雍正帝―中国の独裁君主


雍正帝―中国の独裁君主 (中公文庫)

独裁=悪のイメージを覆すような内容でした。
治世が短いこともあり、雍正帝の父康煕帝と息子乾隆帝ほど歴史的にはメジャーではない皇帝です。独裁皇帝といわれるだけあり、厳しい政治を行なっていました。

けれどそれは、皇帝と官僚たちのなあなあな甘い体制を一新しようとしたからです。中国は昔から賄賂や縁故で出世するのが当然でしたから、官は富み、民は貧しい。その官も科挙という難関試験を突破したから優秀なんだけども、試験官や同期生たちと派閥を作ってしまうので、どうしても縁故でかばい合って横領等の悪事が露呈しにくかったのもあります。それに富豪の息子ぐらいしか勉強できなかったのもあり、金持ちはさらに金持ちになるような政治になってしまいます。
雍正帝は貧窮している民を少しでも豊かにしようと、あれやこれやと辣腕をふるいます。

第一章の満州族の掟によって、皇太子を決めるのが面白かった。長子相続じゃなく、男子のなかでもっとも後継者として優れる者を、父が指名するのが決まり。けれど、決まったら決まったで、兄弟たちが引きずり降ろそうと画策もしてしまうため、血みどろの人間関係に。兄弟同士争うわけですから、多ければ多いほど派閥もできてしまい、複雑になっていきます。
そのなかで傍観していたのが、雍正帝。内気だった皇帝は周囲から、まさか次期皇帝に指名されるとはだれも思わず(多分、本人も)、ノーマークされていたのがかえって幸運だったよう。血を争う兄弟間の確執に巻き込まれることなく、ひっそりと学問を続けていました。
しかし皇帝に即位したとたん、危険な兄弟たちを言いがかりにちかい争いで逮捕するや、犬や豚呼ばわりして牢屋に閉じ込めてしまいます。自分(皇帝)に逆らうものは、たとえ兄弟だろうと臣下なので許さないと。

それからは独裁政治を築きあげていき、奏摺政治によって国を統治しました。奏摺とは、皇帝と地方の総督が直接、手紙をやりとりすること。臣下たちに任せきりにしないため、少しの不正も許されません。そして目覚ましい成果をあげて、民の生活が向上します。
ただ、皇帝がすべての手紙に目を通して返信するため、過労がたたってしまってわずか13年で崩御してしまいます。まさしく過労死。

父が基盤を築いたおかげで、その息子の乾隆帝の治世は、清がもっとも繁栄しました。ただ家臣や官僚たちからの批判を鑑みて、ふたたび賄賂や縁故を大目に見るゆるい政治にもどってしまいました。その後はゆっくりと衰退の道をたどったのです。

ほかにも面白い逸話があって、短いページのなかにぎっしりと歴史の楽しさと過酷さが詰まっていました。