひき肉のパイ
牛肉の芽キャベツと蕪蒸し煮添え
牛肉ロール巻きベシャメール・ソース
去勢雄鶏の裏ごしムース
子牛の肝臓つきフィレ肉のロースト
鹿の背肉のベーコン巻き
若鶏のソテー
ほうれん草のソースあえ
コンポートと焼き菓子

フランツ1世はほうれん草が大好物で、週に数回はほうれん草を使った料理が出た。

1813年ナポレオン軍が大敗し、翌年、フランス皇帝を退位する。
ナポレオンがかき乱したヨーロッパを再編するために、オーストリア宰相メッテルニヒは「ウィーン会議」を開催。ロシア、プロイセン、バイエルン、デンマークらヨーロッパの君主と代表貴族をウィーン宮廷に集め、連日、舞踏会、音楽会を楽しんだ。
ベルギー貴族リニュー公カール・ヨーゼフ・ラモラスの名言「会議は踊る、されど会議は進まず」が有名である。

ウィーン会議

ウィーン会議


リニュー公の言葉どおり、ウィーン会議は日々、お祭り騒ぎ状態。
会議中は、ハプスブルク家で愛飲されていた「アーモンド・ミルク」「レモネード」「アイスクリーム」「パンチ」といった飲料と果物、舞踏会では「ターフェル・スピッツ」(子牛肉を煮込んだスープで会議で絶賛された)、ミートパイ、ハム、牛鶏鳩鹿雉ウズラ兎七面鳥等のソテー、「子豚のガランティーヌ」(冷菜)といった食事が出された。
菓子は「グーゲルフプフ」(鉢形カステラ)、「ブリオッシュ」「トルテレット」「クロワッサン」等。
もちろんワイン、コーヒー、ココア、紅茶もあり、あらゆる食事と菓子を参加者たちは楽しんだ。

ウィーン会議のお祭りのさなか、ナポレオンがエルバ島から脱出した報せが入ると、各国の代表者たちは慌てて調印式をすませる。
これでハプスブルク家は神聖ローマ帝国当時と変わらない領土を取り戻した。

しかし、ウィーン会議の出費でさらに国庫は苦しくなる。残った食事や材料を宮廷の職員に分配して給金の足しにさせたほどである。
その宮廷の残り物はレストランに売られ、「宮廷台所のつまみ食い猫」と呼ばれた。レストランは宮廷料理を食べたい客たちで大繁盛し、歴史に名を残したほどだった。

フェルディナンド1世

フェルディナンド1世

9.オーストリア皇帝 フェルディナンド1世(1835-48年) ソーヤ・ソース(醤油)

フェルディナンド1世は水頭症によるてんかん発作に苦しみ、国を統治する能力はなかったものの、宰相メッテルニヒが長子相続制を前面に出し、皇帝に即位させた。
フェルディナンド1世を傀儡にした宰相のメッテルニヒは、おのれが政務を操るのが目的だったのである。

陰の皇帝とまで呼ばれたメッテルニヒはハプスブルク家から猛烈に嫌われ、「M」とあだ名された。一族の政略結婚――マリー・ルイーズの結婚を推し進めたのも彼である。

オーストリアの市民は言論の自由を奪われ、「メッテルニヒ体制」のもと秘密警察がいたるところで警察網を張っていた。中産階級が政治に関与することを許さなかったのである。
1848年、パリの二月革命が勃発。オーストリアにも波及し、3月にはウィーン革命が起きたことで、メッテルニヒはロンドンに亡命。フェルディナンド1世は退位した。

宰相メッテルニヒ

宰相メッテルニヒ


統治能力のなかったフェルディナンド1世だったが、日々、豪勢な食事を楽しんでいた。ちなみに、この時代から、温かい料理が一品ずつ給仕されるロシア式に変化する。
好物は「ザルツブルガー・ノッケルン」(ザルツブルグの山々をイメージしたスフレケーキ)「トプフェン・クヌーデル」(ヨーグルト状チーズの団子の塩水煮に苺やスモモを入れたもの)「ミルヒ・ライス」(ミルクで炊いた米)「アウフラウフ」(野菜と肉のグラタン)「リヴァンツェン」(ボヘミアンパンケーキ)、揚げパン等だった。

16世紀に長崎からオランダ商人によってヨーロッパに運ばれた醤油が、オーストリアだけでなくフランスでも好んで使われるようになる。
白身魚の料理のソースとして欠かせなかった醤油はとても高価だったため、他のソースと混ぜて使われた。

19世紀に入るころから、ジャガイモがオーストリアの食卓で見られるようになる。それまで栽培はしていたものの、なかなか浸透せず、ナポレオン戦争の飢饉で不可欠な食材となったのである。
だが食すのはもっぱら庶民で、皇帝の食卓に並ぶことはなかった。

