万引きと処罰の歴史~ルソーは窃盗の常習犯だった

エリザベス朝の庶民
エリザベス朝とロンドンの万引き

窃盗の処罰は古代ハムラビ法典にすでに記されていました。貧しいものから盗むより、富んだものから盗むほうが罰が大きかったとあります。
古代ギリシアのアリストテレスは「窃盗は社会病理である」と説いたものの、その後、社会問題として論じられることはありませんでした。
中世のヨーロッパでは、窃盗の処罰は親指に烙印を押され、殺人犯である額の烙印と区別されます。こうして1800年ごろまで窃盗をした者は処刑しても良い、というのが常識でした。

16世紀後半のイギリス、エリザベス女王時代になると、「ショップリフター」=商品を盗む者(万引き)という言葉が誕生します。
帽子屋、服地屋、本屋、眼鏡屋、チーズ屋、小鳥屋、革屋、毛織物屋、石鹸屋、帆布屋、麻布屋……など、街の店頭には、ガラスのショーウィンドウに購買意欲をそそる商品が並びます。客だけでなく、同時に泥棒も誘い、流浪の窃盗団が現れました。

男性の万引きの手口。
疑われないように外套(マント)は着用せず、紳士らしい格好で店員に「きみ、そこのベルベットだかサテンだかを見せてくれたまえ。宝石のついたそのチェーンと皿も頼む」と声をかけます。
店員が商品をカウンターに並べ、背を向けたすきに泥棒仲間がそれらをさっと盗んで、店の外にいる仲間へ、話しかけるふりをして商品を渡します。「失礼。あなたの友人から大切な伝言を頼まれましてね」と。
窃盗団は捕まると無罪を主張し、「告発者を許さない、復習してやる」と脅しをかけるのが手口でした。

女性の万引きの手口。
当時のロンドンは着るものにこだわり、服地屋は大繁盛していました。1人の店員に60人の客がついたほどです。一括で払えない場合、売掛にして後日、高利で集金しました。
客が多くなると店は店は被害に悩まされるようになります。
女万引き犯は、着飾って布地屋へ行き、大金を使うフリをしてシルク生地やサテン生地を、素早くかすめ取ります。貴婦人の演技をして店員を油断させたのです。
盗んだ商品は、スカートとクリノリンのあいだにぶら下げた巾着(ポケット)に隠しました。
捕まると女泥棒は失神し、もしくは「店に売るつもりだった」と大騒ぎをします。

1699年、英国議会は窃盗を厳罰化する法律を可決します。
1800年まで続いた”万引き法”は、窃盗犯を死刑と定めたために、のちに血の法典と呼ばれるようになります。5シリング以上の盗みを働いた者は、絞首刑に処されました。
それまでは流刑地であるカナダやオーストラリアへ送られていたのですが、受刑者を受け入れなくなったのも理由のひとつでした。

タイバーン刑場と見物人

こうした厳しい処罰を設けるものの、万引き犯が減ることはありません。それどころか、ロンドンの人口が増えるにつれ、さらに窃盗も増加します。
ニューゲート監獄に窃盗犯は送られ、タイバーン刑場で絞首刑に処されます。タイバーン・ツリーと呼ばれた絞首台は、三角形に組んだ枠に3本の脚がついた形状をしており、荷車で運ばれてきた罪人を何人も一度に処刑できました。
処刑は大勢の見物人が押しかけるほど、当時のロンドンの娯楽でもありました。
18世紀当時、処刑された囚人の3分の2は窃盗犯だったといいます。

万引きをする女は娼婦、詐欺師、売春斡旋屋、女優で、高級な服を着て客の気を引くのが目的でした。裏社会で彼女らは男装し、女番長として恐れられていました。
そんな万引きする女をモデルにした小説が当時、流行します。とくに有名なのが「モル・フランダース」でした。夫に死なれた、哀れで貧しいモルの境遇を物語にし、読者の涙をさそったのです。

ジョナサン・ワイルド

18世紀になると、「泥棒捕り」が登場します。ほとんどが男の窃盗団のボスであり、ときにその泥棒を密告して金を稼ぎました。
有名だったのがジョナサン・ワイルドで、彼は盗まれた物を盗み返して持ち主のもとへ届け、手数料で稼ぎました。同時に窃盗品を買い取ります。
最後は絞首刑になるものの、ワイルドの死後、泥棒を密告する「密告屋」が横行し、賞金稼ぎをしました。

大量の絞首刑が出るも、万引き犯はさらに増加します。
万引きは上流階級社会への反逆である、とみなす意見が登場し、絞首刑となったジョナサン・ワイルドは庶民の英雄になります。『乞食オペラ』のモデルとなり、『大盗ジョナサン・ワイルド伝』を小説の父と呼ばれるヘンリー・フィールディングが書きます。
のちにフィールディングは警察のもとになる初の自警団を結成しました。そんなフィールディングは万引き犯を「下層階級の贅沢品嗜好」だとし、「実際に盗品を売りさばく市場がなければ、万引きはなくなるに違いない」と、社会問題として提起しました。

