不公平だらけの日本軍隊と徴兵

海の荒鷲・九四式艦上爆撃機


「どうして自分が?」「どうしてあいつだけが?」「なぜ、なぜなんだ……」
私たちが日ごろ生活していると、ついつい心のなかで感じてしまう、不平等や不公平感。それは戦前だった昭和――徴兵されて兵士になった者たちにもありました。
軍隊=規律がとれた兵士の集まり、といったイメージがありますが、やはり彼らも同じ人間ですから、さまざまな葛藤や妬みがありました。
一国民が兵士になって戦争に行くまで、そして戦死したあとの不公平とはどのような心境だったのでしょうか?

かがやく軍旗 小島操畫
少年倶楽部新年号附録 皇軍慰問絵はがき

1.徴兵検査と兵役

明治8年に始まった徴兵制度は「総力戦」が主流になる第一次世界大戦後、日本国民の男子のほぼ全員へと対象が広がった。大正時代には4人に1人が徴兵検査後に兵士になったが、日中戦争、太平洋戦争と進むにつれ、17歳から40歳未満の男子の大衆動員がかけられる。義務であるから拒否はできない。

尋常および高等小学校を卒業した男子は、青年学校に入会して軍事教練を受ける。そして満20歳になると徴兵検査を受検した。知能や学力テストはなかったが、電気に扱いに慣れた者は工兵や電信兵になった。
身体検査は色盲と眼球、耳鼻咽喉、口腔関節があり、とくに屈辱だったのが陰部と肛門の検査だった。それを軍医3名が1日150~170人ほど検査した。

身体検査後、受検者を甲・乙・丙・丁・戊に区別し、甲・乙・丙が合格ライン。丁は不合格、戊は再受検。
くじ引きで甲・乙は現役兵か補充兵を決める。日中戦争が始まるとくじ引きは中止になり、甲乙はほぼ全員現役入営となった。
現役兵と補充兵は8月に徴集され、歩・砲・工・輜重などの兵種に区分される。
陸軍では現役兵は現役2年→予備役15年4ヶ月→第一国民兵役を満40歳まで、丙種は第2国民兵役に服役することとなっていた。

召集令状――いわゆる赤紙(実際は濃ピンク色の紙だった)は、予備役の兵士に送られた。
選抜は陸軍が連隊区司令部、海軍が鎮守府の海軍人事部がしたが、袖の下を通して免れる者がいたという証言が残っている。(要するに金銭の賄賂)

泊地

2.兵役を免れる方法

前述のとおり、兵役は国民男子の義務だったゆえ、受検合格すると逃れられない。だが好き好んで戦争に行きたい者などいるはずなく。「義務から逃げようと」画策した者がいても不思議ではない。
そこで徴兵を延期できる制度を利用する方法があった。
以下、その理由内容。上から多い順。

・在学のため
 中等学校以上の在学者は最長26歳まで延長ができた。戦争が始まったのを知ると慌てて進学する上中流階級の存在に、貧しい庶民らは不公平を感じていた。しかし戦争が激化した昭和18年になると廃止され、学徒動員で学生も徴兵された。

・外国に滞在のため
 おもにアメリカ、ブラジル等の海外移民。移民政策の推進により、陸軍は徴兵延期(忌避)には寛大だった。日中戦争が始まると、外国滞在者の統計が明らかに増加している。

・所在不明のため
 一言ですませれば「失踪」。我が身をひたすら隠し続け、どこまでの逃げ続け、失踪宣言が有効になる行方不明から7年を待つ。あるいは40歳になれば、逃走者の勝利。しかし日中戦争が始まると、失踪者の数は減少し、身元が発覚して捕まる者が増えた。戦争になると世間は兵役から逃れようとする失踪者に厳しくなり、怪しまれた者はすぐに通報された。日本中が監視状態であり、兵役逃れへの強い不公平感があった。

