ハプスブルク家は政略結婚で繁栄した
1273年にルドルフ1世がドイツ王に選出されたことで、ハプスブルク家は始まりました。ドイツ王は神聖ローマ帝国の統治を兼任し、代々、ハプスブルク家はヨーロッパの覇者として君臨します。
ハプスブルク家は戦争よりも、王族の女性たちを他国へ嫁がせ、縁戚になることで勢力を拡大しました。
15世紀にブルゴーニュ公国、16世紀にスペイン王国を領土にし、世界帝国を築き上げます。それは帝国が滅亡する1918年まで続きました。
血を絶やさず一族を繁栄させるため、代々の皇帝とその家族たちは食事を重視します。拡大した領土や中東、アジア、南米からあらゆる食物と香辛料を調達し、体力と健康を維持してきました。
ハプスブルク家の宮廷の食卓とは、どういったメニューだったのでしょうか。そして皇帝たちの好物は?
1.フリードリヒ3世(在位1452-93年) メロン
ドイツ王かつハプスブルク家初の神聖ローマ帝国皇帝。
ちなみに、神聖ローマ帝国とは、ローマ教皇から冠を授けられることによって皇帝と呼ばれる。現在のドイツ、オランダ、ベルギー、スイス、オーストリア、チェコ、フランスの一部を擁する帝国。
性格は臆病で猜疑心が強く、統治者向きでなかった。37歳のときポルトガル王女と結婚したが、莫大な持参金が目当てだった。
そんなフリードリヒ3世だったが、息子のマクシミリアンをブルゴーニュ公国の姫マリアと結婚させたことが功績。当時のブルゴーニュ公国は豊かな国として知られ、羊毛織物が有名である。
ここからハプスブルク家は栄華の道を歩き始める。政略結婚という方法で。
フリードリヒ3世の好物はメロン。
普段の食事は麦粥、酢漬けキャベツ(ザワークラフト)、果物の蜂蜜煮(コンポート)等、簡素だったが、メロンだけには目がなかった。
歯を失ったフリードリヒ3世。メロンを生水で流し込んだのが命取りとなり、78歳のとき赤痢で崩御した。
2.マクシミリアン1世(1486-1519年) レープ・クーヘン
父フリードリヒ3世とは対照的な快活で精力的な人物だった。舅であるシャルル突進公の戦死により、マクシミリアン1世がブルゴーニュ公国を繼承する。
父同様、マクシミリアン1世は子供の政略結婚を推し進める。息子フィリップと娘マルガレータを、スペイン王女イザベルの王子ファン、王女ファナとそれぞれ結婚させた。
しかしフィリップとファンが夭逝したため、イザベルが生んだ王子である孫のカールを、カルロス1世としてスペイン国王に即位させる。
つぎにカールの弟フィルディナンドをボヘミア・ハンガリー王女アンナと結婚させる。カールの妹マリアを同じくボヘミア・ハンガリー王子ラヨシュとも結婚させた。
こうしてブルゴーニュ公国、スペイン王国、ボヘミア・ハンガリーがハプスブルク家の領地となった。
「戦は他国にさせよ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」の家訓通り、ハプスブルク家は政略結婚で帝国を築き上げたのである。
マクシミリアン1世は妻が若くして亡くなったため、ミラノの公女と婚約するが、同じくイタリアを狙っていたフランスのシャルル8世との戦争で負けてしまう。公女との結婚が間に合わず、イタリアはフランスのものとなった。
享年60歳。
マクシミリアン1世の好物はレープ・クーヘンというドイツの伝統的な菓子。別名「胡椒クッキー」。
蜂蜜、シナモン、丁子、ナツメグ、胡椒がたっぷり入った、シンプルなクッキーである。まだ砂糖が貴重だった中世には欠かせない香料だった。
現在もクリスマスツリーの飾りとして、世界中で食べられている。
