イヴァン雷帝4~息子の死と崩御

イヴァン4世

9.大火とポーランド王選出

カザンとアストラハンを奪回しようと、タタール人は幾度もロシアへ侵攻しました。
1571年、タタールがモスクワの家屋に放火します。たちまち大火となり、首都は黒焦げになります。逃げまどう住人たち。略奪するタタール人でしたが、火にのまれそうになり、逃げ出します。
タタール人はそのまま帰らず、避難していた大勢の人々を捕虜にして連れ去りました。奴隷にして売るためでした。
火事から逃れようと川で溺れ死んだ者や、黒焦げの死体が数え切れないほど散乱していました。

そのなかでゆいいつ無事だったのが、高い城壁に囲まれた宮廷――クレムリンだけでした。逃げる人々が避難しようとしましたが、門は固くとざされたままで、城門を叩きながら大勢が焼死しました。

モスクワの大火時、イヴァンは遠征しており、無事でした。しかしそのままモスクワに帰らず、焼けた町がようやく再建したころ、クレムリンにもどります。

二度目の妻が死んだのち、イヴァンは三番目の妻を探します。若い娘と結婚したものの、わずか10日で病死。
その結婚は無効だとして、さらにべつの花嫁を見つけ、すぐに結婚します。東方正教会は結婚は三度までと決まっていましたが、横暴な君主を留める者はいませんでした。

1572年、ポーランド王ジグムント=アウグストが崩御します。後継ぎの息子がなかったため、玉座を巡って各国の王たちが立候補することになりました。
ポーランドは議会と国会が尊重され、王の選出も議員たちの投票によって決まります。
ポーランド側はイヴァンではなく、息子のフョードルを立候補させてみては、と進言するも、みずからが頂点に立ちたいイヴァンは聞き入れませんでした。
ほかに立候補したのは、神聖ローマ帝国皇子マクシミリアン、スウェーデンのヨハン三世とその息子、フランス国王の弟アンジュー公。

そのころ、イヴァンは悪名高いオプリーチニナを廃止します。外国からの悪評がきっかけでした。
彼のたったひと言で国民は安堵し、皇帝の親衛隊たちは失墜します。絶望を味わう彼らを見て、イヴァンは愉快なあまり笑ったといいます。

オプリーチニクを解散したものの、イヴァンの汚名が返上されることはなく、ポーランド王には選出されませんでした。

子供ができなかった四度目の妻を修道院に送り、五度目の妻はすぐに死に、イヴァンは六度目の妻と結婚します。しかし六度目の妻に不倫され、七度目は処女でなかったと殺してしまいました。

暴飲暴食がたたって肥満したイヴァンは、昔の面影はなく、ただの醜い老人でした。それでも皇帝は絶対であり、どんな暴君だろうとロシアの人々は辛抱強く仕えます。
そんな国民性を外国の人々は不可解に感じていました。

あるとき、イヴァンは臣下のひとりである、マヌケなセミョーンを身代わりの皇帝にしました。一年ものあいだ、偽物皇帝と臣下たちのやりとりを、イヴァンは笑って見物します。
幸運なことに、セミョーンはイヴァンに命を奪われず、無事に替え玉の勤めを終えます。これも皇帝の気まぐれから生まれたできごとでした。

ポーランド国王に選出されたアンジュー公でしたが、もともと乗り気でなく、兄のシャルル九世が崩御すると、フランスに帰国しアンリ三世として戴冠します。二度と、ポーランドに戻る気はなく、新たな国王の座についたのが、ハンガリーのステファン・バートリーでした。

バートリーは軍事に長け、豪胆で正義と権力を愛し、信心深い人物であり、さっそく奪われたリヴォニアを取りもどすべく、ロシアへ宣戦布告します。
戦いはポーランド軍が有利に進み、最終的な和平交渉でロシアはリヴォニアを失いました。1581年のことでした。
その悲しみを癒やすため、イヴァンは8人目の妻と結婚します。

10.息子の死と崩御

1581年、皇太子イヴァンは27歳の屈強な青年に成長していました。頭の回転が早く教養があった反面、残忍な性格も父譲りで、父子はたびたび拷問の現場に立ち会っていました。
そんな息子をイヴァンは溺愛していたのですが、ポーランドが侵攻したさい、指揮官として皇太子を同行させては、という大貴族の提案に反発します。

そういえば、息子も同じことを言っていた。皇帝であるおのれを差し置いて。さては、玉座を狙っているな。

イヴァンはそう思いこむものの、その場はなんとかこらえました。
それからほどなく、妊娠していた息子の妻が、薄着で宮廷内を歩いていたのを咎めて殴り、流産させてしまいます。
それに息子のイヴァンが激昂。父に向かって怒りをぶつけます。
「反逆者め!」。イヴァンはそう叫びながら、息子を鉄鈎の棍棒で殴りつけました。こめかみを割った息子は倒れ、そのまま大量の血を流しながら、四日後に死んでしまいます。
われに返るもすでに遅く、イヴァンは最愛の息子を殺してしまったのでした。