その他、軍隊の給料があまりにも少なく家族が自活できないため(ほとんどが却下された)、服役のため、事故や疾病のためがあった。
ほかに軍需工場の熟練工、輸送通信の職員、国民学校教員の一部、役場等で兵事業務をする者が該当した。いわゆる召集令状を配る兵事だが、それを見た人々が役場の兵事係が召集していると思い込み、ひどく恨まれたという。

禁じ手として、詐病を使って兵役受検の不合格を狙う方法があった。発覚すると最悪、死刑に科せられるため、別の意味で命がけの手段だったが、戦死よりはるかに確立は低い。(1942年の処刑は9人)
以下、徴兵忌避の手段と見破った方法。

・強度の近視を訴える→怪しんだ医師が度数の入ってないメガネをかけさせ、「見えない」と答えた受検者の詐病を見破った。(懲役2ヶ月)

・肛門に毒草を塗って水疱を作る→医師が類似の疾患がないことを見抜いて発覚した。(懲役4ヶ月)

・右人差し指を切断→包丁で滑らせたというが、垂直にすっぱりと切れた傷口を医師が怪しみ、発覚した。(懲役2ヶ月、罰金5円)

・難聴を訴える→怪しんだ医師が再検査をし、50センチで聞こえなかったはずが、翌日は2メートルまで聞こえたことで発覚。(懲役1ヶ月)

・右耳が聞こえないと訴える→左耳に開口漏斗を挿入して対話をしたところ、受検者が「聞こえない」と答えて発覚。漏斗で左耳がふさがったと思い込ませた。(懲役1ヶ月)

その他、さまざまな手段で徴兵忌避を試みた記録が残っている。

・醤油を飲んで心臓病と脚気を詐病。
・絶食で体重を極限まで減らす。
・角膜の刺傷や火傷、または魚鱗を角膜に貼って角膜翳を詐病。
・凹レンズを長時間仕様して仮性近視を詐病。
・卵黄を耳の穴に入れて、化膿性中耳炎を詐病。
・貝殻、豆、豆の皮、蝋を耳の穴に入れて、難聴を詐病。
・下顎にパラフィンを注入して、骨腫瘍を詐病。
・針で陰嚢を刺し、血腫を詐病。

前線の宿舎

3.軍隊の入営と進級

召集後、入営者たちは初年兵と呼ばれ、内務班に入れられた。1個中隊の兵舎を4~8室に区切り、各部屋に二年兵と初年兵十数名が雑居する。班長は下士官。
教育年度は毎年12月1日から11月30日を3期に分けた。教育、戦闘法を学んだあと、歩兵や機関銃等で分業教育が行われた。第3期では模擬戦を行う。

教育期間、成績優秀な若干名は一等兵に進級し、さらにそのなかから上等兵に進級。中隊に下士官が不足したときは、上等兵から補充された。(下士官勤務上等兵)新階級制度が採用された昭和15年まで、上等兵で帰郷することは最高の栄誉だった。

幹部候補生へ志願し、将校・下士官である職業軍人になると、それで生計を立てることができた。だが、中等学校以上の学歴がないと選考試験の資格がなかった。
平時、下っ端仕事をしている学歴のない庶民が指揮官になると、命令を従わない者がおり混乱をさけるためであった。
後々、太平洋戦争が悪化して軍隊の食料が不足したとき、学歴のある将校たちへ優先的に配給された。学歴のない兵士たちは、その不公平を恨んだ。

平時、軍隊での生活は度々行われる演習で、仮想的はソ連軍だった。演習に間に合わずサボる兵士がいたが、叱責程度ですんだ。陸軍は夜間演習と対毒ガス訓練が多かった。
上等兵から兵士へ、下士官から上等兵への暴力は日常茶飯事であり、階級制度は絶対であった。
そんな彼らの楽しみのひとつが買い食いすることで、軍隊の酒保(売店)でうどんや、奮発してカレーライスなどを食べた。外出し、軍隊仲間と集まって酒を飲んで歌い、レコードやラジオを聞いた。