フランツ・ヨーゼフ

フランツ・ヨーゼフ

10.フランツ・ヨーゼフ(1848-1916年) カイザー・シュマーレン

跡継ぎのいないフェルディナンド1世の弟が次期皇帝だったが、その意志がなかったため、長男フランツ・ヨーゼフが即位した。わずか18歳だった。

内憂外患のオーストリアを統治するフランツ・ヨーゼフだったが、皇帝ひとりの肩には重すぎた。
1853年にウィーン城内での暗殺未遂事件――ハンガリー人の暴漢に襲われ、城壁は壊された。環状道路が作られ、周囲にオペラ劇場、大学、美術館と博物館、市庁舎が建ち、近代都市へと発展する。

イタリア、ボヘミアにおける戦いでオーストリアは撤退し、同時にハンガリー独立の民族運動が過激化する。1867年独立を認めざるを得ず、オーストリア帝国はオーストリア=ハンガリー二重帝国へと名称を変更した。
バルカン半島を巡ってロシアと対立するが、プロイセン宰相ビスマルクが仲裁。オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を獲得した。
が、これが火種となり、オーストリアとセルビアが対立する。背後にドイツとロシアが加わり、甥のフェルディナンド大公が暗殺されたことで、第一次世界大戦が勃発した。

フランツ・ヨーゼフは孤独な皇帝だった。親族が次々と非業の死を遂げる。
1867年、帝弟であるメキシコ皇帝マクシミリアンが処刑される。
1889年、皇太子ルドルフが愛人とマイヤーリンクの狩猟館で心中。
1898年、妻の皇妃エリザベートが無政府主義者のイタリア人にナイフで刺され死亡。

皇太子ルドルフの死

皇太子ルドルフの死


オーストリアを統治していた68年ものあいだ、皇帝は常に規則正しい生活を送っていた。スケジュールは時計の針のごとく進められ、食事の時間も同様だった。
皇帝はいつもウィーン料理を食べており、「ウィーンナー・シュニッツェル」(牛肉のカツレツ)「ウィーンナー・ローストチキン」「鶏肉のパプリカ料理」「レバークヌーデル・スープ」(牛レバー団子のスープ)「グリースノッケル・スープ」(グリース・セモリナ粉に卵とバターを混ぜて茹でたスープ)「カイザー・シュマーレン」(干しブドウ入パンケーキ)など、5~6品種ほどだった。
ほかにハプスブルク家でよく食べられたのが、「カイザー・グーラシュ」。タマネギとパプリカを炒め牛フィレ肉をトマトで煮たハンガリー風料理である。

カイザー・シュマーレン

カイザー・シュマーレン
by karola riegler photography(リンク切)


皇妃エリザベートが不在がちだったため、フランツ・ヨーゼフはいつもひとりで食べ、簡単で品数が少なく、4~5品ですませていた。
朝食は5時。コーヒーか紅茶にパン、クッキー、バター、ハム等。一般家庭の食卓と変わらない。
夕方は紅茶を飲み、夕食はスープ以外は火の通っていないメニューだった。ハム、バター、パン、焼き菓子などである。少ないときはミルクとパンのみ、あるいはお粥のみで、デザートは食べなかった。
晩餐会ですら、わずか8種ほどのメニューで簡単なものばかりだった。

息子ルドルフを失った以降のエリザベートは、ほとんど晩餐会に出席しなくなった。そもそも晩餐会そのものが、あまり開催されなくなった。
そんな孤独な皇帝に愛人を勧めたのは、皇妃エリザベートだと言われる。
シェーンブルン宮殿の近くに愛人カタリーナ・シュラットを住まわせ、皇帝はたびたび訪問してともに朝食をとった。
フランツ・ヨーゼフは「キプフェル」(クロワッサン)と「カイザー・グーゲルフプフ」(伝統的な鉢形のケーキ)が好物だったという。

フランツ・ヨーゼフ

フランツ・ヨーゼフ


1916年フランツ・ヨーゼフは崩御する。
第一次世界大戦は終わっておらず、ハプスブルク家は非常に厳しい情勢に置かれていた。
そんななか皇帝に即位したのが、サラエボで暗殺されたフェルディナンド大公の甥、カール1世だった。
皇妃ツィタは夫のカールより聡明なことで知られ、窮地に陥ったオーストリアを立て直そうと、密かにフランス、アメリカと交渉をする。だが、時代はハプスブルク家に味方しなかった。

第一次世界大戦後、オーストリア帝国は消滅し、共和国へと生まれ変わる。
失意のなか1922年、流刑地マディラ島でカール1世は逝去する。イギリスが「退位すれば生活を保証する」と通達するも、「ハプスブルク家の帝冠は決して換金できるものではない」と、カール1世は抵抗し続けた。
赤貧に陥ったカール1世とその一家の生活は、肉すら食べることができなかったという。

