19世紀パリの娼婦2~愛の幻想と高級娼婦

凋落するメゾン・クローズと台頭するブラスリ

7月王政期(1830~48年)に最も栄えたメゾン・クローズですが、第2帝政期に入ると数を減らし、共和制の1881年以降はさらに減少しました。

商売が立ち行かなくなったメゾン・クローズは、メゾン・ド・ランデヴーへと営業形態を変えます。公娼でない素人娼婦に部屋を貸し、通いの娼婦は窓辺で着飾った姿を見せながら、やってくる客を待ちました。
あくまでも「自由恋愛」を装った形だったため、グレーゾーンの経営でした。

セーヌ県知事のオスマン大改造でパリの下町が再開発され、貧民街が一掃。キレイになった街になじまないメゾン・クローズは建設されないまま消滅しました。
再開発のバブル経済で地価が高騰し、同時にメゾン・クローズの警察への認可料がアップしたことで利益が減少します。さらに良質な娼婦を集めるのも難しくなり、ジャーナリズムの発達で売春商売への風当たりが強くなります。


そして最も大きな理由は、「売春」が資本主義化したことでした。
メゾン・クローズでの露骨な商売女の売春は、客である男たちにしてみれば興ざめする要素です。ただ性交をするために訪れ、安っぽい作り物に囲まれた空間はなんだか物足りません。

第二帝政期後、都市化したパリには若い独身男性が大勢やってきます。大学生や労働者といった男たちは「娼婦ではない女」と「癒やし」――疑似恋愛を金で求めるようになります。
そんな彼等の需要を充たすように登場したのが、「ブラスリ(ブラスリ・ア・ファム)」と呼ばれるビアホールでした。

ブラスリ(ドイツ式ビアホール)


ドイツのビアホールとして登場したブラスリは、1867年のパリ万博で人気を博します。民族衣装を着た若い女給たちが、ピッチャーに入ったビールをテーブルのジョッキに注ぐサービスが特徴でした。

それに目をつけた業者が新しい形体のビアホールを出店。ビールを注ぐだけでなく、客たちに愛嬌を振りまき、隣に座ってお代わりを勧めます。
かわいい女給たちに若いウブな男性客は夢中になり、目当ての女の子にお金を使うようになります。とくに夢中になったのが大学生で、女給との疑似恋愛を楽しみました。
まるで現代のメイド喫茶のようなサービスが、19世紀のパリに存在したのです。

やがてブラスリ店同士の競争が激しくなると、話し相手だけでなく、肉体のサービスを売るようになりました。しかし表向きはビアホールですから、店の奥に個室を設けたり、隣のホテルに部屋を用意します。
制服代や客へのマッチ代、ショバ代を差し引いても、メゾン・クローズの娼婦より稼ぎが多く、彼女たちは長くひとつの店で働き続けました。

人妻との疑似ランデヴー

プロの娼婦でなく、素人っぽいウブな女性との疑似恋愛を楽しみたい。商品ではない、まるで恋人同士のような――。
そんな客たちの幻想を叶えた商売のひとつが、「人妻」をモチーフにしたメゾン・ド・ランデヴーでした。

中流階級のブルジョワの人妻がデパートへ買い物へ行く口実に、売春をする人妻。なぜなら夫に満足できないから。場所は郊外の新興住宅地。時間は午後2時から5時。

……というストーリ(笑)を演出するために、メゾン・ド・ランデヴーは住宅地のアパルトマンを店にします。
娼婦は人妻の演技をし、男性客たちはそれを信じました。ブルジョワの人妻を相手にするのですから、金額は低くありません。なかなかいい商売だったようです。

そんなメゾン・ド・ランデヴーを舞台にした有名な小説が『昼顔(新潮文庫)』で、映画にもなりました。
主人公のセヴリーヌはブルジョワの人妻でしたが、医師である夫に満足できず、ある噂を頼りにメゾン・ド・ランデヴーへ足を踏み入れる、といったストーリーです。