ジャン=ジャック・ルソー
ルソーの「告白」と窃盗犯の英雄視

18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーは、万引きは市民による政治的行動であり、貴族階級や君主制への反逆と論じました。
そんなルソーは少年時代から盗みの常習犯であり、彫金師の徒弟をしていたときにアスパラガスやリンゴを盗みました。見つかり、罰せられるもそれが喜びだった、とルソーは死後出版した『告白』に書いています。
18歳のとき、伯爵夫人の使用人になったルソーは、女主人のピンクと銀のリボンを盗みますが、発覚するとキッチンメイドのマリオンが自分にくれた、と堂々と嘘を付きます。濡れ衣を着せられたマリオンは無実を訴えるものの、結局、ふたりとも解雇されました。
「ああ、ルソーさん! あなたはいい人だと思っていたのに、こんなひどい仕打ちをするなんて! それでもあなたみたいな人間にはなりたくありません」
……さすがのルソーもこの一件には良心が咎めたのか、『告白』を出版するまで誰にも話さなかったようです。

ルソーは初め、興味半分で盗みを働き、思ったほど恐ろしくなかったことを知ると、あとは冷静に物を盗んだといいます。
不完全な社会によって決められた自分の運命を自覚し、盗むことによって新たな自分を作り上げると、ルソーは考えます。もし多くの人の前で恥をかかせるのではなく、誰もいないところで盗みを問われたら、マリオンに罪を着せたりしなかったのに。
物が欲しくなったら盗む習慣が身につくと、盗癖から完全に脱することは不可能でした。そうして欲望と無力感が結びつき、多くの下僕や徒弟が盗みに手を染めるのだ、とルソーは社会問題として提起しました。

フランス革命後、妊婦が万引したら処罰を免ずる、という画期的な判決が下り、小説家のマルキ・ド・サドは、窃盗は自由を勝ち取るための手段になる、と述べます。
革命や政変ではなく、消費社会が人々の物欲を刺激したことで、窃盗が増えたのだと、のちに哲学者のフーコは論じました。

当時、移民が来る前のアメリカでは、窃盗は大きな罪ではありませんでした。
やがてヨーロッパからの入植が始まると、窃盗が罪となり厳しく罰せられるようになります。もともと流刑地だったため、窃盗は日常茶飯事でした。盗品の値段に関わらず、水責め椅子の刑、足かせの刑、晒し台の刑を科せられます。
そのいっぽう、大胆で自由奔放な荒っぽい窃盗犯は称賛され、英雄視されました。アメリカ人は万引きを、革命的行動とみなす傾向がありました。

ジェイン・オースティン
疑惑の窃盗犯はジェイン・オースティンの叔母さん

1799年8月、ジェイン・リー=ペロー夫人は街の帽子屋で黒いレースを一巻き買います。店を出て、夫と落ち合い、再び帽子屋の前を通ったとき、女店主に呼び止められます。言われたとおり、夫人が包みを開けると、黒いレースのほかに、支払いをしていない白いレースが入っていました。
リー=ペロー夫人は店側の手違いで紛れ込んだのだろう、と言うも、女店主グレゴリーは夫人が万引きをしたのだと責め立てます。夫人はぶるぶる震えて真っ赤になりました。
数日後、店側が市長に正式に訴え、治安判事がリー=ペロー夫人を逮捕します。

逮捕される前、夫人宛に「万引きしたことを周囲にバラす」という内容の脅迫状が届き、その後、別の手紙が脅迫状を書いたのは帽子屋のオーナーだと知らせます。
夫人は親族に宛てた手紙に「帽子屋のオーナーが女店主を使って自分を万引き犯に仕立て上げ、口止め料をせしめるのが目的だった。そうして客を陥れ、私服を肥やしていた」と書きました。

逮捕から7ヶ月たった1800年3月、裁判が始まり、イングランド中の注目を集めることになります。なぜなら、夫人はかの著名な小説家ジェイン・オースティンの叔母だったからです。
大勢の人々が詰めかけて傍聴するなか、リー=ペロー夫人は黒いレースの帽子を被り、青い顔をしてやつれた姿でした。
帽子屋の店内の見取り図から、店員が背を向けているあいだ盗むことが可能であるとし、目撃者が「その日、店で夫人が外套に白いレースを隠すのを見た」と証言します。(夫人はのちに外套を着ていなかったと反論)
べつの証人は「店で手袋を4組買い、家に帰って包を開けたら5組入っていた」と証言します。(夫人に有利な証言)
夫人の弁護士は「リー=ペロー夫人のような身分高い女性が万引きをするはずがない」と夫人を代弁します。「女性なら誰もが望むような最高の地位にあり、寛大な夫の愛情に恵まれたこの私が、そのような罪を犯すはずがありません」と。
15名の陪審員は夫人を無罪にします。多くの傍聴人が拍手をしました。

