タロット占いとカードの歴史 2~オカルト化するタロットと黄金の夜明け団

マドモアゼル・ル・ノルマン

女占い師マドモアゼル・ル・ノルマン

マリー・アデライード・ル・ノルマンは、5歳で両親を失って修道院に入れられたのち、仕立て屋の徒弟奉公へ出されるも、1786年に故郷を捨ててパリへ向かいます。その後、身分の高い女性とパン職人から占いの手法を学びました。
1800年ごろまでは貧民層を相手に質素な生活をしていたといいます。

その後、どうやって名声を得たのかは定かではありませんが、1808年にオーストリアの宰相、メッテルニッヒが彼女のもとを訪れた出来事が警察の文書記録に残っています。
「トゥルノン街の有名な占い師ル・ノルマンのところに人の出入りが絶えない。メッテルニッヒ氏が、金曜、午後三時に彼女のもとを訪れた。氏の立場、正確、現在の任務に関することで、氏を驚かせるようなことを言ってたらしい」

マドモアゼル・ル・ノルマンの占い部屋について、ジョルジュ・ミノワの記録によると。
「予言の女王は非常に多忙とあって、客たちは控えの間で長々と待たされる。油絵、版画、彫刻など、古美術品が所狭しと並べられた控えの間は、まさに夢の世界への入り口にふさわしい雰囲気を醸し出している。面会は奥の寝室で行われる。内装は、訪問者を独特の雰囲気に誘わずにおかない、計算ずくの無秩序に支配されている。秘教主義の専門書、カバラの記号と図版、肖像画、タロット、そして、カトリーヌ・ド・メディシスお抱えの占星術師の一人ルカ・ガウリコの所蔵品であったとされる魔法の鏡……。占い師と訪問者は、緑色のクロスを張ったテーブルに一対一で向かい合う。占いの手法は折衷そのものである。カード、コーヒーの澱、溶き卵の白身、熱で溶かした鉛、世相、ヴェネチアングラスあるいは斑岩の壺に垂らす水滴、姓名判断、三角形のなかに投げる三十三本のギリシャ伝来の棒など」

しかも占いが終わったあとは、当時の情勢に関する予言や噂話をあれこれ掲載した『耳元で囁く言葉――ご婦人方のドン・キホーテ』というタイトルの雑誌の定期購読を勧められました。今でいうゴシップ誌のようなものです。

ジョゼフィーヌを占うル・ノルマン

マドモアゼル・ル・ノルマンの占い料金は驚くほど高額であり、小さな占いは7フラン、大きな占いは30フランしました。ちなみに当時の労働者の平均月収は10フランほどです。さらにホロスコープを組み立てる占いは400フランでした。

それだけ高額な鑑定料金でも、お客は絶えませんでした。なぜなら、豪勢な美術品や暮らしぶりが、それだけマドモアゼル・ル・ノルマンの透視能力が優れてているから、という理由になります。

マドモアゼル・ル・ノルマンは14冊の著書を出版しており、そのどれもが誇大に満ちて嘘か本当があいまいな内容でした。本では皇帝になる前のナポレオンの妻、ジョゼフィーヌを占って、将来皇后になる、と予言しています。
そのようなハッタリをしつつ「私は高名な占い師」と宣伝することで、有名になりました。現在で言う自己宣伝――セルフブランディングです。

18世紀末の革命期以降、政治的な不安定が続き、占いは大流行します。そして、同時に警察の取り締まりも行われていました。占いの予言で、大勢の人びとが煽動されることを国が恐れていたからです。
マドモアゼル・ル・ノルマンも何度か逮捕、投獄されました。ただ刑罰は非常に軽く、すぐに釈放されます。そして占いの需要は大きく、彼女は年に2万フランほどの収入がありました。
マドモアゼル・ル・ノルマンは、ジョゼフィーヌとナポレオンの離婚を予知しており、それを阻止するために当局が拘置所へと送ったのだ、と自著で綴ります。あの皇后と交流があるすごい占い師と信じた客たちは、占いをするためにさらに殺到――という商売の巧みさに驚かされます。