皇妃エリザベート

皇妃エリザベート

11.皇妃エリザベート(1837-98年) スミレのアイスクリーム

シシーの愛称で親しまれていた皇妃エリザベートは、その生涯のほとんどを旅に費やした。
フランツ・ヨーゼフの母である大公妃ゾフィーは、当初物静かな姉を息子の花嫁にと決めていたのだが、フランツ・ヨーゼフは妹のエリザベートに一目惚れしたのである。それだけ皇妃エリザベートは美しい女性だった。

しかしまだ16歳だったエリザベートは過干渉の姑と堅苦しいウィーン宮廷の生活に耐えられず、だからといって夫は政務に多忙で味方になってくれない。エリザベートは旅に慰めを求めるようになる。
流浪の皇妃は美しく、旅先で人々が称賛した。身長172センチ、体重50キロ以下、ウエスト50センチ以下のスタイルを保つため、エリザベートは生涯、美容とダイエットに励んだ。

・朝食……果物、焼き菓子、クロワッサン、ゼンメルン、ミルク、卵、バター、ハム、生クリームとコーヒー。
・夕食……焼き肉、サラダ、アイスクリーム等。

とくにお気に入りだったのが、有名ケーキ店「デーメル」やレストラン「ルンペルマイヤ」ーの商品で、出来合いを宮廷に運ばせるだけでなく、よくレストランへ皇妃自ら赴いて食事をした。それだけ宮廷での食卓を嫌っていた。

ときにはダイエットのためだといって、ミルク2、3杯かオレンジ6個だけで食事をすませることがあった。せっかく宮廷料理人が食事を作っても、食べないことがしばしばあったという。
そんなエリザベートはさまざまなダイエット法を試みている。
果物だけを絞ったジュース療法、乳清療法、肉ジュース療法等。極端なダイエットを繰り返す皇妃はカルシウム不足になり、現代で言う骨粗鬆症になっていた。医師が中止するよう説得を試みるが、皇妃は決してやめようとしなかった。

あるときの食事で、エリザベートは子牛の生き血を飲んだ。それを見た皇帝は不快感をあらわしたという。
さらにその子牛の肉で、毎晩、パックをした。温かい湯船にオリーブオイルを入れて、肌をしなやかに保った。
運動にも熱心で、乗馬、競歩、美容体操、器械体操をしたあと、必ず体重測定をし、わずかでもオーバーすると食事をダイエット用に変更した。

皇妃エリザベート

皇妃エリザベート


旅先でも同じ食事をとれるよう、ハム、ビスケット、クッキー、チーズを求め、外国や業者からわざわざ届けさせ、皇妃の専属料理人、菓子職人たちは材料調達に頭を悩ませていた。
そのうちエリザベートはレストランを使うようになり、宮廷料理を食べる頻度が減った。

太らないよう野生動物の肉(雉、雄鶏、ノロジカ、野鳥、ウズラ等)と野菜を好み、特に好きな野菜はアスパラガスとアーティチョークだった。

日々、ダイエットをしていたエリザベートは便秘に悩まされ、リウマチ性関節炎、坐骨神経痛も患っていた。卵と牛乳だけのタンパク源だけでは足りず、浮腫の症状があり、かえって健康を損ねていた。

そんなエリザベートだったが、甘いものには目がなかった。
特に「スミレのシャーベット」と「スミレのアイスクリームは、デザートに必ず出していたほどである。スミレの砂糖漬けや化粧水、ラベンダーを好んでいた皇妃は、薄紫色がお気に入りだった。
ダイエットの妨げにならないよう、スミレのアイスクリームには生クリームを使用せず、牛乳と卵、砂糖だけで作った。

ザルツブルガー・ノッケルン

ザルツブルガー・ノッケルン
by su-lin

1898年9月9日、皇妃エリザベートが刺殺される前日の晩餐メニュー。
小タンバル料理・皇帝風(半球型。鶏ひき肉、牛タン燻製、ガチョウのレバー、トリュフを蒸したソースがけ)
ブルゲット湖の鱒料理
牛フィレ肉のニンジングリンピース添え
鶏肉ムース・ペリゴール風
山ウズラのショーフロワ(ゼリーでコーティングした冷菜)
ハンガリー風アイスクリーム
レモン入りビスケット
チョコレートパウンドケーキ
シャンパン

ロスチャイルド男爵夫人のもてなしを、エリザベートはたっぷりと堪能した。まるでダイエットを忘れたかのように。

ハプスブルク家 皇帝の好物1~戦は他国にさせよ、汝は結婚せよ。

参考文献


ハプスブルク家の食卓 饗宴のメニューと伝説のスイーツ (新人物文庫)
↑皇帝たちの好物のほかに、宮廷料理の舞台裏と成り立ち、宮廷菓子のレシピと飲み物、食器と銀器について書かれています。

その他おすすめ

ハプスブルク家 (講談社現代新書)
↑ハプスブルク家の歴史と人々については、上記が参考になります。ハプスブルク家を知りたい場合、まずこちらから読むのをおすすめします。