中流階級の主婦の暮らし
14世紀のパリに住むある裕福な上流市民階級の夫が、若い妻のために家政の教訓書を書きました。
老齢の夫はいつ死んでも問題ないように、まだ15歳の後妻にこまかい家事のあれこれを伝えます。再婚したとき、次の夫となる人物が困らないようにするためと、自分が立派な夫だったと証明するためでした。
中世では政略結婚はもちろん、身寄りのない少女を助けるため、老齢の紳士と結婚することはよくありました。そして夫に取り残された妻が、再婚するのも珍しくありませんでした。
それだけ、結婚とは女が生きるために必要な手段だったのです。
夫――メナジエ氏は妻のあるべき姿を「子犬のように従順であるよう」と説いています。
主人(夫)に鞭で叩かれ小石を投げられてもしっぽを振ってついていき、遠く離れていても常に主人を思い、食事を与える主人にまとわりつきながらも、他人は獰猛でいるように。女性は犬より賢く強いのだからできるはずだ、と。
ただ、夫婦がうまくいくには、互いを思いやる深い愛情が必要不可欠だとも説いています。
完璧な妻とは、常に夫がどう心地よく過ごせるかを考え、笑顔で世話を焼き、暖かい暖炉に食事、靴下を履かせて足を洗い、清潔な寝間着に羽毛布団を用意すること。そして甲斐甲斐しく世話をやくことで愛情が生まれるのだ、と。
そうすることで他の女を寄せ付けず、浮気をしないのだともあります。
そんな若い主婦の一日の生活とは。
早起きして身支度を整え、侍女といっしょに教会に出かけてお祈りをし、屋敷に帰ったら召使いの仕事ぶりをチェック(広間や部屋の掃除して埃を払い、クッションや掛け布団をはたき、整えているか)しました。
つぎに執事に会って、午餐と晩餐を命じ、愛犬と小鳥の様子を見に行かせます。田舎にいるときはそれに加え、家畜を世話する使用人の監督をしました。
小間使いといっしょに衣服や毛皮、掛け布団を庭に出して虫干し、叩いてノミや蛾を取り除きました。
そして午餐でたっぷりとごちそうを食べ(午前10時)、召使いに食事を与えたあとは、有閑夫人として午後を過ごすのでした。貴婦人同士でおしゃべりとなぞなぞを楽しみ、田舎にいるときは馬に乗って鷹狩りをしました。
メナジエの妻が一番好んだ遊びは、庭に出て草花をつんで花輪編んだり、いちごやさくらんぼを採ったり、百姓からかぼちゃ作りの秘訣をきくことでした。
ほかには召使いたちといっしょに主人の胴着を修繕したり、礼拝堂の牧師の法衣や寝室の壁掛けの刺繍をしてすごします。
夕刻になって主人メナジエが帰宅すると、妻は夫を身綺麗にして疲れを労り、一日の労働を賞賛しました。そして夫婦そろって晩餐を食べ、一日あったことを話し、就寝前に屋敷の戸締まりと召使いがみな寝床についたかを見回り、就寝するのでした。
主婦の仕事の一つとして、雇い人(使用人)の扱い方があります。
執事兼家令に使用人を監督させ、修道女に家政婦と侍女を頼み、畑の監督をする土地管理人を雇いました。
ほかに臨時雇の農夫に、仕立て職人、毛皮職人、パン焼き職人、靴職人等を雇い、買った原料を加工させました。あとは家事使用人です。
召使いはたいてい怠け者で粗暴で不満があると口答えをするから、穏やかな人を雇い、給料はあらかじめ決めた金額を契約するように説いています。
なぜなら、先に契約をしておかないと、「あれもしたこれもした」と使用人たちはあとから対価を求めるためでした。
召使いを雇う方法として14世紀のパリでは、職業周旋人を経営している婦人からの紹介が一般的でした。
職を探している小間使いを雇う際、夫メナジエは幼い妻にこう注意しています。
「若いお前は騙される可能性があるから、彼女らは前にどこで働いていたかを調査し、前の雇い主から仕事ぶりや家族、友人関係、おしゃべりではないか、大酒飲みではないか、どういう理由で以前の職場を辞めたのかを、知る必要がある。
ぜひ雇いたいと思った少女であったならば、家令の台帳に契約の日、姓名と両親、親戚の姓名と住所、出生地、身元紹介先を記録するように。そうすることで、悪いことをしたら親や国元に知られてしまうため、注意するようになる。」
小間使いを妻の部屋に近い控えの間で寝起きさせ、常に近くに置きました。
召使いのだれかが病気になれば、手厚く看護するのも一家の主婦の役目でした。
召使いに用事を頼む場合の注意として、「「時間があればやりましょう」「明日やりましょう」と答えたならば、それらは忘れられると思ったほうがよい。あと漠然と命令をすると、だれかがするだろうと召使いは待ってしまうので、言わないのと同じになってしまう。」
召使いたちの午餐は質素でたっぷりとした肉料理が一品と、一杯の麦酒でした。食事中、彼らが口論をはじめたり、肘をついたり、くだをまいたら、すぐさま家政婦に命じて、食卓を片付けさせるよう、メナジエは妻を指導しています。
中世の寝床はノミで悩まされるのが常で、それを退治するのが主婦の務めの一つでした。
いくつか方法として、部屋に榛の葉を置く、テレピン油を入れた木皿に蝋燭を灯したものを部屋に置く、目の粗い布をベッドの上に広げて跳び上がったノミを捕まえる。