皇后ジョゼフィーヌ

実際、マドモアゼル・ル・ノルマン――の占い――透視能力はあったのでしょうか。

占い師マドモアゼル・ルリエーブルの発言より。
「彼らは、想像力の医者の助けを必要としている、まさに病人なのです。たとえば、わたしは、子どもの悩みを抱える母親に対して、子どもたちの愛情をふたたび取り戻すにはどうしなければならないか、説いてやります。夫婦関係に悩む妻には、夫を本来の義務に立ち返らせるには何をしなければならないか、説いてやります。そして、あなた方、若き少女たち、かくも優しく、感受性豊かな心をもって、一人の男性を思い続けている乙女たち、わたしは、あなた方に対して、あなた方が心を捧げた男性が、本当にそのような麗しい捧げ物に値する人物であるかどうか、言って差し上げます。
これまでも、不実な憧れの的にたぶらかされそうになっている無垢の乙女たちを何人救って差し上げたことでしょう。また、思い悩む人々に失った希望を取り戻せることによって、何人の人々を自己破滅の道から救って差し上げたことでしょう。
わたしたちは、医師、あるいは聴罪司祭のような存在なのです。全てを聞き出し、すべてを見抜き、そして黙するのです」

19世紀前半、パリでの占いはカウンセリングのようなものでした。当たる当たらないはともかく、悩める人々の話を聞き、カード占いを使ってアドバイスをしていたのです。
マドモアゼル・ル・ノルマンも悩める客たちの心理に寄り沿いながら、占っていたのでしょう。
現代の職業占い師に通じるものがあります。

108歳で逝去する、とおのれを予言していたマドモアゼル・ル・ノルマンでしたが、1843年71歳でこの世を去ります。
彼女の占いにはオカルティックな要素はなく、出版した本に占いの方法は書かれていませんでした。あくまでも商売に徹しており、当時の独身女性が生計を立てるための職業のひとつが、占い師だったのです。

タロットのオカルト化

エリファス・レヴィの登場

エリファス・レヴィ――本名アルフォンス=ルイ・コンスタンは1810年パリの靴屋に生まれました。司祭職を目指していましたが、教え子であった若い女性に恋したため、その道を諦めます。
その後、教師、船乗り、俳優をしたあと、絵の才能を生かして小説(バルザックやデュマの作品!)の挿絵を描いたことで、社会主義運動の主導者と知り合います。政治的活動をする傍ら、社会主義的な思想書『自由の聖書』を執筆、出版しましたが、教会の堕落と王政の腐敗を糾弾したため、当局に差し押さえられます。

エリファス・レヴィ

出獄後、再び助祭職に戻るも、『自由の聖書』の著者だと発覚したことで、聖職を追放。そして、レヴィは魔術に関する本を書き始めました。
当時、社会主義運動は千年王国ユートピア思想とつながり、一種の神秘主義として活動していました。その思想がレヴィに影響を与え(実際、どのような経緯で魔術書を執筆するようになったのかは不明)、1854年『高等魔術の教理』を出版。その後『高等魔術の教理と祭儀』を出版し、のちのオカルティストたちのバイブルと化します。

『高等魔術の教理と祭儀』によると、「高級魔術」としてのタロットと「低俗魔術」ついてのタロットに言及しています。「高級魔術」とは「人間が超人や神となるため、自己と環境に対する徹底的な理解力と支配力を獲得しよとする試み」。「低俗魔術」とは「金、愛、復讐といった、身近な世俗的利益」「呪文や幸運のお守りの販売」。

つまり、タロット占いは低俗魔術であり、本来タロットは魔術師たちの間で古くから読まれた唯一の書物だった。
タロットはユダヤ神秘主義であるカバラと密接に繋がっており、大アルカナ22枚とヘブライ語のアルファベット22文字に一対一対応させます。
18世紀末にエジプト起源とされたタロットは、開闢紀元1613年2月14日天使ラファエルの統治から始まったと、レヴィは書いています。


高等魔術の教理と祭儀 (教理篇)

その当時のパリでは、メスメリズムが信じられており、タロットが古代の魔術書だという考えに影響したといわれます。メスメリズムとは、宇宙にある動物磁気という流体が浸透しており、そのエネルギーは魂や物質に生命力を与え、その流体を調整することで人間のあらゆる病を治す、と考えられた科学思想です。

