三菱財閥の創業者 岩崎弥太郎~わずか10年で企業を日本一にした一族

岩崎邸の久弥一家

令和時代に入った現代日本の大企業のひとつに三菱グループがあります。
1873年(明治6年)に三菱商会は誕生し、その創業者は岩崎弥太郎という土佐藩の地下浪人(元武家)出身の男でした。
そして2代目は弥太郎の弟、弥之助、3代目は弥太郎の息子、久弥、4代目は弥之助の息子、小弥太と続きますが、太平洋戦争後にGHQにより財閥解体されてしまいます。
幕末から昭和時代、岩崎家はどのようにして三菱を興し、巨大企業に成長させたのでしょうか。

岩崎弥太郎
岩崎弥太郎
初代、岩崎弥太郎

1834年の生まれ。苗字帯刀が認められてはいるものの、暮らしは貧しい農家そのものだった。
父が酒乱で庄屋の島田家と騒動を起こし、江戸にいた22歳の弥太郎が駆けつける。父が庄屋から暴行を受けたと、奉行所へ訴えるも聞き入れてもらえず、御上を非難したことで投獄されてしまう。牢屋生活をするなかで木こり商人と出会う。その男から算術と商売のいろはを学んだ弥太郎は、のちに商人として大成するきっかけを得る。

出獄後、蟄居を命じられた弥太郎は塾を開いて生計を立てるが、そのとき詩人の吉田東洋と出会う。東洋も同じく蟄居を命じられた身であり、謹慎が解けて藩政に参加すると、弥太郎を役人に抜擢する。出世し、郷士(下級武士)の身分を買い戻した弥太郎だったが、東洋が暗殺されてしまう。
尊攘派だった東洋を殺害した犯人を探すよう藩から命じられた弥太郎だったが、その命に背いたことで大阪から土佐へ帰国を命じられる。(犯人を探していたメンバーの一人が殺害されたため、不幸中の幸いともいえる)

3年ほど郷里で農地を開墾し、再び土佐藩から召し上げられて次は長崎にある土佐商会(開成館貨殖局の出張所)に勤務する。
実は土佐商会は破綻しており、ドイツとイギリスの商会から大量の銃器と蒸気船を購入するも、対価としての売り物は樟脳ぐらいしかなかった。それでも藩はさらに調達を命じる。
そこで弥太郎は酒と女で接待をしながら気分を良くさせ、親しくなり、外国人商人と商談をすすめる。しかし土佐商会は大赤字なため、ときには悪どいはったりをかましながら、なんとか支払いを伸ばし、減らした。例えば、月賦で買う契約をしたあと商品を返品すると言って相手を慌てさせ、大幅に値切ったりという手である。

坂本龍馬
坂本龍馬

当時、長崎を活動拠点にしていた坂本龍馬と弥太郎は親しくなる。土佐藩を脱藩した龍馬と、弥太郎の上司である後藤象二郎は敵対していたが、いったん和解する。なぜなら龍馬が組織した海援隊も資金繰りで苦しんでいたからである。藩からの援助を期待したのだ。
土佐商会の経営を軌道に載せた弥太郎は、海援隊の会計を龍馬から一任された。
しかし海援隊のいろは丸が紀伊藩の蒸気船に衝突され、沈没してしまう。
次に、イギリス水兵殺害事件に海援隊が巻き込まれ、怒った公使との交渉をせざるを得なかった。事情を説明するよう奉行所に呼び出される海援隊だったが、それを告げた弥太郎を無視して長崎を出航してしまう。結局、冤罪だったが、弥太郎は海援隊を厄介者だと嫌うようになり、出金を渋ったことで亀裂が走った。

後藤の後任に佐々木三四郎が土佐商会に赴任してきたが、弥太郎とソリが合わず、後藤がいる大阪を訪れる。そこで坂本龍馬暗殺を知る。
藩の財政を任せたい後藤は弥太郎を説き伏せて、岩崎家を新居留守組(上級)に昇格させた。その年、王政復古、翌1868年戊辰戦争勃発。
倒幕戦争の準備のため大量の武器を調達する弥太郎だったが、土佐藩の藩船を江戸へ派遣するよう佐々木に命じられるも、断る。船に仕事の予定が入っていたためである。
佐々木と弥太郎は激しく対立し、弥太郎は土佐商会を去った。そして後藤のいる大阪へ行くも、またも説得されて長崎に戻る。
倒幕派の佐々木は新政府に登用され、土佐商会から手を引いていた。全権を握った弥太郎は自由に腕を振るう。

