フランス革命の死刑執行人2~人道的処刑道具ギロチンの登場

ベルサイユからパリへ向かう国王一家
ベルサイユからパリへ向かう国王一家

四代目シャルル=アンリ・サンソンの苦悩

先述したように、処刑人の家系は学校で勉強することはできませんでした。
だからシャルル=アンリは名前を変えて、パリから遠く離れたルーアンの寄宿学校に行きます。しかし一年がすぎたころ、ついに処刑人の息子であることがバレてしまい、仲良くしていた友だちからいじめられます。
生徒の父母からも反対され、仕方なくシャルル=アンリは退学しました。
パリに帰っても学校へいけないため、つぎは家庭教師を探し、ようやく見つけたのは病に倒れた老神父グリセルでした。そのグリセルもシャルル=アンリが14歳のときに亡くなります。

15歳のとき、父が脳卒中で倒れ、シャルル=アンリが代理として死刑執行人になりました。そして16歳で初めて死刑台に立ちます。そのときの罪人は若く美しい女性だったのもあり、動揺のあまり、絞首刑がなかなか成功せず、ようやく6度目で処刑を果たしました。
処刑人の大変さを物語るエピソードです。

ちなみに、当時のフランスの高貴な死刑囚は剣による斬首で、身分のない庶民は絞首刑が普通でした。
もちろん、刑の執行が困難なのは、剣による斬首です。罪人が苦しまないように斬首をするのは至難の業で、サンソン家のように手慣れた処刑人でないと、なかなか成功しませんでした。中途半端に切りつけてしまうと、なかなか死ねない罪人はひどく苦しむのです。

それでも失敗することがあり、シャルル=アンリが処刑した、ラリー・トランダル将軍の斬首がそれです。父のジャン=バチスト・サンソンの友人である老将軍は、髪の毛を切っていなかったため、刃が滑って顎に当たりました。剣を息子から奪った病身の父親が、首を切ったのですが、それだけ剣による斬首は難しい処刑方法でした。
しかし苦しみがもっとも少ないと信じられていたため、貴族の特権として斬首の処刑は行われました。

そしてもっとも残酷な処刑方法は、八つ裂きの刑でした。
シャルル=アンリが18歳のとき、ルイ十五世暗殺未遂事件が起こります。犯人のダミアンはナイフを王に突きつけたのですが、王の分厚いコートと上着が刃を食い止め、かすり傷で終わりました。

逮捕されたダミアンは、拷問を受け、その後、グレーヴ広場で処刑されます。王を暗殺未遂したため、もっとも重い八つ裂きの刑が執行されました。
八つ裂きの刑は、まず傷口に沸騰した油、燃える松脂、溶けた硫黄と鉛を注ぎ込み、その後、十字架に縛り付けられて、両手足をそれぞれ馬車で引きちぎられるというものです。

死刑執行はまだ若いシャルル=アンリの代理として、叔父のガブリエル・サンソンが指揮しました。
しかしあまりにも残酷な八つ裂きの刑に、叔父は二度と処刑執行ができなくなり、精神を病んで引退しました。それほど恐ろしく残虐な刑だったのです。

八つ裂きほどでないにしろ、車裂きの刑もかなり残酷でした。親殺し等の重い刑罰です。
まず鉄の棒で身体のあちらこちらを打ち砕き、水平に据えた馬車の車輪の上で死ぬまで放置する方法で、罪人は死ぬまで長時間、ひどく苦しみました。

シャルル=アンリはそのような残酷な処刑を執行するかたわら、常に死刑の廃止を強く望んでいました。
その一方、公開処刑は大衆の娯楽にもなっていて、当日は広場や周囲の建物がお祭り騒ぎだったといいます。サンソン家を忌み嫌いつつ、人々は処刑を一種の気晴らしとして楽しんでいました。

国民は平等
僧侶、貴族、庶民と三段階あった身分は革命によって廃止された

死刑執行人として苦悩するシャルル=アンリでしたが、私生活は男ぶりを発揮して、結婚するまでにたくさんのアバンチュールがありました。
結婚したあとも、男ぶりを見初められ、狩猟のあと立ち寄ったレストランで、ある侯爵夫人に誘われ会食します。会話ははずんだのですが、彼が店を出た後、たまたまレストランにいたべつの貴族が、侯爵夫人の知り合いだったことで、シャルル=アンリが処刑人だと知らされます。