メスメリズムとタロットの魔術化――それが、のちにタロットをさらなるオカルト化へと変化しました。

1863年、ポール・クリスチャンなる人物が『チュイルリーの赤い人』を出版します。赤い人とは、ナポレオンに助言をした霊とのことで、薔薇十字のシンボルはヘルメス・トートによって考案され、古代魔術師の知識である、と語りました。『魔術の歴史』では、タロットは薔薇十字のシンボルと番号を対応させて、古代エジプト魔術を起源としました。

……それを執筆、出版した当の本人クリスチャンは、魔術そのものはすべてでっち上げ、だとのちにほのめかしています。かつて師事したレヴィへの反抗心から生まれた、インチキ魔術書だったのでしょうか。

しかし、その魔術書が後世のオカルティストたちに多大な影響を与えることになります。
レヴィ、クリスチャンの魔術書に触発されたパピュスが、1889年に『ボヘミアンのタロット』を出版。タロット=カバラ説をより複雑かつ理論的に導きました。
パピュスは「見えざる霊的導師」が教えるという神智学協会に所属しており、精力的に執筆します。
秘密結社や心霊主義、オカルト思想、秘教主義……等が、当時のオカルティズム運動を盛んにしていました。タロットはその流れに組み込まれていきます。
1888年薔薇十字カバラ団が設立。フランスでのオカルティズム運動は頂点に達します。

クロウリーと黄金の夜明け団

カードゲームとしてタロットが広まらなかったイギリスですが、レヴィの魔術書が翻訳されたことで、オカルトとしてのタロットが知られるようになります。

1888年当時のイギリス薔薇十字協会の会長を加えたメンバーで、黄金の夜明け団という秘密結社が誕生。黄金の夜明け団はヘブライ語、占星術のシンボル、金属、宝石、色……等の膨大な知識を、タロットと対応させました。

その当時、それらの知識を得るためには、黄金の夜明け団に入団して秘伝伝授の儀式を受けなくてはなりません。そこで全て授かるのではなく、位階を上っていく必要がありました。
もちろん秘密厳守ですから、否応にその知識の神秘性と価値が高まります。
そのメンバーのなかに、アレイスター・クロウリーがいました。

若き日のクロウリー

アレイスター・クロウリー(本名エドワード・アレグザンダー・クロウリー)は1875年リーミントン・スパーで生まれました。奇しくもエリファス・レヴィの没年です。
裕福なビール醸造業の息子でしたが、父親の死により11歳のときロンドンへ移り住みます。20歳のときケンブリッジ大学のトリニティに進学し、1896年スウェーデンの旅行で「純粋で神聖な霊的法悦」を体験、翌年に病の床に伏したことで世俗的な名声に興味を失い、高等魔術の研究への道を歩みだします。

アーサー・E・ウェイトに手紙を書いて助言を得るも役に立たず、1898年に大学を中退します。多大な遺産を受け継いだクロウリーは、デカダンスな詩を書いたり登山をしながら、ますます魔術にのめりこみます。
そのときベイカーという化学者と知り合い、錬金術師と呼ばれた氏から紹介されたのが、黄金の夜明け団でした。


現代魔術の源流 [黄金の夜明け団]入門

入会儀式を終え、メンバーとなり、アウターの最上位の階級へ昇進したまではよかったのですが、秘密の首領とコンタクトを取るためのインナーへの昇進はできませんでした。ロンドンのメンバーたちは、クロウリーの背徳的な素行を問題視して拒否したのです。
それに加え、不仲だったパリのメンバーであるメイザーズとの交流も理由の一つでした。
即刻、クロウリーはパリのメイザーズを頼り、そこで昇進の儀式を受けます。それに怒ったロンドンのメンバーは、クロウリーを降格させ、パリとの亀裂は決定的なものになりました。

1900年、メイザーズとクロウリーは黄金の夜明け団を追放されます。偽黄金の夜明け団――詐欺師のために、儀式道具と文書類の奪還したためでした。メイザーズは騙されていたことに、最後まで気が付きませんでした……。
メイザーズに嫌気がさしてきたクロウリーは、ニューヨークへと旅立ちます。

