西洋中世の人々の生活1 農夫、尼僧(修道女)編

シャルルマーニュ大帝時代の農夫の暮らし

フランス王国が誕生する前のフランク王国時代。

サンジェルマン僧院の所領で働く農夫ポド。彼の一家は僧院の保有地で自由人の小作人として生計を立てていましたが、自由人とは名ばかりの土地に隷属する農民でした。
所領には直営地と保有地に分かれていて、直営地の中央屋敷で僧院の奴隷たちが働きます。耕作地、採草地、ぶどう畑、果樹園、森林を所有しており、奴隷だけでは労働力が足りないため、保有地の農民が借り出されます。

農夫ポドも一年のうち割り当てれた日数分を、僧院の直営地の野良仕事に従事しなくてはなりませんでした。それに加え、手仕事を呼ばれる作業(大工、醸造、伐採、採取、運搬……など)もあります。
土地管理人に命じられれば、断ることはできません。


さらに、領主である僧院へ牛と羊もしくは税金を納める義務がありました。あと葡萄を採取する代わりにぶどう酒を作り、薪を拾う代わりに屋敷の薪も納めなくてはなりません。
地代として鶏、穀物、豚、ぶどう酒、蜂蜜、蝋、石鹸、油を持って行き、戦争があれば、槍、荷車、桶を納めます。
そして義務のない空いた日は、自らの土地で農作業をします。

それら小作人の賦役で集めた物を所領管理人が僧院へ納め、僧院は受け取ったそれらをシャルルマーニュ大帝が治めるフランク王国へ納税したのです。


ちなみに屋敷の女奴隷の仕事は、ひたすら織物をすることでした。監督者が材料を渡し、女だけの広い仕事部屋で大勢の女奴隷が糸紡ぎ、染色、衣服の仕立てに精を出します。
そして屋敷には奴隷だけでなく、専属の職人たちが住んでいました。鍛冶工、金銀細工師、靴工、陶工、大工、刀剣師、石鹸作り、醸造酒作り……。
職人が遠方から運搬する手間を省くため、彼らは屋敷の敷地に住みました。

ある日、農夫ポドは早起きをして僧院の直営地へ牛を連れてでかけます。農具を持った近所の男たちも一緒に賦役の野良仕事をするためでした。
小作人は土地管理人を恐れていました。だから領主の土地を耕し、手仕事をサボることはしません。つらい労働を乗り越えようと、小作人たちはいつも歌いながら作業をします。
その歌は古代から続く土着の精霊をテーマにしたものでしたが、教会が精霊の部分を神やマリア様に変えるように指導しました。そうして信仰を強要することなく、土着信仰と融合させながらキリスト教が広がった時代でした。


夫だけでなく、ポドの妻も多忙でした。
地代である鶏の雛を屋敷に納め、自分の耕作地とぶどう畑で働き、家畜の世話、家事と子育てをし、空いた時間は羊毛の織物をします。
夫が帰宅して夕食をとると、すぐに就寝しました。そして日の出とともに起床します。

そんな単調な生活でしたが、安息日は教会に行き、歌って踊ってウサを晴らしました。本来は静かに過ごす日ですが、陽気な農民たちは僧侶の言うことなどに耳を貸さず、教会の広場でお祭り騒ぎをします。
ときには司祭までも踊りの輪にまじり、異教の歌を楽しみました。


そして農民たちに人気があったのが、吟遊詩人です。
卑属として教会は許しませんでしたが、フランク族の英雄譚を披露する吟遊詩人は、シャルルマーニュ大帝もお気に入り。大帝は吟遊詩人を禁止するどころか、その歌詞を書き写して後世に残します。

しかし、その息子であるルイ1世が厳しく禁止し、広場で歌うことを取り締まりました。吟遊詩人は親切だったシャルルマーニュ大帝を懐かしみ、偉大な英雄として歌い、後世へ語り継ぎます。
こうしてアーサー王伝説と双肩するシャルルマーニュ大帝の伝説が生まれたのでした。


カンタベリ物語時代の尼僧院長の暮らし

15世紀のイギリスの記録には、チョーサーの小説カンタベリー物語の登場人物である、尼僧マダム・エグランティーンのモデルとなった人物が書かれていました。
それは司教が僧院を巡回した折に書かれ、当時の尼僧たちから聞き出したものを帳簿にまとめたものです。不満だらけの尼僧たちの暮らしはまるで現代の女学校そのものでした。

中世当時、少女は12歳で結婚でき、14歳で尼僧になれ、15歳で成人しました。
エグランティーンには3人の姉と1人の兄がおり、経済的な問題や結婚相手を探す問題を早く片付けたい、と考えた父親の手で幼い時分、持参金をつけて尼僧院に入れられました。
そして15歳で誓願して正式な尼僧になりました。陽気で明るいエグランティーンはためらわず尼僧になったのですが、遺産相続をさせないために、継父によって尼僧院に入れられた気の毒な少女もいました。

