上海租界の歴史と暮らし

1928年上海バンド風景
1928年上海バンド風景
上海租界の始まり

18世紀なかばごろから、イギリスは清(中国)から茶葉を輸入していましたが、莫大な量の銀が流出し、赤字に悩まされていました。銀不足を解消するために、インド産のアヘンを清に輸出するのですが、清ではアヘンを禁止していました。イギリスは密貿易で莫大な利益を得ます。
銀の流出とアヘン中毒に危機感を覚えた清朝は、林則徐を欽差大臣に任命し、2万箱のアヘンを焼却しますが、イギリス商人が猛反発。1840年アヘン戦争が勃発します。
圧倒的な軍事力で勝利したイギリスは、5港(広州、厦門、福州、寧波、上海)の開港と香港島の割譲を求めました。
1845年、黄浦江西岸をイギリスは永久租借し、領事館を置きます。上海租界の始まりでした。租界は中国語で居留地を訳したものです。

1844年、イギリスだけでなく、フランスとアメリカも条約を結び、それぞれ領事館を置きます。イギリス領の北側、蘇州河を挟んだ地域でした。
こうして上海の黄浦江沿岸は、3国の租界と清朝の県城で区分されることになりました。
1864年、移住者の少ないアメリカ租界とイギリス租界が合併し、共同租界になります。
その後、租界は拡張していき、黄浦江のそばには商店やオフィスビルが林立し、郊外には住宅が建ちます。とくに西側のフランス租界は閑静な住宅街で、庭付きの邸宅が立ち並びました。
イギリスとフランス人たちは、生活スタイルを上海に持ち込み、ビルや住宅も母国と同じように建てます。当時のパリやロンドンに似た街並みは、東洋の港町を美しいヨーロッパ風に変えました。

1865年、2757人の外国人が居留し、中国人は14万人ほどだったのが、1930年には300万人を突破します。東京の山手線の内側より狭い上海租界は、ロンドン以上の過密都市でした。
租界の中国人たちと、イギリス人、フランス人は居住地域が区分けされ、中国人は北と東側の地価の安い土地に住みました。
イギリス、フランス人住む租界は、街路や上下水道等のインフラが整い、租界の外側の華界(中国租界)は治安が悪く、外国人が立ち入ることはありませんでした。3つの租界は、それぞれ独立した都市として発展します。

昭和14年頃の上海地図
上海租界に「イギリス」を作った商人たち

アヘン戦争で自由貿易を勝ち取ると、すぐさまイギリス商人は議会へ請願し、イギリス東インド会社の独占貿易権を廃止させました。
上海租界に商館、ホテル、住宅、店舗、ホテル、教会を建て、100人を超える外国人が居留していました。
黄浦江西岸に沿った街並みを、イギリス人たちは「バンド」と呼びます。植民地インドで埠頭や岸壁を意味する言葉で、貿易の拠点として船着き場と道路の整備をしました。
バンドは上海租界の玄関として年々、発展します。20世紀に入ると、摩天楼が出現しました。

中国にもイギリスにも帰属しない共同租界は自由都市となり、国家の介入を嫌いました。
住民のなかから参事を選挙で選び、7人の参事が市政を担います。参事になれるのは富裕層に限られ、仕事は無給でした。
当初はイギリス人6名、アメリカ人1名だったのが、ドイツ人が加わり9名に、第一次世界大戦後はドイツ人が消え、代わりに日本人が加わります。
参事会とその下の委員会で構成された行政組織は、工部局と呼ばれ、最盛期の1930年は7000人もの職員を要しました。

同じくフランス租界も「公董局」を作り参事を置くものの、あくまでも領事をトップに置き、共同租界の参事ほどの権限はありません。
貿易に遅れをとったフランス租界は、カトリック教会や学校、住宅が多く建てられ、共同租界のようなオフィス街は出現しませんでした。

19世紀の上海はアヘンの輸入が盛んで、阿片窟が多く作られます。1870年当時で1700件もありました。ホテルのルームサービスでも、普通にアヘンが出ました。
1908年にようやく阿片窟は廃止されるものの、闇での取引が盛んになるだけでした。

1920年 パブリック・ガーデン

初期の租界はイギリス商人たちが、母国での優雅なライフスタイルを上海に持ち込みます。
生糸や茶の商いのシーズンが終わると、紳士たちは競馬や乗馬、狩猟に精を出します。そして一番の楽しみは豪勢な晩餐会で、出てくる料理は西洋風でしたが、作っているのは中国人の使用人たちでした。
食後はバンドを散歩しながら夕涼みをします。パブリック・ガーデン(黄浦公園)の管楽器演奏会の曲が流れるなか、蒸し暑い上海の夜を過ごしました。