1869年長崎の土佐商会の拠点が大阪に移ったことで、弥太郎は大阪商会へ配属される。同時に少参事に出世した。
他藩の貿易代行や海運業で大阪商会は大きくなるが、明治政府は藩の商業活動を禁止する。民間会社を育成するためだった。さらに1871年、廃藩置県の断行で土佐藩は消滅。そこで三川商会(元大阪商会)を、1877年に三菱商会と社名を変更したのである。
ちなみに三菱のシンボルマークは岩崎家の家紋「三階菱」と、土佐藩山内家の家紋「三柏」を融合したもの。

半官半民の日本国郵便蒸気船会社を押しのけ、三菱商事は海運業者で成功を収める。弥太郎が土佐商会時代に外国人の人脈を作っていたからだ。それに加え、サービスが充実していた。元士族であった社員たちに武士であることを忘れ、客に頭を下げる商人たれ、と徹底していたのだ。
やがて日本国郵便に代わって台湾航路を運行し、明治8年には三菱商会に日本の海運業を担うよう政府が支援をする。外国の海運業と対抗するためだった。

岩崎邸
岩崎邸

1877年(明治10年)に三菱商会の社則と簿記法が定められ、勤務時間は8時から4時、日曜日を休日、皆勤者にはボーナスが年末支給された。社長のワンマン経営を社則で認めている。それが三菱の伝統になるが、岩崎家は常に国家の利益を考え、のちの三菱財閥を私物化することはなかった。
弥太郎は優秀な社員を獲得するため、積極的に大学卒の高学歴を雇った。エリートの彼らは教養のあまりない社員のような従順さは持ち合わせていないが、自ら考え行動することができた。商談相手と堂々と渡り合えるだけのプライドを持ち合わせていることが、会社の発展に重要だった。
それに加え、海運業へ外国人も積極的に登用したことで、三菱商会は日本だけでなく、世界と戦える企業に成長する。

1878年、アメリカの汽船会社と上海航路を競い合い、政府の援助もあって三菱商会が勝利する。
その後の15年間は、三菱商会が海運業の覇者となり、北海道や沖縄を含めた日本国内はもちろん、香港、釜山、北清、仁川、ウラジオストックと航路を広げ、開拓した。
西南戦争で政府軍のために物資を運輸し、莫大な利益を生み出し、さらに汽船を下賜される。国内の70%の海運を三菱商会が占めたことで、三菱海上王国、と人々は称賛した。

その一方、弥太郎は海運業以外の事業にはなかなか着手しなかった。大胆で行動的な社長と思われそうだが、その実、だれよりも物事を慎重にすすめる人物だったという。のちに莫大な利益を生む高島鉱山ですら、福沢諭吉と大隈重信の説得に応じて、しぶしぶ後藤象二郎から買い取った。鉱山業は博打のようなものだ、と弥太郎は言っていたという。

明治15年、短期間で成長しすぎた三菱商会を潰すため、政府は新たに汽船会社を創設する。明治14年に罷免された大隈重信の資金源が、三菱⇒福沢⇒大隈と流れていたとされたためである。立憲改進党は過激な自由派として、伊藤博文ら政府から警戒されていた。
三井系や関西財閥の大物らが出資し、共同運輸会社として発足した。非常時には海軍商船隊として活動することが定められていたため、実質は日本海軍そのものだった。
海運業を独占した弥太郎は世間に「海坊主」とあだ名され、味方を得られないまま、窮地に追い込まれる。経費削減、就航スピードアップで両社は競い合い、ときには航路で衝突して事故を起こした。政府が和解を呼びかけるが、弥太郎は拒み、勝ち取るための競争と続けた。