ひたすら歩く私娼と隠れ売春

フランスで売春は禁じられていないものの、自分で商売をしようとしたらさまざまな法律にひっかかりました。
そのひとつが「一ヶ所に立ち止まったり、客へ声をかけてはいけない」。
そこで私娼たちは一ヶ所に立ち止まらず、ひたすらパリの盛り場の歩道を歩きました。ただ歩いているのだから、警察が取り締まるわけにはいきません。

パレ・ロワイヤルのアーケード


娼婦たちが集うことで知られたのが、パレ・ロワイヤルです。オルレアン公が所有しており、資金繰りに困った公が、1784年にアーケード式の商店街として開業しました。
たちまち大人気となり、アーケードを拡張するも、資金難で石材が揃わず、急ごしらえで作ったのが木製の回廊、ギャルリ・ド・ボアでした。
その安っぽい雰囲気に娼婦たちが押し寄せ、それ目当ての客が大勢やってきます。売春の殿堂、と呼ばれたほどでした。

私娼たちはギャルリ・ド・ボアにたむろするも、7月革命で王になったルイ・フィリップが娼婦たちを締め出します。
たちまち凋落してしまい、娼婦たちが次にたむろしたのが、有名なカフェやレストラン、オペラ座等の劇場が並ぶグラン・ブールヴァールでした。ガラス屋根付きの抜け道で、大勢の私娼たちが商売をします。

客への声掛けを禁じられている娼婦たちは、徹底的に着飾り、化粧を施します。
その女たちの後をつける、ナンパ男たちは「シュイヴール」と呼ばれました。若い男はもちろん、お金持ちの老人もいました。


歩いて出会いを求める以外に、新聞の3行広告を使う方法がありました。これもまた寂しい人妻や未亡人を装い、郵便局留めの返事を介しての隠れ売春です。
ほかには、結婚仲介業者が見合いのセッティングを装い、娼婦との斡旋をする方法がありました。

ほかに隠れた売春の温床として、手袋店、紳士洋品店、タバコ店がありました。客は「疑似恋愛」をした娼婦へはお金を渡さず、相場よりかなり高額な店の商品を買います。
表向きはただの買い物であり、売買春ではない、という体裁でした。
なぜなら、メゾン・クローズ以外のホテルや宿屋で、娼婦は商売をすることを禁じられていたためです。自由な恋愛を装うのはこのためでした。

その他、私娼がよく出没する場所として――乗合馬車、鉄道駅、郊外鉄道、競馬場、競売場、劇場、辻馬車(偶然の乗り合わせを装う)、墓地(戦死した夫の墓を参る、気の毒な未亡人を装う)がありました。

高級娼婦になる方法

時代によって高級娼婦(ファム・ギャラント)はさまざまな呼ばれ方をしました。
クルティザーヌ⇒ロレット、ココット(七月王政期)⇒デゥミ・モンデーヌ、リヨンヌ(第二帝政期)⇒グラン・ドロゾンタール(第三共和政期)。

そもそも高級娼婦とはどのような存在だったのでしょうか。

公娼でない彼女らは、私娼と同じように個人で客へ春を売りましたが、最も大きな違いはやりとりされる金額と選択権です。

愛人を一人に絞る高級娼婦は珍しく、ほとんどが愛人を会員組織で共有し、都合の良い時間に商売をしました。
アパルトマンや自宅にやってくる大ブルジョワや外国人貴族を相手にし、もしその客が気に入らなければ断る権利があります。決して、自分から通りがかりの男に声をかけるようなことはしませんでした。

高級娼婦を買う金額はあまりにも高く、彼女らの贅沢ぶりはジャーナリズムの格好の話題でした。
とくに有名だった高級娼婦は、パイーヴァ、アンナ・デ・リオン、リアーヌ・ド・プージィ、エミリエンヌ・ダランソンです。

しかし高級娼婦とはいえ、娼婦は娼婦。彼女らの生まれは下層中流階級の庶民――職人や行商人、小さな商店の娘であり、出発は普通の娼婦です。
ほとんどは私娼のままで終わりますが、そこからどうやって、お金持ちを客にする高級娼婦へなるのか?