19世紀は男性ばかりの社会であり、乗馬のほか、クリケット、テニス、レガッタ、ヨットが盛んでした。彼らはイギリス同様、クラブを作り、会員が定期的に集っては情報交換をします。

1909年、上海クラブは大リニューアルされ、堂々としたギリシャ風の円柱が立つ立派な館に変貌しました。赴任で訪れたイギリス人が驚くほど厳粛で、長いカウンターには銀行や商社の支店長が座っていました。給仕をするのは、白い服の中国人たちです。
もちろん、本場同様、会員費は高額であり、女性は入会できませんでした。

1871年に電信、1880年代に入ると、電話、電気(街頭照明)、水道のインフラサービスが始まります。
1894年、日清戦争に破れた清は、列強国による植民地支配が増していきました。外国の資本が投入された上海は、さらに経済が発展します。
イギリス商人たちは紡績業に力を入れ、作った商品を本国へ売ります。そのころ中国茶は下火になり、以前ほど利益を見込めなくなったためでした。
同時に、上海で働く中国人が莫大に増え、多くが使用人や港労働者に従事します。そんな貧しい労働者を相手に商売する中国人も、また大勢いました。

第一次世界大戦後、ドイツが上海――中国から撤退し、イギリス人も多く従軍して戦死したため、代わりに入ってきたのが貧しいイギリス人と日本人でした。
イギリス同様、上海でも階級差が歴然とあり、1920年代の上流階級には、すでに母国では過ぎ去った優雅な暮らしがまだ残っていたのです。

繁栄のピークを迎えた時代のバンドには、新古典様式の香港上海銀行のビルが建ち、イギリス人たちは投資を続きます。永遠の繁栄を信じつつ。

租界の大部分を所有していたイギリス人たちでしたが、じょじょに反英運動が高まり、日本軍の第二次上海事変の勝利で、1940年ついにイギリスはアメリカとともに上海から撤退しました。

1930年代上海のトレンド

第一次世界大戦で富を得たアメリカは、さらに上海へ進出します。それまではイギリスが中心でしたが、大戦以降、貿易と投資を拡大し、上海の経済を発展させました。
バンドには摩天楼がいくつも建設され、世界中からあらゆる人々が集う国際都市になります。アメリカ進出の繁栄で上海の街は「東洋のニューヨーク」「移民の街」と呼ばれました。

●フランス・クラブ(花園飯店)……美しい庭園とプールがあり、あらゆる国の人々が集うダンスホールで有名なホテル。上海の街で一番人気の場所だったという。参照⇒オークラホテル上海

●南京路……共同租界の繁華街。東西を貫く古い大通りには、中国の地名がつけられた。他に北京路、九江路、漢口路、福州路、広東路等。衣料品店、宝飾店、食品店、レストラン、カフェ、デパートが並ぶ。

●チョコレート・ショップ(沙利文<サリバン>珈琲館)……ランチも提供した喫茶店。1912年にアメリカ人船員サリバンが開業した。オフィス勤めの外国人に大人気で、清潔な牛乳やアイスクリームが楽しめる「郷愁を誘う」アメリカの味。アメリカ留学をした宋美齢も常連だった。

パーク・ホテル 引用元

●パーク・ホテル(国際飯店)……当時、東洋一の高さを誇った高級ホテル。22階建てで下部は黒い花崗岩、中部はこげ茶色の化粧タイル、上部は階段状に狭まった塔のアール・デコ様式で、斬新なデザインだった。

サッスーン・ハウス:引用元

●サッスーン・ハウス……サッスーン財閥の巨大オフィス。ユダヤ系イギリス人のサッスーン家が、上海のアヘン販売で商会を立ち上げたのが始まり。他の商会とともに、香港上海銀行の設立に参加した。「不動産王」イヴことエリアス・ヴィクターは、最上階の自室から上海の富を眺めるのが好きだったという。5階~10階はキャセイ・ホテルとなっており、各国風の部屋が用意されていた。香港のペニンシュラ・ホテルに劣らない豪華さで有名。

アスター・ハウス:引用元

●アスター・ハウス(礼査飯店)……1858年にイギリス商人リチャーズが創業した、上海初の本格西洋ホテル。優雅なロビー、広いビリヤードルーム、「極東一おいしい」カクテルが有名で、チャップリンやアインシュタインが宿泊したことでも知られている。参照⇒ 歴史建築物(70)浦江飯店