こうして人生最大のピンチに抗うも、弥太郎は病に侵されてしまう。胃がんである。
明治18年、弥太郎が志なかばのまま病死すると、遺言どおり弟の弥之助が2代目を引き継いだ。

岩崎弥之助
岩崎弥之助
2代目、岩崎弥之助

1851年生まれの弥之助は弥太郎の16歳下の弟だった。
成績優秀だった弥之助は英語ができない弥太郎に命じられるまま、明治5年にアメリカへ留学する。弥之助はわずか1年7ヶ月で英語をマスターした。
明治7年に結婚し、副社長に就任。弥太郎が寝たきりになった明治17年後半以降、実質社長として、三菱商会の指揮をとる。

亡き兄の意志を継ぎ、一度は戦うと宣言するも、共同運輸との戦いがこのまま続けば三菱が崩壊すると実感した弥之助は、明治18年、海運業から完全撤退することを宣言する。
そして2000人を超える社員を救うため、三菱と共同運輸の事業を合併し、新たに日本郵船を作るよう政府に嘆願する。競い合い共倒れしてしまえば、外国の会社に日本の海運業を乗っ取らえると危惧したからだ。
それだけ弥之助は、豪胆に突き進む兄の弥太郎とは違い、冷静沈着な経営者だった。

三菱商会は崩壊したが、弥之助は奮起して再び、明治19年に三菱社を興した。兄の築き上げた財産をこのまま無駄にしたくなかった。

・銅山(吉岡銅山、付属銅山)
・水道(千川水道会社)
・炭鉱(高島炭鉱)
・造船(長崎造船所)
・銀行(第百十九銀行)

これらの事業を始め、三菱社は復活した。
吉岡銅山に最新の掘削設備と精錬法を導入し、莫大な利益を上げ、さらに他の銅山を次々買収する。弥太郎が買い渋った高島炭鉱も同様だった。
弥太郎が無理やり政府から買い取らされた、不採算だった造船所を、弥之助は長崎造船所として生まれ変わらせる。外国人技師の雇用に加え、大勢の社員を海運王国イギリスへ派遣し、技術を習得させた。わずか数年で日本一の技術を有した造船所に、全国から注文が殺到する。さらに神戸にも造船所を作り、莫大な利益をもたらした。
ほかに倉庫業、銀行経営、保険業、農業経営など、さまざまな事業を展開。弥之助の多角経営は成功し、三菱社は財閥企業として日本に君臨する。

留学時代の弥之助とホール氏
留学時代の弥之助とホール氏

かつて大名屋敷が並び、維新後は練兵場になっていた丸の内を、弥之助は陸軍省から買い取り、日本初のオフィス街を建設した。アメリカへ留学した弥之助は、先進国にはオフィス街があるのを熟知していたためだった。
当時の東京市の予算の3倍もの金額で買い取った土地は、明治27年に煉瓦造りの第1号館が建設され、明治44年までに計16のビルが立つと「1丁ロンドン」と呼ばれた。日本初のエレベーターを3号館に導入した近代的な建物には、日本中から企業が入居して、さらにビルは増え、大正時代に東京駅ができる。日本一のオフィス街には、現在も三菱グループの企業が多数入居している。

数々の手腕を発揮した弥之助だったが、42歳のとき社長の座を甥である久弥に譲る。わずか7年で退任するが、「息子を補佐して欲しい」という、弥太郎の遺言を忠実に守ったためであった。

その後、弥之助は、政府と衝突した兄と同じ轍を踏まないよう、政界にも顔を出すようになる。だれに味方すれば安泰なのか、常に政治動向を探っていた。
そのなかの1番の功績は、日銀総裁時、銀本位制度だった日本を金本位制度に転換したことだった。これにより日露戦争の莫大な軍資金を、アメリカ等の金本位制度国から巨額の外債で募集できた。