まず必要なのが読み書きや算術ができるだけの教養があることです。なぜなら、狙いをつけた男へラブレターを書く必要がありました。
出身が貧困層の庶民ではまず、読み書きができるだけの教育を受けていません。高級娼婦は農村ではなく都市部の出身であることが多い理由です。

マリー・デュプレシス


・例その1 『椿姫』のモデルになったマリー・デュプレシス

母親が死んだことがきっかけとなり、マリーは飲んだくれの父親に売られてしまいます。娘の美しさが金になると踏んだ父親は、マリーをブルジョワ老人のお妾さんにしました。
しばらくはマリーのお手当で生活していた父親でしたが、スキャンダルを起こして故郷を出ます。パリへ出た父は親戚の小金持ちへ娘を預けるものの、マリーはその預け先から疎まれてしまいお針子として生計と立てました。

お針子(グリゼット)は私娼の温床となりやすいことで知られていました。
貴婦人のドレスや手袋、帽子を縫うのですが、その豪華な生地や仕立てを見ているうちに、自分も欲しくなります。しかし、お針子の賃金では生活するのがやっと。

日曜日には街へ出て、野外ダンスや室内ダンスを楽しむのですが、お針子は盛り場にやってくる大学生と知り合い、恋人になります。あるいはブルジョワのお妾さんに。
マリーはレストランで知り合った店主に気に入られ、お妾さんになって裕福な生活をするようになります。
たいていのお針子はここで満足するものの、マリーは違いました。
――もっと、もっとあれが欲しい、これも欲しい。そして美しくなりたい!

さらに上を目指すマリーは、上流階級の金持ちが集う舞踏会へ行きたい、と愛人にせがみます。美しいマリーを見せびらかしたい愛人は、マリーを着飾らせて舞踏会へ参加しました。
そこでマリーはダンスを踊りつつ、新たなパトロン――貴族の男と知り合うきっかけをつかみます。そして、次の愛人となったのが、美貌のダンディと知られる貴族でした。

ダンディ貴族には教養があり、美しく賢いマリーを貴婦人として教育してやります。それだけ惚れた、とも言えます。
家庭教師をつけられたマリーは、読み書きはもちろん、音楽、読書、行儀作法、会話の特訓を受けます。こうして、マリーはただの私娼ではなく、高級娼婦として名を馳せるようになったのでした。

ラ・パイーヴァ


・例その2 ナポレオン三世の愛人、ラ・パイーヴァ

モスクワ出身のテレーズ(のちのラ・パイーヴァ)は16歳の時、フランス人の仕立て屋と結婚。一児の母になりますが、野心にまみれた22歳の彼女は1841年、パリに行きます。
しかしこれといった知り合いのないテレーズは、貧しい私娼に身をやつすしかありませんでした。

ある夜、無一文でシャンゼリゼのベンチに座っていると、ある男が声をかけてきます。のちに有名なピアニストになったハインリッヒ・ヘルツでした。
貧しいヘルツでしたが、高い知識と教養を身につけており、それをテレーズに惜しみなく教育します。それがテレーズの財産となり、つぎに社交界の花形であるスタンリー卿の愛人になりました。
文学や芸術といった文化の話題が豊富なテレーズは、高級娼婦として社交界で知られるようになります。

スタンリー卿と別れたあと、ポルトガル貴族のパイーヴァ卿が次のパトロンになります。純情なパイーヴァ卿はすっかりテレーズの虜になり、結婚を申し込むほど熱を上げました。
幸いなことに、1851年、夫の死亡を確認。こうしてテレーズはパイーヴァ公爵夫人――ラ・パイーヴァとなったのでした。