先施百貨店:引用元

●上海4大デパート……1847年、南京路に小型百貨店が作られたのが、上海初のデパート(福利公司)。初めは外国人のために西洋食品や服飾、家具を販売していた。やがて世界各地のブランド品を輸入、販売する。イギリス初の百貨店「ホワトリー」のモデルになった。20世紀に入ると、中産階級向けのデパートとして、先施(シンシア)、永安(ウインオン)、新新(シンシン)、大新(ダーシン)の南京路4大デパートが出現した。先施デパートは中国で、初めて女性店員(デパートガール)を雇った。

グランドシアター:引用元

●映画館……1930年代末当時、上海には40ほど映画館があった。ロードショー館は最初にハリウッド映画が封切られ、富裕層や外国人が鑑賞する最高級映画館だった。グランドシアター(大光明大戯院)、ナンキンシアター(南京大戯院)、メトロポールシアター(大上海大戯院)が有名。国産映画や封切り後の外国映画が上映される二番館は、中心部から離れた虹口にあり、最も安い三番館は学生と店員の観客が多かった。

●ダンスとジャズ……1920年代、アメリカのジャズが世界中を席巻し、1927年、永安デパートがダンスホール(大東舞庁)を開くと、上海でもたちまち一世を風靡。外国人以上に中国人たちはダンスに夢中なり、高級店では専属の女性ダンサーを、男性客が買ったチケットでパートナーにした。人気ダンサー(紅舞女)へお金持ちの男性客がこぞってチケットを何枚も渡し、パートナーの申し込みをしたという。

●聖ジョンズ大学……アメリカ人の宣教師たちは、中国の近代化に力を注いだ。そのひとつが1897年に設立された、聖ジョンズ大学(聖約翰大学)。「中国のハーバード大学」と呼ばれ、卒業するとアメリカの大学卒業と同等の資格を得ることができたほどの名門。1905年に科挙が廃止されたことで、行き場を失った受験生たちの受け皿としても機能した。卒業生の多くは、世界の政財界で多大な影響力を発揮した。特に有名なのが宋子文。

ロシア人とユダヤ人の亡命

ロシア革命で中国東北部(満州)に亡命していた白系ロシア人たちでしたが、1921年に白軍が赤軍(ソ連軍)に負けると、再び、ロシア人たちは旅立ちます。オンボロの船に乗って命からがらたどり着いたのが、上海でした。

かつての貴族や富裕層だったロシア人たちは、芸術を上海に花開かせます。クラシック演奏、ロシアンオペラとバレエ、舞踊の公演が盛んになり、文化に乏しかった街は「音楽の都」と呼ばれるほどになりました。
フランス語の教養があった上流階級のロシア人たちは、フランス租界の高級マンションで暮らすようになります。

しかし、成功したロシア人は少なく、ほとんどが貧しい生活を強いられます。
ダンサーや演奏家、歌手ですら、会場使用料を捻出するために、本業以外に労働をしていました。
中国語も英語もできない下層階級には肉体労働しかなく、それすらも中国人と奪い合うさまでした。さらに悲惨だったのが女性たちで、春を売るしか生きる道はありませんでした。


↑映画『上海の伯爵夫人』落ちぶれた亡命ロシア貴族令夫人のロマンス物語

1938年の反ユダヤ人暴動(水晶の夜)で、危機感を覚えたドイツ、オーストリアのユダヤ人たちが、いっせいに上海租界に亡命します。当時、ゆいいつビザなしで難民を受け入れる場所が、上海租界だったからです。

数万人のユダヤ亡命者たちを受け入れるために、国際欧州難民救済委員会が港で出迎えます。委員会は上海のユダヤ系財閥が支援をし、ロシア系ユダヤ人を救済するために設立されたのが始まりでした。
支援者の一人、エリアス・ヴィクター・サッスーンは、難民たちのためにアパートの一つを宿舎にし、無金利で貸金しました。

無事、宝石や金を持ち出せた難民はその後、上海で優雅に暮らせたのですが、財産のない貧しい人々は虹口の住宅街で慎ましく暮らします。
日本人が多く住んでいた租界では、ユダヤ人が経営するパン屋やソーセージ店を歓迎していましたが、太平洋戦争に入るとユダヤ人たちは収容所へ入れてしまいます。ドイツのように迫害されるかもしれない、とユダヤ人たちは怯えたといいます。

太平洋戦争が終結し日本人が上海を去ると、アメリカ軍が戻ってきました。
ユダヤ人たちはアメリカへ渡り、中国までも共産国になってしまったことで、残っていたロシア人たちも、アメリカやオーストラリアへ渡りました。

