英国紳士の衣服とスーツの歴史

中世の衣服~ズボン誕生前

中世はチュニック(貫頭衣)やシュールコー(丈の長い上着。元は鎧の上に着る衣装)が男性用の服だった。女性はスカート丈が長く、男性はチュニックの下にタイツを履いている。男女とも大きな差がない。
布を巻いただけのスカートとは違い、ズボンは複雑な型紙が必要な衣服。そもそも中世はズボンの概念がまだなく、裁縫できる技術もなかった。

中世イングランドの衣服
8世紀~12世紀ごろのイングランドの衣服
14世紀ごろのイングランドの衣服
スーツ誕生前の男性服 15世紀~17世紀半ば

ルネサンス期になると、ダブレット(丈の短い上着。キルティング地)とホウズ(半ズボン。のちのブリーチーズ)が流行した。その上にマントを羽織ると、正装になる。

ヘンリー8世

ヘンリー八世
ハンス・ホルバイン画 『ヘンリー8世』(1537年ごろ)

『金襴の服地には無数のスラッシュ(切れ目)を入れ、そこから下に着用した白いシャツをパフ状につまみ出し、さらに袖のスラッシュは宝石でつないで強調。靴にも凝ったスラッシュが入る』
引用元:スーツの神話30ページ

股間にあるのは、コッドピーズと呼ばれる袋状の小物入れ。お金やキャンディが入っていた。
男性の魅力は形の良いふくらはぎだったため、白いストッキングで美しく見せている。

サー・フィリップ・シドニー

サー・フィリップ・シドニー
1554年11月30日 – 1586年10月17日

『首回りのひだ襟(ラフ)がエリザベス朝男女ファッションの特徴で、巨大化・派手化に歯車がかかった。首から肩を覆う首鎧(ゴージェット)は彼が優れた軍人でもあった証。』
引用元:スーツの神話31ページ

エリザベス女王の廷臣であり詩人。巨大襟と、ズボンを提灯のようにふくらませるのが流行した。

チャールズ1世

チャールズ一世
1600年11月19日 – 1649年1月30日

『襟元の巨大レース飾りは17世紀ヨーロッパの服飾における一大特徴。左右長さの違う髪、上向きにカールした口髭、下方に尖った顎鬚という技巧的な毛回りを繊細なレースが引き立てる。』
引用元:スーツの神話29ページ

古典小説、三銃士の舞台でもある時代。

スーツ黎明期 1666年頃

1666年、放縦だった衣服を改めるため、チャールズ二世が「衣服改革宣言」を出した。
ヴェスト(ウエストコート・黒い司祭服のような上着)と、上に羽織るコート、たっぷりフリルのついた白いシャツ、半ズボン(ブリーチーズ)、タイという組み合わせが定着。
貴族たちに倹約を求めるも、ヴェストの裏は派手な刺繍がたっぷりと施されたシルクであった。ルイ14世は宝石をふんだんにちりばめ、見えない内側でおしゃれをするのが流行した。

チャールズ2世(右)

チャールズ二世
1630年5月29日 – 1685年2月6日

右が改革服を着たチャールズ二世。
そのころから、長い巻き毛の長髪が流行し始めた。

チャールズ2世時代の紳士服
18世紀の男性服 ロココスタイル

シルクブロケード(金襴緞子)かベルベッド生地のコート、ヴェスト、半ズボン、シルクストッキング、パンプス、クラヴァット(タイ)の組み合わせ。白いカツラは、やがて横カールとポニーテルのカツラになった。屋外では三角帽を被る。フランス革命までのおよそ百年間、流行した。

1736年 貴族の父と息子

1736年
18世紀もふくらはぎの脚線美が男性の魅力。ストッキングとヒールでアピール。
コートはたっぷりと刺繍が施され、裾がスカートのように広がるのが特徴。開けたコートから、ボタン留めのヴェストを見せる。もちろん、ヴェストも刺繍たっぷり。

オーストリア大公マクシミリアン・フランツとルイ16世とマリー・アントワネット

オーストリア大公マクシミリアン・フランツとルイ16世とマリー・アントワネット
1776年頃
白いカツラをさらに美しく白く見せるため、紳士たちは小麦粉を振りかけた。それが食糧難の庶民の怒りに火をつけ、フランス革命につながったともいわれる。

マカロニファッションの登場 1770年頃

1760年代からアンチ保守のファッションが登場し、70年代には奇抜な若者が好んで着るようになる。下品だと眉をひそめられるも、やがて、次世代のスーツに受け継がれる。

マカロニファッション

The Macaroni
1773年

『そびえ立つかつら(髪粉たっぷり)、折り返し襟付きのフロック・コート、装飾ボタン、短いヴェスト、かかとの低いダンシングシューズ、剣の持ち手にシルクのリボンは、保守派の神経を逆なでした』
引用元:スーツの神話53ページ

奇抜なファッションが普遍化すると、やがて受け入れられて大衆化するのは、昔も変わらないよう。華美で動きにくい服装へのアンチテーゼである。

新古典主義~摂政時代 ダンディズムの隆盛 18世紀末~1820年代

1750年以降、古代ギリシアの彫刻が発掘されたことで、新古典主義がブームになる。古代ギリシアの英雄たちの肉体美を目指すように、男性服も変化した。
もっとも大きく変わったのは、ぴったりとした白い長ズボン(パンタルーン・トラウザーズ)とブーツである。この時から、スーツは長ズボンが主流になる。
上着はカントリー・フロック(イングランドの田舎領主が着ていた服)がモチーフになる。前裾を切り落とし、後ろが長い。