しかしラ・パイーヴァの贅沢三昧の生活に、パイーヴァ侯爵は根を上げてしまい、ポルトガルへ帰国してしまいます。
残されたラ・パイーヴァの次の愛人になろうと、社交界の紳士たちが競って値段を釣り上げます。そのなかのひとりに、かのナポレオン三世もいました。
莫大な富を得たラ・パイーヴァは、シャンゼリゼに念願の豪邸を建てており、現在でもパリの名所のひとつになっています。

リアーヌ・ド・プージィ


・例その3 『失われた時を求めて』のオデットのモデルになった、リアーヌ・ド・プージィ

16歳で結婚して息子が生まれるも、海軍士官の夫は非常に乱暴でした。耐えられなくなった、リアーヌはシャルル・ド・マクマオン侯爵の愛人になり、夫に見つかって射殺されかけます。
離縁を決め、パリへ行ったリアーヌは高級娼婦への道を歩き始めます。そのとき手ほどきを受けたのが、ヴァルテスという有名な高級娼婦で、ナポレオン三世の最後の愛人でもありました。

その当時、ツタンカーメン発掘のパトロンとして知られた、カーナヴォン卿の愛人になります。卿はリアーヌに教養と知識を与えます。
同時に変態紳士だった卿に、倒錯した情事を教え込まれ、とくに卿が好んだのがむち打ちです。リアーヌが悪女(ファム・ファタル)として名を馳せるきっかけになります。

その後、レズビアンの恋人がいたり、ルーマニアのワラキア公と結婚したり、息子の戦死で修道女になったりと、話題に事欠かない高級娼婦でした。

……例でわかるとおり、高級娼婦になるためには美貌と愛嬌だけでなく、上流階級と渡り合えるだけの知識と教養が必要でした。それらを教育してくれる紳士と出会えるか否かが、大きな人生の分かれ道といえます。

高級娼婦レベルになると、家政を切り盛りするメイドはもちろん、秘書をこなす小間使いの存在が欠かせません。
ゾラの小説『ナナ』に書かれているように、小間使いがいないと高級娼婦たちは生活がままなりませんでした。愛人同士を部屋でかち合わせないように、小間使いがマネジメントをしたのです。
そして豪快に散財する主人のために、小間使いは金銭管理を担いました。

が、高級娼婦たちは莫大なお金が入れば入るほど、湯水のように派手に浪費して、ジャーナリズムを騒がせます。
そんな悪女に魅せられ、ひたすら貢ぎ、破産する男たち。当時のパリ社交界では「粋な男」として名を馳せるほどの名誉でした。
それはある意味、かつて貧しかった高級娼婦の復讐ともいえます。


19世紀パリの娼婦1~メゾン・クローズとシャバネ、ワン・トゥー・トゥー

参考文献


パリ、娼婦の館 メゾン・クローズ (角川ソフィア文庫)
↑当記事で紹介した以外にも、たくさんの娼婦と客のエピソードが詰め込まれています。ブログに書けなかったような内容も盛りだくさん。


パリ、娼婦の街 シャン=ゼリゼ (角川ソフィア文庫)
↑紹介しきれなかったエピソードがいっぱい。日本からパリへ渡航した変態紳士エピソードもあります。いい仕事してますなーと、鹿島氏が褒めたほど(笑)

関連書籍

鼻下長紳士回顧録 上巻 (コルク)
↑メゾン・クローズを舞台にした安野モヨコの漫画。


ナナ (新潮文庫)
↑高級娼婦となったナナの豪快で破滅的な人生。フィクションですが、ゾラは丹念に取材をし、実在した高級娼婦(ナナのモデル)の生活をリアルに書いています。


居酒屋 (新潮文庫)
↑いかにして貧しい少女ナナは、高級娼婦への道を歩みだしたのかを書いた作品。