侮辱された、と感じた侯爵夫人は、激しく怒り、シャルル=アンリを訴えます。高等法院での裁判に出頭したシャルル=アンリでしたが、弁護士はだれも引き受けてくれませんでした。
仕方なく自分で自分を弁護したシャルル=アンリ。この機会を利用して、彼は堂々と処刑人としての思いを訴えました。

「もし犯罪人を処刑する者がいなくなれば、王国の秩序は保たれない。私の剣は王から託されたものであり、正義の行為である。
人を殺すのだからと非難するのならば、罪のない人々をたくさん殺す軍人はなぜ非難されないのか?
 軍人を貶めると言いたいのではない。王国の平和を保つために振るう剣を忌み嫌うのは、不名誉なことであると、私は訴えているのだ。
決闘だって私怨で相手を殺す。しかし非難する者はいない。
なのに処刑人だけはちがう。社会のために有用な職務を果たす者をなぜ、忌み嫌うのだろうか。私の家系は代々、この職業を受け継ぐ名誉を担っているのだから、貴族の称号と同じだけの価値があるはず」
上記は超要約になりますが、裁判でシャルル=アンリが弁護したものです。

シャルル=アンリは見事、法廷で侯爵夫人に勝ちました。

革命とギロチン

1789年7月14日。バスチーユ監獄の陥落により、フランス革命が勃発しました。ルイ十六世の国王一家はパリのチュイルリー宮殿に移り住みます。自由はほぼなく、なかば軟禁状態でした。
当時のフランスでは身分が三つに分かれており、第一が僧侶、第二が貴族、第三が身分のない庶民でした。革命はその身分を失くし、『人権宣言』によって自由と平等の社会へ生まれ変わります。立憲君主による国会が始まり、職業や宗教によって市民権を与えるか否かの論議が始まりました。

死刑執行人も対象になり、シャルル=アンリはサンソン家を代表して、国会に提出しましたが、はっきりとした結論は出ませんでした。

身分によって異なる処刑方法ですが、「法の下の平等」と人道主義により、同じ種類の犯罪は同じ刑罰で処罰することが、国会で成立します。つまり、身分を問わず、斬首による処刑に決まったのです。
一瞬で死ねる斬首は、もっとも人道的な処刑方法だと思われていました。

しかし、剣による斬首は難しく、革命によってたくさんの人々を処刑しなくてはなりません。おまけに死を覚悟した貴族ならともかく、庶民だと暴れて斬首など無理です。
サンソン家の人間だけではとても足りず、剣を買うのにもお金がかかります。だから、効率的に苦しまないよう、斬首処刑できる機械を考案することになりました。
それがギロチンです。

ギロチンは医師であるギヨタンが考案し、ルイ博士が研究と製作、楽器製造業者のシュミットへ発注しました。
当初はルイ博士の名前から「ルイゼット」「ルイゾン」と呼ばれましたが、最終的には考案者たるギヨタン医師にちなんで「ギロチン」(フランス後ではギロチーヌ)になったと言われます。


ギロチンとルイ十六世について、あるエピソードがあります。
あるとき、シャルル=アンリ、ギヨタン、がルイ博士とともに執務室で、ギロチンの図面を確認していたとき、お忍びで王が入ってきました。
三者三様に「完璧だ」と判断していたのですが、王が図面を見るなり、問題点を指摘します。
「この反円月形(凹型)の鉄の刃だと、すべての首にぴったりと当てはまらず、首を落とし切れないのではないでしょうか」と言い、半円月形の上に一本の斜め直線を引きます。

王は幼い時から錠前を集めるのが趣味で、それを分解て研究し、自分でも作成するほどの腕前でした。だから、ギロチンの図面の弱点をすぐさま見抜いたのです。
しかし、そのギロチンによって、自分自身までも処刑されるのだとは思ってもみなかったはずです。

何度かの実験ののち、ギロチンは斜め刃に決まりました。
こうして、人道主義から始まったはずのギロチン機械による斬首は、革命によって数え切れないほどの人々を処刑することになります。
革命当初、死刑廃止派だった国会議員のなかに、ロビスピエールがいたのも皮肉な話です。

ロビスピエールの処刑
ロビスピエールの処刑


1.サンソン家と死刑執行人

2.シャルル=アンリの苦悩とギロチンの誕生

3.フランス革命と国王の処刑

※参考書籍

死刑執行人サンソン――国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)