戦前昭和のモダンな庶民生活

田辺聖子 引用元:婦人公論.jp

昭和3年生まれの作家、田辺聖子さんのエッセイで読む、昭和10年ごろの大阪の都会で暮らした日本人の生活です。
田辺聖子さんの実家は写真館で、祖父と父が経営し、その店舗兼住居には大勢の家族と奉公人(現在でいう従業員)が暮らしていました。ときはモダン文化が花開いた昭和初期。戦火の空襲ですべてが燃えてしまったものの、親戚たちに送った写真が現存していました。
まだ幼い田辺聖子さんとその家族を撮影した写真をもとに、当時の暮らしを語っています。そのなかから、興味深いエピソードをいくつか紹介。


1930年代の大阪NHK 引用:MeijiShowa
出征青年の壮行会

昭和12年に日中戦争が勃発したことで、青年たちに召集令状(赤紙)が届いた。誰もが本心では戦争に行きたくなかったが、国からの命令は絶対だった。出征のお祝い――町内会が壮行会を開いて郷里の連隊に入隊する。壮行会では町内会役員、在郷軍人、国防婦人会の人々とともに氏神様へお参りに行き、武運長久を祈って万歳三唱をした。
当時すでに天気予報がNHKラジオで放送されていたが、当たらないのが普通だった。それどころか外れるほうが多かった。出征する青年たちに「弾にあたらないおまじない」だと教えた冗談を言って笑っていた。ちなみに民法放送局はまだ存在していなかった。
昭和13年ごろまではすぐに戦争が終わると思われていて、のん気に笑って見送ったが、昭和14年をすぎると招集が増えていき、壮行会に派手さが消えた。
テレビのない時代、銃後の人々は映画が上映される前の映画館ニュースで戦争の情報を得た。

1939年の主婦の友 引用:むかしの女性はどうしてた?
花嫁修業と西洋料理

裕福な家の娘は高等女学校を卒業したあと、花嫁修業をするのが一般的だった。当時、女性が働き始めた時代でもあったが、たいていは就職することなく結婚した。大阪中之島の堂ビルに花嫁学校があって、その上階は高級ホテルだった。聖子さんの叔母たちはそこへ通い、手芸と西洋料理を学んだ。バターと生クリームを使った料理は家族に好評だったものの、明治生まれの祖父母の口には合わなかったという。
当時の若い女性に雑誌「主婦の友」が人気。小説が面白くて購読していた。洋服にパーマネント、赤いマニュキュア、絹の靴下、煙草がモダンだった。

ボルサリーノBorsalino
ハイカラな服装

幼い少女はドレス(ワンピース)に白いエプロンがトレンドであり、両肩には蝶のような羽根がついていた。
婦人は羽織と着物。耳を隠した洋髪は耳隠しと呼ばれ、大正末期から流行した。
社会人男性は外出時に帽子を被るのが一般的だった。夏はカンカン帽と扇子。高校生は丸帽、大学生は角帽。聖子さんの父は舶来品好きなおしゃれさんだったから、ボルサリーノを好んで被っていたという。

1930年代の道頓堀 引用:MeijiShowa
浪花の繁華街

市電、バス、タクシーが運行。職業野球と漫才が始まった。宝塚少女歌劇が人気なことから、対抗して松竹少女歌劇団が誕生した。少女たちは松竹スターの水の江瀧子(愛称ターキー。人形が売られていたほど)に夢中になる。
「モン・パリ」の主題歌は子供から大人まで誰もが口ずさみ、若者たちは映画「会議は踊る」の主題歌を歌った。
道頓堀の松竹座は当時ハイカラモダンな映画館で知られ、「道頓堀の凱旋門」と呼ばれた。フランス映画や「モロッコ」「キングコング」「透明人間」、ハロルド・ロイド喜劇などのアメリカ映画が上映され、スクリーンから流れる洋楽が若者たちを魅了した。昭和8年ころ、無声映画に欠かせなかった弁士、楽士の姿はなかった。
大人の男たちは繁華街でカフェー(キャバレー)を楽しんだ。和服と白いエプロン姿の女給が酒の給仕をし、ダンスの相手をする。ビールと軽食が出され、蓄音機のレコードからは「東京音頭」が流れていた。
夜、青年たちはダンスホールで踊ったり、ハーモニカ、マンドリン、レコードの歌謡曲を楽しんだ。