虹口:引用元
上海租界の日本人

1900年ごろから増え始めた上海租界の日本人は、第一次世界大戦で戦勝国になったことでさらに増え、1927年には26000人を超えたことで、上海の外国人人工の半数を占めるまでになります。
1924年にはバンドに横浜正金銀行が進出、27年に台湾銀行も加わります。その他、三井銀行、三菱銀行、住友銀行、日清汽船、日本綿花等の大銀行や大企業も高級オフィス街に支店を開設します。

イギリスやアメリカ、フランスと肩を並べる日本企業でしたが、大半の日本人は貧しいままの生活でした。
階層化された日本人は赴任エリートの「会社派」と、一旗揚げようと移住した「土着派」と、その中間層のサラリーマンに分かれ、わずか3%の「会社派」に対し、「土着派」は60%ほど。

エリートたちは共同租界のオフィス街近くに暮らし、さらに裕福な者はフランス租界に住みました。いっぽう、サラリーマンたちは虹口(ホンキュウ)に固まって暮らします。
虹口は日本人街になり、日本語だけで生活できるほどで、ここが外国だと忘れるほどでした。
蘇州河で区切られた川向うのバンドは、庶民の日本人たちにとっては遠い異国でした。上流社会の共同租界に足を踏み入れる勇気が持てず、憧れの地だったのです。

四川路の商店街:引用元

もともと虹口は中国人の居住区だったのですが、第一次上海事変で勝利した日本軍が占拠し、逃げ出した中国人のあとに日本人が移住するようになりました。

当時、長崎から上海へはわずか26時間あまりで渡航できました。日本郵船の客船は、1等客席45円、三等客席18円です。地理的にかなり近いことで、イギリスやアメリカ、フランス人たちよりも移住した日本人は多かったのです。
日本人たちは紀行文や体験談を読み、西洋の文化とその猥雑で怪しい魅力にとりつかれました。「魔都」とタイトルがついた読み物に影響され、ロマンを感じます。
その後、上海の代名詞として魔都が使われるようになりました。

呉淞路の虹口マーケットでは野菜、長崎の魚、ロシア人が焼いたパンなど、なんでも売られ、近くには宿泊と演芸場がある社交場、日本人倶楽部がありました。
日本商店が集まる文路には、旅館、薬局、医院、書店、浴場、土産ものが売られ、1874年に設立された東本願寺別院があり、そこは日本人学校でもありました。

北四川路:引用元

第二次上海事変後、北四川路が発展し、百貨店、銀行、ホテル、映画館が建ち並び、夜にはカフェとダンスホールのネオンが光り輝きました。
さらに工場を改装した歌舞伎座があり、1000人を収容。ビリヤード、ダンスホール、カフェを併設した娯楽施設でした。

その隣には有名なダンスホール「ブルーバード」があり、日本人たちは「BB」と呼んでました。日本の商社マンが接待で使う店で、全て日本人と日本語の店でしたが。

華やかなバンドや南京路と異なり、日本人区域の虹口は実際、「銀座よりも地味」な街でした。上海というよりも、日本の一都市にすぎなかった、とかつて暮らした少女はのちに書き記しています。
それだけ摩天楼がそびえる共同租界と、日本人居住地は別世界でした。
参照:阪急交通社海外現地情報ブログ(当時の面影が残る街並み。魯迅ゆかりの地でもありました。)

太平洋戦争でイギリス、アメリカ、フランスが上海から撤退し、日本軍が占拠と統制したことで、上海租界は自由を奪われます。
物資は不足し、インフレーションで高騰。優雅な暮らしをしていた外国人たちも生活が苦しくなり、いっぽうでは中国人たちの排日活動を警戒する必要がありました。

ハリウッド映画は上映されず、代わりに作られたのは中国人が制作した映画です。そのとき有名になった女優が李香蘭(山口淑子)でした。彼女は中国人と偽り、出演します。

日本軍は欧米文化を内地同様、上海でも排除しようとしたのですが、かつての共同租界ではロシア人が洋菓子や西洋レストランを営み、洋装店では絹のストッキングが売られたりと、文化を消し去ることは無理でした。
上海の街から西洋が失われることはなかったのです。

そして終戦後、日本人たちは上海を去りました。
1949年4月、共産党と人民解放軍により、上海は「解放」され、ついに自由都市上海は失われるのでした。


参考文献

上海 – 多国籍都市の百年 (中公新書)

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