公に無実となったリー=ペロー夫人でしたが、1980年代になって、夫人には以前から窃盗癖があったという資料を研究者たちが発見します。
裁判から30年後、夫人を弁護した弁護士は「盗癖があったと思う」と記し、逮捕から4年後に保育所から植物を盗んだという一般人の証言が見つかります。オースティンの小説を分析した研究者は「夫人は万引きを楽しんでいた」と述べます。

チャールズ・ディケンズ

1810年イギリスのホイッグ党員であるサー・ロミリーは、万引き法廃止を訴えます。万引き犯を絞首刑にしても、犯罪は減らないという統計と実例を発表するも、貴族院で否決されます。
1811年、1813年に万引き法の改正を訴えるものの、またも貴族院で否決され、失意のなか亡くなります。
サー・ロミリーの友人である弁護士がその意志を継ぎ、1832年、ついに万引きを死刑の対象から外すことに成功し、流刑も廃止しました。
そして制服を着た正式な警官が、軽犯罪者を逮捕する任務を命じられ、警察官という近代的な職業が生まれます。
万引き廃止法は当時の作家たちにも影響を与え、ディケンズは万引き犯の処刑を小説で強く批判しました。

ボヌール・デ・ダム百貨店
窃盗は疾病なのか?

1838年、フランスのエスキロールとマルクが窃盗症の研究をし、「本能的で抑えがたい窃盗性向」をクレプトマニアと病名をつけます。理性があっても不合理な行動をしてしまうのは、精神病(メランコリー)が原因とし、万引きなどに現れるとしました。
「たとえ店が教会だったとしても盗んだと思う」という社会的地位のある女性万引き犯の告白が、道徳的狂気があるためであり、その背後には社会的不安があると考え方を示します。

パリに百貨店が登場してきらびやかな商品が並ぶようになると、中流階級の女性万引き犯が増加します。デパートを発明した夫婦~世界初のデパート ボン・マルシェを読むと、当時のデパートがどれだけ画期的かつ誘惑に満ちた有閑夫人のアトラクションだったのかを知ることができます。

当時、窃盗症が女性の病だといわれるようになった理由は、女性の衣服です。膨らんだスカートにクリノリン、ペチコート、ポケット、スカートの上につける短いオーバースカートのなかに、彼女らは万引きした商品――ハンカチ、レース、手袋、菓子、くしなどを隠しました。

エミール・ゾラはパリに登場したばかりの巨大デパートを舞台にした、小説『ボヌール・デ・ダム百貨店―デパートの誕生』を書きます。
そこに登場する貧乏貴族ド・ボーヴ夫人は、夫の浮気の腹いせにデパートで万引きを繰り返します。しかも、驚く娘の目の前で!
警備員に捕まった夫人の万引きは発作であり、欲求を抑えきれず、それが快感となってやめられなくなった、とあります。そんな窃盗症のある彼女らは、幼稚で浅慮な人物として、当時の小説には書かれています。
「精神的に未熟な女性の苛立った犯行」が、フランスでの一般的な見方でした。

ボヌール・デ・ダム百貨店の内部

対し、ヴィクトリア朝のイギリスでは、窃盗症患者に疑念を抱くようになります。
1880年代になると、裁判官たちが窃盗症という病名に翻弄され、批判が集まります。「泥棒をしても窃盗症として咎められず、刑務所が矯正病院のようになっているではないか」、と世間は厳罰を求めます。
当時のイギリスでは、それだけ中産階級の女性たちの万引きが横行しており、社会問題化していました。

それはアメリカも同様で、パンを盗んだ貧しい女性が投獄され、装飾品を万引した裕福な貴婦人が窃盗症とされる現実に、批判が集まります。
人々は窃盗症の治療ではなく、犯罪の防止に力を入れるように変化していきます。多くの百貨店が民間警備会社と契約し、警備員たちが万引き犯に目を光らせました。

やがて20世紀入ると、万引き=女性の抑えがたい欲求という論調が広まります。着飾るだけでなく、万引きは抑圧された女性の性的発散、という説をフロイトが提唱します。
しかし第一次世界大戦後、性的抑圧の説は下火になり、盗む行為そのものを意味づけする定義は廃れました。

1960年代に入ると万引き防止の電子タグが発明されるも、万引きそのものが減ることはありませんでした。
誤認逮捕を恐れた店側は、万引き犯を捕まえることに慎重になり、現代に至るまで画期的な解決方法は生み出されていません。


参考文献

万引きの文化史 (ヒストリカル・スタディーズ03)
↑紹介した歴史のほか、21世紀までのアメリカの万引き対策と問題が書かれています。とくに印象的だったのが、ハリウッド女優ウィノナ・ライダーの事件です。超お金持ちで有名なセレブでも、悪びれず堂々と万引き(本人は認めていないけど)する姿に驚き、更生の難しさを思わせます。