1795年の紳士服

1795年
フランス革命(1789年)後、がらりと変わったファッション。
カツラと半ズボンとストッキングが無くなり、長ズボンとブーツへ。華美さがなくなり、シンプルになる。

1816年の紳士服

1816年
ぴったりとしたズボンと、前裾が短い上着は、痩身で脚が長い紳士でないと似合わなかった。
美しく着こなすために、男性用コルセットが必要だったほど。
ズボンの素材はウールか小羊の皮。
フロック・コート(上着)の素材は、地味な色のウール。シルクとちがい、丈夫で扱いやすい素材だったため、たちまち普及した。
袖の折り返しがなく、襟が開いている。裾が2つに分かれた燕尾服。乗馬服の名残。

1827年の紳士服

1827年
摂政時代に、黒いスーツが主流になり、夜会服の燕尾服も黒がフォーマルになる。
脚をスリムに見せるため、ズボンの裾についた輪に、靴を通して履いた。

ジョージ4世時代の紳士服(1820~30年)
ジョージ・ブライアン・ブランメル1805年

ジョージ・ブライアン・ブランメル
1778年6月7日 – 1840年3月30日

摂政時代(リージェンシー)のファッションを作った、ダンディ。フロックと、スーツの基本である、黒を取り入れたのも彼である。
のちのジョージ四世と親しかったが、毒舌がすぎて遠ざけられてしまう。若い時は洒落者として一世を風靡するほどだったものの、見栄のために借金がかさみ、晩年は困窮した。

ヴィクトリア朝スタイル ジェントルマンの時代 1837~1901年

ファッション性の高かった摂政時代の反動から一転し、着心地の良いスーツに。洒落者ダンディから堅実なジェントルマン流へ変わった時代でもある。
上着の前裾が長くなり、ズボンの裾幅が広がる。その頃から、紳士に欠かせない小物(手袋、ステッキ、カフスボタン、ネクタイ、カラー)等が充実する。
スーツの色が地味で、画一的なデザインの代わりに、紳士は小物でさりげなくお洒落を演出したのである。
いっぽう紳士服の既成品が始まったことで、中流階級から労働者階級にまでスーツが普及した。大衆がスーツを着るようになり、やがてイギリスから植民地はじめ、世界中へ黒いスーツが広まっていった。ちなみに日本に入ってきたのは、明治維新後の1860年代。

1856年の紳士服

1856 fashion plate

黒色のフロック・コート、白いシャツ、ネクタイ、少し明い色のズボン、ステッキ、トップ・ハット(シルクハット)という、定番の服装はヴィクトリア朝初期に完成した。
その後、ラウンジ・スーツが主流になるまで、大きな変化はなかった。

1870年代の紳士服

フロック・コート
1870年代
フロック・コートは昼間の正装である。

1901年モーニングコート

モーニング・コート
貴族の朝の日課である、乗馬服用に作られたのが始まり。
後ろに向かって伸びる裾が丸くカットされているのが特徴。ズボンはグレーの縦縞模様。
モーニング・コートは午前の正装であった。

1885年燕尾服
1833年燕尾服

1890年燕尾服

燕尾服(テール・コート)
1885年
摂政時代のスーツが黒一色になり、やがて夜会用の礼装になる。非常にぴったりとしたデザインのため、動きづらく実用性は低い。
白い蝶ネクタイと白い胸当(シャツの上に着る)、白いヴェストを着用した。
燕尾服はイヴニング・コートとも呼ばれ、現代でも着られる夜の礼装である。

1888年オーバー・コート
1860年オーバー・コート

オーバー・コート
オーバー・コートは、フロック・コートやモーニング・コート等の上に着る防寒着。

エドワード朝~ 1902年~

ヴィクトリア朝末期から主流になったラウンジ・スーツ。
元はフロック・コートやモーニング・コートの長い裾を切り落とし、ゆったりとしたズボンで気楽に過ごせる普段着だった。
20世紀に入るころには、フロック・コートやモーニング・コートよりも、ラウンジ・スーツを着用する者が増え、現代のスーツの原型になる。
大きな違いは、すべて同じ布で縫製されていること。ディトーズ(三つ揃え)とも呼ばれた。
現代人の感覚では、上着とズボンの布が同じほうが改まった服装に思えるが、フロック・コートやモーニング・コートのように別布のスーツが正装だった。

1912年ラウンジ・スーツ

ラウンジ・スーツ
1912年
帽子はボウラー・ハット(山高帽)。

1920年代ファッション

ラウンジ・スーツ
1920年代
手に持っているのはカンカン帽。

1907年タキシード

タキシード(ディナー・ジャケット)
アメリカにあるタキシード・パーク(邸宅)で着られ、タキシードと呼ばれるようになった。カジュアルな礼装として、燕尾服の尾を切ったのが始まり。
イギリスでは晩餐用の正装――ディナー・ジャケットと呼ばれる。現代では略式の礼装として着られる。

参考文献


スーツの文化史
(旧題:スーツの神話)

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