3.カール5世(1519-56年) 牛霜降り肉とアスパラガス
母ファナが精神病だったため、叔母マルガレータ(マクシミリアン1世の長女)から教育を受ける。
聡明な君主に成長したカールは、母方の祖父フェルディナンド・フォン・アラゴンが亡くなったことで、16歳でスペイン国王に即位した。
その3年後、1519年、祖父マクシミリアン1世が崩御。神聖ローマ帝国の戴冠をフランスのフランソワ1世と選挙で争う。莫大な賄賂が功を奏して、カール5世の頭上に冠が輝いた。
1521年、カール5世は弟フェルディナンドにオーストリアの統治を委ねる。こうしてハプスブルク家に「スペイン家」と「オーストリア家」が誕生した。
1525年、フランスのフランソワ1世を下すも、ローマ教皇クレメンス1世はフランスがわにつく。その裏切りに怒ったカール5世は、1527年「ローマの略奪」を果たし、ローマを廃墟にした。
その当時、ルターの宗教改革がドイツに火種を撒き散らし、1555年、ドイツ諸侯たちはカール5世に新教の信仰を認めさせる。
その心労がたたり、カール5世は退位した。1558年58歳で逝去するまで、隠棲した。
ちなみに庶子に、スペインの英雄ドン・ファンがいる。
ストレスの多かったカール5世は過食症だった。
大好物は牛霜降り肉、イノシシの焼き肉、キジやウズラのソテー、カエルのもも肉、アンチョビ、アスパラガス、トリュフ、マルメロ(カリン)の甘露煮、ウナギのパイ詰め、ブルゴーニュのソーセージやハム、冬でも冷たいビール。
ヨーロッパのアスパラガスは地中で育てるため白く、今でもドイツ、オーストリアの人々のごちそうである。
4.フェルディナンド1世(1556-64年) 宮廷晩餐会の確立
18歳のとき統治のためスペインを離れる。ボヘミア・ハンガリー王女アンナと結婚。フェルディナンドの妹マリアとボヘミア・ハンガリー王子ラヨシュの結婚も、ウィーン会議で決定されていた。
1526年、妹の夫ラヨシュ2世がトルコとの戦いで死去したことで、フェルディナンド1世はボヘミア・ハンガリー国王に即位した。
しかしハンガリーの大貴族の反抗で統治ができず、1541年、首都ブダがトルコ軍に陥落されてしまう。それは1715年のオイゲン公の勝利まで続いた。
ハンガリーの食生活はトルコに多大な影響を受けることとなり、パプリカはその代表である。
暴飲暴食で健康をそこねた兄カールを反面教師にしたフェルディナンド1世は、食生活を自制し、常に気を配った。
スペインで育ったフェルディナンド1世は、スペインやブルゴーニュの宮廷様式を、ウィーン宮廷の食卓規則に取り入れる。いわゆるハプスブルク家の「公式晩餐会・祝宴」のルールである。
公式晩餐会は食事だけでなく、王家の威厳を大衆へ誇示する役目も含まれていた。
ハプスブルク家の公式晩餐会の流れ
・以下の宮内官職が晩餐会等の食卓儀式を管理した。スタベル・マイスター(宴会を取り仕切る最高責任者)、第2スタベル・マイスター、献酌係、料理長、肉切係、食卓係と官位が続く。
1.食卓の準備が整うと、宮内庁長官がスタベル・マイスターから手渡された杖を右手に、ハンカチを左腕にかけて皇帝夫妻を迎える。宮廷音楽隊のファンファーレとともに晩餐会場へ入る。
2.皇帝夫妻の椅子を中央にして、U字型に並べられたテーブルには大公、皇女、聖職者の席。後部には宮内庁長官、侍従長たちの席が並べられた。さらにその後ろに宮廷係官、女官が待機し、周囲を護衛官が取り囲む。公式晩餐会を見物に着た一般大衆から皇族を守るためである。
3.皇帝が冠を外すと、宮内庁長官が招待した大使や外交団の名前を読み上げる。