尼僧院に入った少女は読み書きとフランス語、そして行儀作法を学び、そのあとはひたすら神を賛美する生活です。
毎日、7つの日課祈祷をする決まりがあり、まず寝床から起きて聖堂で午前2時の祈祷、その後3時間眠り午前6時に1時課の祈祷、次に3時課、6時課、9時課、晩課、終課(午後7時~8時)を行いました。
1時課の祈祷後にパンと飲み物の朝食、午餐はたっぷりとり、午後6時の晩課後に軽い夕食。食事と祈祷以外の時間は、手仕事をしました。マリア様を意味する『M』の刺繍や裁縫です。もしくは尼僧院にある本(宗教書ばかり)を読みました。

尼僧院の生活では休憩時間以外のおしゃべりを禁じられており、身振り手振りで意思疎通をしました。尼僧たち独自の合図が106もあり、それらの記録が残っています。

そんな単調な日々を過ごす尼僧たちのほとんどは、その生活を不満に感じていました。庭仕事などの正当な理由なく外出ができず、祈祷をさぼったり、歌わなかったりするのは日常茶飯事。
なぜなら、彼女たちは自ら進んで神の道に入ったのではなく、エグランティーンのように結婚できず、志がないまま僧院に入れられた良家の子女が大半だったためでした。


エグランティーンは尼僧になっておよそ10年後、尼僧院長になります。
彼女が選ばれた理由――生まれが高貴で美人、賛美歌をかわいらしく歌い、食卓での行儀作法が美しいため、人気があったことです。
尼僧院長は「マザー」と呼ばれ、私室を与えられました。

初め、院長になったエグランティーンは喜んだのですが、仕事がたくさんありそれをこなす必要がありました。
尼僧院の規律の監督、金銭管理、領地管理人が地代を納めているか、教会が十分の一税を納めているか、所有する羊毛を買うイタリア商人との交渉など。
それらを尼僧院会議で尼僧たちと相談する決まりになっていたのですが、エグランティーンはそれが面倒だったのでほとんど自分で処理します。気立ては優しいが独裁的な面があったエグランティーンを、尼僧たちが司教に抗議します。


尼僧院の財政が逼迫すると、エグランティーンは領地の林を売り、小作地を安い料金で長期貸し出しするものの、教会の屋根を修理できるだけの収入はありませんでした。
計算が苦手でやりくり下手なエグランティーンでしたが、不正には手を染めませんでした。悪い院長になると、尼僧院の金銀器や宝石類を質に入れたといいます。
結局、帳簿をうまくつけられない尼僧院長のために、司教は隣の教区の司祭に事務管理を手伝わせたのでした。

エグランティーンは仕事が好きでありませんでしたが、訪問者のもてなしや領地の監視で外出するのを楽しみました。尼僧時代にはない特権です。
大きな修道院の尼僧院長には私室のほか、専用の台所がついた小さな家屋が与えられ、料理人とその下働き、小間使、侍女がつきました。
そしていつも一人、院長のお供をする尼僧がついていました。お付き尼僧と呼ばれ、公平を保つよう毎年、入れ替わる決まりになっていました。
外出をする際、必ずエグランティーンはそのお付き尼僧を連れていきます。ひとりで出かけることは決して許されませんでした。


訪問者の貴婦人のなかには夫の出征中やローマに巡礼中のため、尼僧院に寄宿する者がいました。一年中、尼僧院に住む彼女たちは、平和を乱す存在でもありました。
なぜなら派手な衣装を身に着け、犬を飼い、彼女の客をもてなし、尼僧院の外の世界を持ち込んだからです。
尼僧たちが堕落するのでは、と司教は嫌いましたが、尼僧院にたくさんの寄付をされてもいたため、追い出すことはできませんでした。

もちろんエグランティーンも貴婦人の最新ファッションに心動かされ、尼僧たちのあいだで密かに流行ります。金のヘアピン、銀のベルト、宝石の指輪、紐のついた靴、胸を深く開けたブラウス等々……。
そして子犬をたくさん飼い、司教が追い出そうとするものの巡回時に隠すだけで、やがて猿、リス、小鳥、猫を飼う者まで現れました。

あまりにも世俗的になった尼僧院は、ついにヘンリー8世王の時代に解体されてしまいます。

西洋中世の人々の生活2 主婦、貿易商人編

参考文献

中世に生きる人々 (UP選書 34)(絶版)

類似書

図説 中世ヨーロッパの暮らし (ふくろうの本)


中世ヨーロッパの農村の生活 (講談社学術文庫)


贖罪のヨーロッパ 中世修道院の祈りと書物 (中公新書)