はいからさんが通る

肩上げは少女の印

4年制の女学校を卒業していない少女は、着物を肩上げ(かたあげ)した。肩上げとは着物の裾を少しだけつまみ縫いし、裄(背縫いから、そで口まで)を短くしたもの。娘が肩上げを解くとき大人になるのだと、与謝野晶子の短歌でも歌われている。
女学校の制服は袴着用であるが、代用教員とよばれた女性教師たちも袴姿だった。高等女学校や旧制中学を卒業=高学歴。だった当時、結婚するまでのつなぎとして、とくに田舎では代用教員をする独身女性が多かった。もちろん代用だから正式な教員ではない。
袴に編み上げブーツを履くのはお金持ちなハイカラ婦人であり、田舎は赤いびろうどか白革の鼻緒がついた下駄だった。


花物語

少年少女雑誌と吉屋信子

少年たちの遊びはもっぱら外でチャンバラごっこ、兵隊ごっこをした。
家での子どもたちは読書をしており、当時は講談社の絵本と児童書が主流だった。幼年倶楽部、小学1年~6年生、少年倶楽部。女の子は少女倶楽部。漫画「のらくろ二等兵」「冒険ダン吉」が人気で、高学年の男の子は冒険小説、女の子は少女小説を読む。
少女小説界で飛び抜けて売れたのが、作家吉屋信子。田辺聖子さんの作品に多大な影響を与えており、文章が美しく丁寧で飽きさせないプロットだった。冒険活劇小説では、山中峯太郎、高垣眸が有名だった。
先鋭的な吉屋信子の断髪に当時の人々は驚いた。やがて断髪スタイルが欧米のように日本で流行する。レズビアンでもあった信子は、日中戦争が始まると従軍記者として勇ましく活躍した。

1930年代の住吉神社 引用:MeijiShowa
四代節と正月

戦前の昭和までには四大節という式日があり、正月の四方拝、2月21日の紀元節(神武天皇即位の日)、4月29日の天長節(昭和天皇誕生日)、11月3日の明治節(明治天皇誕生日)である。
小学生だった田辺聖子さんは元旦に起きると親が新調した服を着、神棚仏壇を拝み、雑煮を食べ、小学校へ登校した。どんなに貧しかろうが、家々には門松と日の丸が掲げられている。学校へ着くと一同起立、御真影(天皇皇后のお写真)を拝礼して、教育勅語をモーニング姿の校長が読んだ。それが終わると、黒い紋付き着物と紺色の袴姿の女性教師のピアノ伴奏で、君が代を歌った。
紅白饅頭をもらった子どもたちは、家にもどると友達を誘って神社へお参りをした。はじめは晴れ着姿で遊ぶが、窮屈さに耐えられず、また家にもどって洋服に着替え、遊んだという。神社ではイカ焼きや一銭洋食(お好み焼き)、おもちゃ、ゴムまりが売られ、晴れ着姿の大勢の人々で賑わった。

1930年代の難波橋 引用:MeijiShowa
上流階級の結婚式

当時は階級社会だったため、結婚式は家の格式、社会的均衡、当人同士の釣り合い、親戚一同のバランスが重要だった。もちろん恋愛結婚はなく、お見合い結婚が常識だった。
ある富裕層はホテルで挙式をし、口に合わない西洋料理が出てくるのもあって、かなりのハイカラだった。それだけホテルはまだまだ珍しいものであったという。貸衣装はまだ一般的でなかったため、新婦の黒紋付の豪華な衣装は自前である。髪型は高島田に角隠しで、関西では綿帽子は被らなかった。
戦前の昭和は「女に学問はいらぬ」と言われた時代であり、上流階級の花嫁といえども高学歴(といっても現代の高校レベル)を嫌厭する婿の親が多かった。ホテルで挙式したその富裕層夫妻は、娘の進路でたびたび揉めたとか……。

アサヒグラフ昭和21年9月1日表紙。皇軍の北京入城(朝陽門前)
出征壮行会の演説は塵箱の上

召集令状を受け取った若者たちは、町内(隣組)の人々の歓送を受け、少し高い位置から演説をするのが習わしだった。「お国のために行ってまいります」と勇ましく戦地へ向かう。あくまでも表向きは。その演説をする台は黒いタールが塗られた塵箱を逆さにしたものが多かった。もしくはみかん箱。
実際は戦争には行きたくないから、聖子さんの父の一番下の弟――叔父は演説しているときずっと尻が震えていたという。読み上げる内容は聖子さんの母が書いたもの。まだ20歳だった叔父の不安が伝わるエピソードである。
日中戦争が始まって1、2年ごろは、他国が仲裁に入って賠償金を払って終わるのではないか、と大人たちは思っていたという。太平洋戦争が長引いてくるころになると、ラジオに向かって聖子さんの母は「東条さん、ホンマにアホや!」と叫んでいた。これが庶民の本音だったのだろう。

参考文献


田辺写真館が見た“昭和” (文春文庫)
↑たくさんの昭和初期家族写真が掲載されています。絶版(?)なのが残念……。