4.皇帝夫妻が手洗いを行い、皇太子がハンカチを手渡す。司教の食前の祈り、皇帝が着席。皇妃と皇族が続いて座ると、演奏が始まる。
5.献酌係が皇帝のグラスにワインを注ぎ、皇帝が飲むあいだグラスセットの皿を持って傍らで待機。テーブルに所狭しと料理が並ぶが、見栄えのために作られた模造料理も多かった。
6.食事が終わると食器とテーブルクロスが片付けられ、小姓たちがデザートを給仕した。
7.皇帝夫妻が手を洗い、食後の祈りをすませる。皇帝夫妻が退席すると、参加者たちがそれに続いて晩餐会終了。
5.ルドルフ2世(1576-1612年) イエロー・ソース
フェルディナンド1世の後を継いだのが、息子のマクシミリアン2世だったがわずか12年で統治が終わり、次に即位したのが長男ルドルフ2世だった。
当時のヨーロッパは旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の宗教問題に悩まされていたが、マクシミリアン2世とルドルフ2世は戦争に関わりたくなかったため、これといった対策を打たなかった。
とくにルドルフ2世は芸術やグルメに造詣が深く、プラハを芸術の都として蘇らせ、錬金術やありとあらゆる芸術品を収集する。しかし政治にはまったく興味を示さず、学者や芸術家に囲まれて生涯を過ごした。
チェコをガラス細工で有名にしたのもルドルフ2世である。
そんなルドルフ2世は父マクシミリアン2世同様、大変な食通だった。
16世紀当時、宮廷料理にはたくさんの香辛料が欠かせなかったが、貴重だったそれらは非常に高価であり、王家の家計を圧迫した。
コショウ、サフラン、生姜、丁子、シナモン、ナツメグをたっぷりと使った料理を好んだ。とくに高価だったのがサフランで、「イエロー・ソース」を作るために大量に消費した。
アーモンドミルクで煮込んでサフランで色付けした、「フルーマンティ」というプディングがとくに人気だった。
そのサフラン――当時500グラムが家畜用の馬1頭と等価であり、宮廷は年に40キロも消費したという。
芸術に耽溺して政務をしない兄に嫌気がさした、弟マティアス。1612年に弟から帝位を奪われたルドルフ2世は、その8ヶ月後に死去する。
だがマティアスは凡庸であったために、これといった功績を残すことはなかった。
次に皇帝に即位したのがマクシミリアン2世の甥、フェルディナンド2世である。
宗教戦争がさらに大きく広がり、30年戦争に突入。フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家との政治戦争へと変貌した。そこにイギリス、オランダ、デンマーク、スウェーデンが介入したことで、戦争は泥沼化した。
そんななか、統率力のあったフェルディナンド2世は、傭兵ヴァレンシュタインを使ってスウェーデンに勝利するが、そのわずか3年後に逝去してしまう。
次に即位したのは、息子のフェルディナンド3世だった。
フェルディナンド3世の治世が終わるころ、30年戦争はようやく下火になる。
6.レオポルト1世(1658-1705年) 精進料理
兄が急逝したことで皇帝になったレオポルド1世。本来ならば僧侶として生きるはずだった。
そんな皇帝はカトリックの精進日を忠実に守り、王家だけでなく貴族たちにも遵守するよう徹底した。通常日や晩餐会でも質素倹約を命じ、それらを監視する役人まで派遣した。
一年のうち4分の1を占める精進日は金曜日をも含み、決して肉料理を食べなかった。
そんなレオポルド1世の食卓メニューとは。
・精進日の昼食と夕食……魚のソテー、魚のフライ、魚の塩漬け、トルテ・ケーキ(丸型で焼いたケーキの総称)、マンデル・コッホ(すりつぶしたビスケットとアーモンドを加えて焼いたケーキ)、金曜日の夕食にはそれらに加えてニシンの酢漬け。