1908年(明治41年)に癌で死去。58歳。

岩崎久弥
岩崎久弥
3代目、岩崎久弥

21歳のとき父弥太郎を亡くし、アメリカのペンシルバニア大学で5年間ほど留学した。寡黙な久弥だったが、父譲りの激しさを内に秘めた性格は、ときに友人を驚かせたという。
叔父弥之助の方針で、岩崎家の子息は清貧の生活を送っていた。卒業旅行で訪れたロシアの毛皮店に入るなり、普段の質素な暮らしぶりからは想像できない豪快な買い物に、アメリカ人の学友が驚いた逸話がある。あとで日本の大富豪の御曹司と知ったほど、自分のことを語らなかった。
非常に真面目な堅物で女遊びはいっさいせず、父と正反対だった。その反面、父のように酒はめっぽう強かった。

29歳の若さで社長業を叔父から引き継ぎ、重工業分野を重視、造船と鉱業にさらに力を入れる。金融業、貿易商事、製紙事業を開拓と拡大、とくに久弥が心血を注いだのが、農牧事業だった。
朝鮮や北海道、新潟、千葉等の農場を集約して一つの会社にし、昭和に入るとスマトラで油椰子栽培、マレー半島でゴム栽培、ブラジルでコーヒー栽培、台湾で竹林と茶を栽培する。(しかし太平洋戦争後、海外農場を全て失う)

末廣農場の久弥
末廣農場の久弥(富里市サイトより

日露戦争後に恐慌がおこったことで、久弥は大胆な経費節減とリストラを断行、三菱の組織を抜本的に変革した。各部門に独立採算制を導入し、経営の合理化を進める。本社から銀行部、造船部、鉱業部、庶務部を切り離し、のちに営業部、地所部がさらに独立させた。

久弥が52歳のとき、突然、社長業を引退した。社内はもちろん一族も驚くが、父弥太郎が52歳で亡くなり、自分もいつ死ぬかわからない。だから余生は好きなことをして過ごしたかったという。(が、久弥は91歳まで生きた。)引退後は農業経営に熱心に取り組んだ。

岩崎小弥太
岩崎小弥太
4代目、岩崎小弥太

弥之助の息子、小弥太は理想に燃える社会主義派で、伯父である弥太郎に似た豪胆な巨漢だった。イギリスのケンブリッジ大学で歴史学を専攻し、非常に優秀な成績をおさめた秀才でもあった。
日本に帰国後、副社長になるよう打診されるも、28歳の小弥太は断る。なぜなら、社会主義派の彼は政治家になって日本を変えたかったからだ。しかし父弥之助は承知せず、「お飾りでなく、自由に手腕をふるって経営できるのなら」という小弥太の条件を呑んで、副社長に就かせた。

38歳のとき、従兄久弥が引退したことで、小弥太が社長となる。
伯父弥太郎のようにリーダーシップを発揮しながら、さらに三菱を発展させた。2代目、3代目とは対照的な経営方針は、初代を彷彿とさせたという。
小弥太は各事業を次々と分離独立させ、株式会社にした。分系会社の株を独占し、三菱合資会社(本社)がトップに立つことで巨大コンツェルン――財閥を形成した。例として、造船会社、製鉄会社、製紙、商事、鉱業、電機、信託銀行、石油、航空機、地所――全て三菱○○株式会社。

本社が子会社をを統率して運営したことで、昭和大恐慌を乗り越え、数多の中小企業を吸収し、日中戦争、太平洋戦争で三菱はさらに事業を拡大する。あまりにも巨大になった三菱を軍部が警戒するいっぽう、三菱財閥は戦艦(武蔵)、戦闘機(ゼロ戦)、ロケットエンジンを作り、国家に貢献をした。
「国家のために経営をする」という初代の理念は小弥太の時代にも生き続けた。


太平洋戦争後、GHQから自発的に三菱財閥を解体するよう命じられるも、小弥太は拒み続けた。「自発的」という部分にこだわり、不信行為などしていないのだから、反省をして自発的に解体するいわれはない、国家が命じるべきだ、と。
しかし数日後、小弥太は動脈瘤破裂の病に倒れてしまい、昭和20年10月31日、重役たちが自発的に解体することを了承した。翌日、小弥太は決議で社長を辞任、12月に68歳で亡くなった。その最期の日、小弥太の見舞いに訪れたのは81歳の従兄、久弥だった。

参考文献


岩崎弥太郎と三菱四代

その他おすすめ

猛き黄金の国 岩崎弥太郎 第1巻