厳しい訓練やときには理不尽な暴力がまかり通る軍隊生活だったが、2年あまりの現役を終えて帰郷すると皆が盛大に祝った。大変な名誉が軍隊生活を懐かしい思い出に変えたのである。

だが日中戦争が始まると、軍の規律は乱れた。平時と異なり、戦時はいつ帰還できるかわからないため、兵士たちは不安になった。
上等兵が一等兵を殴り、一等兵が二等兵を殴る。そして二年兵が初年兵に暴力を振るう。だが面白いことに、一年中ビンタを食らっているうちに慣れてきて、大げさによろめいて倒れた。そうすると殴った相手は満足するのである。
やがて階級制度が機能しなくなり、先に入った古兵があとに入った兵士らを支配した。初年兵のあとに兵士が入らないと、いつまでたってもその兵士らはビンタされ続けた。

横行する私的制裁を減らそうと、将校たちは厳しい訓練で規律を整えようとした。
あるときは、不意打ちで起床時のラッパとともにくしゃみガス(赤筒)を投げる。不真面目な古兵らはくしゃみがとまらず、涙を流しながら兵舎の外に出たという。それを初年兵は心の中で笑って見ていた。

しかしある程度の私的制裁は、必要悪として黙認された。軍隊という組織は、暴力を使わないと秩序が維持できないためだった。

比嶋派遣威第二九五五部隊中岡隊 軍事郵便

4.少年兵の採用試験

昭和の日本軍は大量の少年兵を募った。志願兵となった彼らが将校となり、近代兵器を扱うプロフェッショナルとして育てるためである。
少年兵は通称であり、各学校所属の「陸軍生徒」のことだった。陸軍少年飛行兵学校、陸軍少年戦車兵学校、陸軍少年通信兵学校、陸軍兵器学校、陸軍野戦砲兵学校、陸軍防空学校など。
ほかに陸軍幼年学校があり、卒業後は士官学校への進学をした。

14歳から志願可能で、将来は下士官、将校への道が開かれていた。
学歴の制限はなかったがペーパーテストで選別された。内容は高等小学校(現在でいう中学校)を卒業したレベルだったため、受験勉強必須であり、ある程度の学歴が必要だったといえる。(当時敵性語だった英語が含まれていたのだから、レベルが高い)

志願した少年たちの動機は、貧乏から脱却するためが大半だった。
少年らしく純粋に国家存亡の危機を守るため、飛行兵の制服に憧れて、という者もいたが、昭和初期当時の農村は貧しく、学歴も大してない少年たちが出世できる道だったのである。
その反面、志願書提出後「やっぱり怖くなって」、志願を撤回した少年たちがかなりの数いたそうだ。

そんな少年兵や徴兵された兵士たちは、なぜ戦争に行ったのか。
皇軍兵士として国家存亡危機のため――というのは建前であり、本心は「周囲の目を気にして」だった。郷里の人々や軍隊仲間から「臆病者」と謗られることは、最大のタブーであり屈辱であった。

慰問袋に真心こめて 佐藤_子畫 少年倶楽部新年号附録 皇軍慰問絵はがき

5.戦う兵士たちの不公平

・軍事郵便が来ない、慰問袋
 内地の故郷から前線で戦う兵士たちに送られる軍事郵便は、大きな楽しみだった。月に一度、手渡されるのだが、まったく手紙が来ない兵士がいた。戦地から内地へは手紙を送ったにも関わらず……。見かねた人事係の将校が彼の故郷の婦人部へ、手紙を書くよう要請をしたというエピソードがある。
ある役所からの慰問文には「無言の凱旋を待っている」(要するに戦死してください!?)と書かれたものがあり、慰問文の内容に注文をつけるようになった。ちなみに印刷文より心のこもった(ように見える)手書き文が喜ばれた。(手書き必須な現在の履歴書みたいだなw)
慰問袋には食料が入っていたが、たとえ個人宛だろうとみなで分け合えるだけの数にして、それぞれ小分けにして欲しいと要望した。自分だけ持っていると不公平が生じ、妬まれるためであろう。