結局、その後、黄金の夜明け団は何度も分裂騒ぎを起こしてしまいます。1888年の結成からわずか12年後のことでした。

アレイスター・クロウリー

1904年、クロウリーは守護天使エイワスからの啓示を受けます。ついに秘密の首領と接触できたと確信し、結社「銀の星団」を設立します。
そして黄金の夜明け団で門外不出であったはずの知識と秘密を、出版という形で世間に流出させます。自分が苦労して考案した儀式の数々を暴露され、狼狽するメイザーズはロンドンのメンバーに助けを求めるも、不仲なメンバーが承諾するはずがありませんでした。

イギリス初のタロット・パック、ウェイト版

クロウリーが黄金の夜明け団の知識と儀式を、世間に明らかにしたことで、魔術の大衆化が始まります。その流れは止まりません。
それに真っ先に反対をしたのが、黄金の夜明け団のメンバー、アーサー・E・ウェイトでした。

ウェイト

アーサー・E・ウェイトは1857年、ニューヨークのブルックリンで生まれます。船長の私生児だったウェイトは父の死によって1歳のとき、母の生まれ故郷であるイギリスへ渡ります。
その後、事務員をしながら詩を書いていましたが、妹の死をきっかけに心霊の世界へ興味を持つようになりました。21歳のとき大英博物館の図書室で働き始める傍ら、数多くの秘教的な書籍に触れることになります。

1891年、黄金の夜明け団に入団、1901年にフリーメーソンに加入。1903年に黄金の夜明け団の分裂騒動の折を見て、自ら「聖黄金の夜明け団」を結成します。
ウェイトは生涯に渡って、薔薇十字団、フリーメーソン、カバラ、錬金術等の数々の著者と翻訳を手がけ、そのなかにはエリファス・レヴィの翻訳と紹介本がありました。

しかしウェイトの名を有名にし、後世に残したのは著作ではなく、タロット・パックでした。

1889年『カード占い、フォーチュン・テリング、そしてオカルトの神託の手引き』なる著作がロンドンで出版されます。仰々しいタイトルに反して、中身はシンプルで雑多な占い本でした。本格的なオカルト専門書を執筆しながら、ウェイトは大衆向けにペンネームで占い本を出しています。

1909年の第4版では『秘密の言葉の書と運命へのより高き道』というタロット占いについてのコンテンツが追加されました。
同年、ウェイトは78枚からなるタロット・パック――ライダー・ウェイト・パックを発売。イギリスで初めて公式に発売され、21世紀の今日まで親しまれるほどのスタンダードになります。
タロットは秘密の教えとみなされていたものの、クロウリーによって大衆化され、だれでも楽しめる占へと姿を変えました。

パメラ・コールマン・スミス

タロット・パックのイラストを描いたのは、パメラ・コールマン・スミス。あれだけ有名になったライダー・ウェイト・パックでしたが、スミスは「わずかな原稿料で描いた」、と私信に残しています。最後は借金を残したまま、亡くなりました。
お金に執着のなかったスミスは、生涯、安い原稿料でたくさんの挿絵やイラストを描いています。

もしロイヤリティ(著作権)があれば、あれだけ売れているのですから、かなりの大金が入ってきたに違いありません。仕事を手がけたスミス自身も、まさかタロット・パックがそこまで売れるとは夢にも思っていなかったのでしょうけど……。

オカルトとしてのタロットは大西洋を越えて、アメリカでもブームになります。
イギリス同様、ゲームとして普及しなかったタロット・カードは、オカルトのベールをまとって、大衆に受け入れられていきます。

タロット占いは21世紀をすぎた現在でも、世界中の人々に愛され、楽しまれています。


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参考文献

タロット大全―歴史から図像まで
↑記事で紹介している以外にも、たくさんの考察と解説があります。占い方法はありませんが、タロットについてのほぼ全てを網羅できるほどの情報量です。(オカルト的な知識がないと、やや難解かもしれません)

タロット占いとカードの歴史 1