・通常日の昼食と夕食……大麦入スープ、3種の野菜料理、4種の肉料理、3種の焼き肉、サラダ。
レオポルド1世がとくに好んだのが、大麦が入った牛肉スープだった。
精進料理を好んだレオポルド1世だったが、3人めの妻と暮らすころになると、じょじょに食卓のメニューが増えていった。食事は豪華になり、皇帝一家だけでなく女官たちでさえ品数が多くなる。
精進日の料理にはさらに、卵、エビ、カタツムリ、米料理、季節の野菜が加わった。
夕食には牛肉と豚肉以外の肉料理が出された。去勢雄鶏のライス添え、鯉やカワマスのソテー、子羊の塩漬け、子牛の腎臓のソテーである。
宮廷でよく食べられた野菜は、カリフラワー、キャベル、ほうれん草、アーティチョーク、アスパラガス。
ほかには、17世紀にナスやズッキーニがオーストリアに入ってきた。
1679年にペストがウィーンを襲い、1683年にトルコ軍がウィーンを包囲した。
レオポルド1世はすぐさま帝都からリンツへ避難し、ウィーンを救ったのがポーランド王率いるキリスト教連合軍だった。
1700年スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世が崩御。継承する男子がいなかったため、遺言どおりフランス王ルイ14世の孫、フェリペ5世がスペイン王として即位することになった。
だが、イギリス、オーストリア、オランダが反対。フランスとスペイン繼承戦争が始まる。
その戦争のさなか、レオポルド1世は崩御した。
次に皇帝に即位したのが、長男ヨーゼフ1世だった。聡明で統治能力が高かったヨーゼフはすぐさま、弟のカールをスペインに派遣。戦争に勝利し、カールがスペイン王になるはずだった。
突如、ヨーゼフ1世が天然痘で急死。カールはウィーンに帰還するなり、カール6世として即位した。
結局、フランス・ブルボン家がスペイン王を継承したものの、その後、カール6世の治世でオーストリアはさらに領土を拡大する。
ナポリ王国、ミラノ公国、ロンバルディア、サルデーニャ公国、ネーデルラント(ベルギー)といった旧スペイン領を獲得したのである。
それはある人物の活躍して成し得なかった。騎士としてルイ14世に仕えることを断られたオイゲン公である。
オイゲン公はレオポルド1世、ヨーゼフ1世、カール6世のもとで軍事司令官として功績を残し、ついにハンガリーをトルコから奪還した。
スペインびいきだったカール6世は、スペイン料理を好んだ。
とくに好んだのが「オリオ・スープ」と呼ばれるスペインの田舎風ごった煮スープ。オリオ・スープはハプスブルク家の料理として、代々受け継がれる。
そして霜降り牛肉に目がなく、赤身の肉は食べなかった。
ほかにはビーバーの生殖器をレモン汁であえたもの、リスやサギの焼き肉にカリフラワーや苺を添えたものを好んだ。
1740年にカール6世は崩御したが、皇帝には男子の跡継ぎがおらず、女子にも帝位を相続できるよう国事尚書を発布していた。
次に帝冠を戴いたのはカール6世の長女、マリア・テレジアだった。
⇒ハプスブルク家 皇帝の好物2~皇妃エリザベートはダイエットの先駆者
参考文献
ハプスブルク家の食卓 饗宴のメニューと伝説のスイーツ (新人物文庫)
↑皇帝たちの好物のほかに、宮廷料理の舞台裏と成り立ち、宮廷菓子のレシピと飲み物、食器と銀器について書かれています。
その他おすすめ
ハプスブルク家 (講談社現代新書)
↑ハプスブルク家の歴史と人々については、上記が参考になります。ハプスブルク家を知りたい場合、まずこちらから読むのをおすすめします。