一番確実な方法は、ベッドの上掛け、毛皮、衣服をたたんで頑丈にきつく縛った袋に入れてノミを退治することでした。
あと蚊や蝿を退治する方法として、寝台に蚊帳をかけたり、シダの葉を吊り下げて蝿をとまらせたり、牛乳にうさぎの胆汁を混ぜた椀、生のネギ汁を入れた椀、蜂蜜に浸した糸やボロ布を入れた瓶を吊るす、油布や羊皮紙で窓を閉める等でした。
中世では野菜をジャムで保存しました。カブ、人参、カボチャ等。
香料を合わせてシロップを作り、しょうが、肉桂、ちょうじ、砂糖を使いました。
ほかには、ワインにしょうが、肉桂を入れた滋養飲料、ウェファー、砂糖漬けオレンジを作りました。
その他、色が変わらない青いインキの作り方、小鳥の育て方、砂時計の砂の用意、バラ香水やバラのポプリの作り方、歯痛の治療法、狂犬に噛まれたときの治療法、呪文(魔除け)の方法を、メナジエは妻への教訓書に記しました。
・よく使われた食材と料理……黒プディング、ソーセージ、鹿肉、牛肉、鰻、ニシン、淡水魚、平たい海水魚、香料入りと無しのポタージュ、肉有りと肉無しのポタージュ、焼き肉、パイ、野菜の付け合せ、火を通したソースと通さないソースなどなど。
・好まれた香料……酸味の強いワイン、丁香、肉桂、ガリンゲール、胡椒、生姜、アーモンド等。
・男の料理人が作り、下男を連れていた。調理方法はさまざまで、煮たり焼いたり、照り焼き、揚げ物、ポタージュ、パイ、プディングができた。
・晩餐会での使用人。ドアの前に案内係の従僕、帳簿の計算をする書記、パン切り人、水運び人、食器棚から食器を取り出す2人、スプーンと杯を出して客にワインを注ぐ広間に2人。そして家令執事が2人いて、銀の塩壺、大きな金メッキの盃、4ダースの台付杯、4ダースのスプーン、水差し、慈善用カップ、砂糖菓子の深皿を並べた。お客を招き入れたあと、それぞれの場所に案内し、各テーブルには給仕頭一人と給仕がいた。
・松明と蝋燭、食卓用の小さな蝋燭、壁に取り付けた燭台を十分にに用意した。なぜなら中世の晩餐会は「松明の灯りで踊って歌い、ワインと香料を楽しむ」のものだった。吟遊詩人には金貨とスプーンを贈った。ほかに曲芸や道化芝居が催された。
イギリスの羊毛貿易商人の暮らし
15世紀イギリスの羊毛貿易商人は、ステーブル(国指定の取引場のある都市)商人と呼ばれていました。当時、ステーブルを通さないと羊毛を輸出できなかったため、ステーブル商人は莫大な利益を生み、国王へお金を貸すほど裕福でした。その代わり、高額な関税を支払っていました。
当時のイギリスは外国へ自国の羊毛を売り、それで加工した織物を逆輸入していました。とくに有名だったのがフランドルの織物です。
その1――春にコッツウォルズやヨークシャーにでかけ、羊を飼育する者と買い取る契約をする。そして5月に刈り取った羊毛を買い入れる。
その2――イギリス中からステーブルの都市に羊毛が集められ、売買される。仲買人(ブローカー)から羊毛を買うステーブル商人のほかに、その1で仲買人の役目を兼ねたステーブル商人もいた。
その3――買い付けた羊毛をロンドンで荷造りし、積み出す準備をする。羊毛に毛髪や土が混じることは固く禁じられ、集荷人が荷物に封をして馬で回った。港では関税を徴収する者がおり、荷量と品質を帳簿に記載した。それらの査定が終わると、カレーに運ばれる。
その4――海賊や嵐に遭遇することなく、無事、フランスのカレーに荷物が到着。陸揚げされると国王の官吏が検査し、貼られたレッテルが正しいか調べる。ずるい貿易商人が極上品のなかにこっそり粗悪な羊毛を混ぜるといった不正が横行したという。
その5――関税と上納金を市長とステーブルの組合に支払い、それをステーブルの役員が国王の税として徴収。
その6――ここでようやく、羊毛の売約。すぐに売りたかったが、なかなか売買が成立せず、数ヶ月も留まることがあった。夏に刈り取った羊毛は、4月6日をすぎると古毛とされ、売価が落ちた。フランスとイタリア、オランダの商人たちが、イギリスの羊毛を買いに来た。
その7――羊毛を売ったお金を持って帰国し、債権者であるイギリスの羊毛商人へ支払う。6ヶ月の手形で支払うことになっていたので、外国商人たちの支払いが遅れた場合、債権への支払いに悩んだという。とくに複雑に変動する為替の換金が難しく、貿易商人がもっとも苦労した仕事でもあった。さまざまな国のさまざまな硬貨があったためだった。
そんなステーブル商人のひとりが、トマス・ベンソンでした。
彼には従姉妹でまだ13歳の婚約者がおり、彼女が15歳になってすぐに結婚します。15世紀当時の政略結婚では幼い妻を娶るのは珍しくなく、児童同士の結婚があったほどです。まだ11歳の貴族の少女が次々と夫に死なれ、三度目の結婚をした記録が残っています。
ベンソンは妻を深く愛していたものの、結婚してわずか1年後、彼は病に倒れてしまいます。なんとか回復するのですが、5人の子供を残し、その7年後に亡くなりました。
裕福だったステーブル商人でしたが、イギリスの織物業者が繁栄する16世紀ごろには、外国へ輸出する必要がなくなったことで終焉を迎えます。
そして16世紀に台頭した織物業者も、産業革命で鉄と綿が主要な工業物に変わると、たちまち衰退しました。