葬儀後もイヴァンの狂乱は続き、あてどもなく息子を探しながら宮廷をさまよいます。
最大の罪を犯した自分には、玉座に座る資格はない。
そう側近たちに告げ、新たな皇帝を探すよう命じたものの、だれひとり同意しません。なぜなら、イヴァンが病魔に倒れたときのことが、恐怖としてよみがえったからです。

喪に服す日々のなか、スウェーデンとも休戦調停を結び、領土の一部を失います。息子を失った今、意気消沈した皇帝に戦う気力は残されていませんでした。
そんななか、東部のタタール人の部隊が、つぎつぎと戦勝し、領土を拡大していきます。イヴァンが知らないうちに、シベリアがロシアの領土になりました。

崩御

シベリアを得たことで、活力を取りもどしたイヴァンは、またもイギリスの王族との結婚を目論みます。
さすがにエリザベス女王は年齢的に難しく、その親族である姪を花嫁にしたいと、イギリスへ使者をおくりました。

エリザベス女王は承諾しません。ロシア皇帝の悪評は広まっており、息子を殺し、8回も結婚した老皇帝に姪を嫁がせるなど、とんでもない、と。
だから前回同様、縁談についてはいっさい触れないまま、友好国としておつきあいしましょう、という親書をもたせます。
姪たちは、美人でないから、皇帝のお眼鏡には叶いませんと、使者に言い、ドドメに「つい先日、8番目の皇妃が皇子を産んだのでは?」と指摘されてしまえば、縁談を進めるのは無理というもの。

不思議なことに、息子殺しの悪評が、縁談を拒絶されたのだという思いに、イヴァンが至ることはなかったといいます。

1584年、イギリスの使者がロシアにやってくるなり、イヴァンは「花嫁はまだか?」と催促するも、「もっときれいな令嬢がいるから、待ってください」と、かわされてしまいます。
そして隣国であるポーランド、スウェーデン、デンマークと友好になれば、ロシアと同盟を結んでもいい、という女王の親書に、イヴァンは激怒。使者はほとぼりを覚めるのを待ち、交渉。その繰り返し。

二ヶ月間、進展がないまま、使者はイギリスに帰国することになり、最後の会談を行う予定でしたが、取り消されました。
皇帝が病気で、謁見が叶わなかったためです。

崩御する一年前から、イヴァンは人生を振り返り、今まで殺害した人々の名前を文書にしました。決して後悔からではなく、死者の冥福を祈るために。
リストのひとつは3148名、もうひとつは3750名が挙げられていました。

1584年3月18日、体調が良くなったと感じたイヴァンは、側近たちとチェスをしているさなか、突然、息を引き取りました。
皇帝の葬儀にはおびただしい数の人々が、訪れたといいます。

その後、息子フョードルが即位するも、気弱で優柔不断なあまり、義兄に政治を頼ります。やがて、ロシアを支配したのはフョードルではなく、その摂政である義兄ボリス・ゴドゥノフでした。1598年に全国会議にてツァーリに選出されます。

残虐な暴君だったイヴァン四世ですが、死後、口承人たちは彼を賛美します。古文書にはしっかりと彼の罪の足跡を残しつつ。

ミハイル・ロマノフ帝

余談……
ツァーリとして即位したボリスでしたが、リューリク朝の血筋でないこと、皇弟である義弟ドミトリーの殺害疑惑をかけられたために、貴族だけでなく民衆からも全く人気のない皇帝でした。運悪く、在位中に飢饉と疫病がロシアを襲ってしまい、暴動がたびたび起こります。
1604年に謎の偽ドミトリーが出現。さらに政治は混乱してしまい、1605年に崩御します。ボリスの16歳の長男がフョードル2世として即位するも2ヶ月後に殺害され、短命に終わりました。

1606年、リューリク朝の血筋に繋がるシュイスキー家の出であるヴァシーリー4世が即位するも、1610年に退位します。有能な従弟に嫉妬し、暗殺した疑惑を拭いきれなかったためでした。

1613年、全国会議でミハイル・ロマノフがツァーリに選出されます。16歳のミハイルの大叔母はイヴァン雷帝の最初の皇后アナスタシアであり、リューリク朝の姻戚であったためでした。それは、ロマノフ王朝の始まりでもありました。


参考文献

イヴァン雷帝 (中公文庫)

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1.若き皇帝のロシア改革

2.領土の拡大と大公妃の死

3.疑心と恐怖政治

4.息子の死と崩御