・墓石の規格
 戦死した夫や息子のために墓を作ろうとしたとき、大きく立派な石を勧められる。みすぼらしい墓は世間体が悪い、と。貧しい遺族は大きな墓石を作るだけの金がなく惨めだという投書で、社会問題になった。そこである役所は墓石の規格を統一し、不公平感が生じないように配慮した。しかし、それが守られることはなく、墓石格差は続いたという。

玉五九一六部隊宮内隊 軍事郵便(慰問袋)


・食料配分の難しさ
 営舎で生活する兵士たちの食料は平等だった。つまりまったく同じ量。
しかし体格差によるカロリー消費のちがいのため、小柄な者(151センチ、45キロ)は太り、体格の良い者(178センチ、76キロ)はほとんど体重が増えなかった。戦争が始まり、食料がギリギリにも関わらず、残飯が出る始末だった。小柄な者が食べきれなかったのである。その残飯をこっそり食べたり売ったりする兵士がいたという話が残っている。
やがて米はそれぞれ自分でお櫃からよそうようになるものの、初年兵は二年兵や上官に遠慮し、少なくよそおった。そこで二年兵分を2割減らし、それを初年兵に分配したことで残飯がなくなった。だが、体格の差による不公平は解消されなかった。
いわゆる悪平等である体格差の不公平。戦争が激化した戦地で顕著であり、大柄な者から餓死していったという。

・卑怯な将校たち
 食糧不足のなか、将校には多くの食料が配分されたという。餓死することなく任務を完遂さえるためである。
だが悪どい将校がたくさんいたようで、潜水艦から上がった羊羹200竿を全部ひとりで平らげたり、部下が持ってきた盗品の乾パン1袋をひとりで完食した。ひどいのになると、戦死した兵士たちの遺品から金を盗んで、食料や煙草を買った。
地位を利用した破廉恥行為――とくに食料については司令部の問題の種だった。

戦地の兄から 河目悌ニ畫
少年倶楽部新年号附録 皇軍慰問絵はがき

6.軍事扶助と応召手当

貧しい一家の稼ぎ手が徴兵されてしまうと、その家族は生活に困窮した。1937年に政府が「軍事扶助法」を制定し、生活困難な家族や遺族に金銭を給付する。
だが当時の日本人はなかなか給付を受けようとしなかった。公的扶助で生活することは恥であり、世間体が悪かったためである。
軍事扶助を受けられない中流層も生活に困る者が多かった。自作農、街の商人、サラリーマンなどである。そのため、税金免除の対象になった。

いっぽう大手企業のサラリーマンと官庁、役人たちには、会社や国から「応召手当」が出た。とくに決まりがなく、企業によって保障内容はまちまちだった。
大財閥の三菱商事や三井物産などは、保障が厚いことで知られていた。徴兵される期間、月給と同じ金額を家族に保障するのである。帰還後、再び会社で働いて欲しいためだ。

そこにも不平等は存在し、職員(現在の社員にあたる)や役人(現在の国や市の職員)は保障されるのに対し、従業員(現在の非正規雇用)には月給の半分などであった。最悪の場合、解雇された。
戦前の社会には、大卒職員と小卒従業員との大きな待遇差があったといえる。
稼ぎ手を兵隊に取られた小作農や従業員らは、羨んだという。エリートの家族が以前と変わらないまま裕福な生活をしていることを。そして恨んだ、不公平そのものだと。
兵役を終えて帰還するも食えなくなった兵士らが窃盗を働き、治安が悪化した。

しかし戦争が長期化すると、企業や国の大きな負担となった応召手当は減額や廃止される。
そもそも戦争が始まった当初、1年か2年で終わると誰もが思ったことで、応召手当を給付したのである。予想は大きく外れ、日本は戦争に負けてしまった。

参考文献


皇軍兵士の日常生活 (講談社現代新書)
↑上記で紹介した項目の詳細や、戦死についての不公平があります。