世界一周を競ったふたりの女性記者4

4.ゴールとその後のふたり


勝者、ネリー・ブライ

フィラデルフィアに列車が到着するなり、駅で待っていた群衆にネリーは大歓迎されます。そのなかに母親がいました。親子はしっかり抱き合い、感動のシーンを迎えます。
ニュージャージに向けて出発した列車内では、ワールドの編集局長を始め、親族、市長の祝電、保険会社、新聞社、鉄道会社……たくさんの人々に祝辞されます。

ジャージシティの駅には、一万五千人もの群衆がいて、誰もがネリーをひと目見ようと押し寄せます。まるで黒い高波のよう、だと書かれています。
ネリーがホームに降り、ワールド社がストップウォッチを止めると、旅は終わりました。72日と6時間11分14秒が世界一周最短記録として記されます。

ヴェルヌの書いた架空のイギリス人フォッグの記録を破ったことで、さらに群衆は興奮し、暴徒化寸前までいきます。「ネリー・ブライ、万歳」の声援とともに。
市長の祝辞が終わり、馬車に乗ってフェリーに向かい始めると、どっと群衆に取り囲まれ、身動きができないほどでした。
混乱のなか、なんとかニューヨークのワールド社に戻ったネリーの姿に、ブロードウェイは大混雑します。人が押し寄せ、馬車が通る大通りにも群衆があふれるほどでした。

レースに勝利したネリーは、一躍有名人になります。旅は劇や歌になり、ネリー・ブライの名前が入った広告が多数作られ、一番の人気は旅を再現した、ボードゲームでした。
あまりにも有名になりすぎ、帰国後しばらくネリーは仕事ができなかったほどです。何をしても注目され、混乱を引き起こしました。

旅の講演を依頼されたネリーは、アメリカ中を旅します。始めは大盛況だったのですが、やがてマンネリ化。だんだんと空席が目立つようになり、大衆紙はあることないことを書き立てます。
ネリーは講演をしながら、再び記者の仕事に戻ると決めたものの、突然、訴訟問題に巻き込まれます。旅をする前、潜入取材をしていたネリーを証人として、ワールド社が呼び戻そうとしました。

しかし公演中だったこともあり、ネリーは拒否。そして旅を終えてからというもの、あれだけの活躍をしたのに、新聞社は何も報酬を出さなかった、と不信感を露わにします。
これにピュリツァー社長が激怒。ネリーはワールド社を辞め、フリーの記者になろうとします。

しかしあまりにも有名になりすぎたネリーには、記者の仕事はできませんでした。どこへ行っても、注目され、目立つからです。
そのころ、執筆した旅行記を出し、ベストセラーになるも、ネリーは大怪我をしてしまい、ベッドから出ることができなくなりました。
おまけに得意なルポタージュができず、フィクション小説の依頼。創作が苦手なネリーは、まったく筆が進みません。
他社から依頼された仕事もままにならず、失意と憂うつに悩まされます。田舎に家を買い、母親とひっそりと暮らすしかありませんでした。

ネリーが世界一周旅行を終えて、わずか一年と一ヶ月あまりのできごとでした。


敗者、エリザベス・ビズランド

大西洋を横断し、ニューヨークの港を降り立ったエリザベスの歓迎は静かでした。わずか数百人の出迎え。姉と抱き合い、ネリーに負けたのだと知らされます。
記録は76日19時間30分。もし、フランスで高速船に乗り換えることができたら、記録はネリーより早い、71日でした。

春、エリザベスはコロンボで知り合った令夫人の屋敷で過ごすため、イギリスへ出発します。一年間滞在したことで、エリザベスは大衆の熱狂から逃れます。
令夫人を通して上流階級の社交界に出入りし、新聞にも書かれますが、肝心のエリザベスは「退屈でつまらなかった」と、書いてます。


その後のエリザベス

結婚したエリザベスは二十年ほど、穏やかな生活をします。新聞や雑誌にコラムを書き、本を数冊出版し、家事をこなします。
しかし夫チャールズが精神病に罹り、生活が一転。療養を兼ねて再び、東洋へ旅行をします。昔と変わりつつある光景と人々を残念に思いつつ、日本に長期滞在しました。

夫の病状は良くならず、イギリス南部へ移住するも、第一次世界大戦が勃発。大勢の負傷兵を手当するエリザベスは、悲しみに沈みます。
イギリスにいても心休まらず、エリザベスとチャールズはアメリカのワシントンに帰国。看病空しく、療養所に入れられた夫はついに亡くなります。

夫の死を悼みながら、エリザベスは余生をすごしました。郊外の小さな一軒家で生活をしながら、執筆活動を再開します。亡くなる67歳までそれは続きました。


その後のネリー

27歳のとき、記者に復帰し取材をするものの、表舞台に立つことはありませんでした。ネリーが世界一周旅行を達成したことで、新聞社はこぞって女性記者を雇うようになり、彼女たちの記事が注目されていたのです。

そんな折、ネリーは列車でシカゴへ移動中、ある紳士と出会い、電撃結婚します。その相手は70歳。鉄鋼会社の社長でした。明らかな玉の輿狙いの結婚に、世間は非難するのですが、ネリーは何もコメントしていません。
それでも幼いころから、裕福な紳士と結婚したいという夢が叶ったことには違いありませんでした。

しかしまたもや、ネリー・ブライの高名が彼女を窮地に陥らせます。経営に興味がなかったネリーは、一切の経理を部下に任せていたのですが、彼らはネリー・ブライの名を使って、会社の金を使い込みました。
ネリーが気がついた時はすでに手遅れ、破産するしかありませんでした。

裁判から逃れるため、ネリーはオーストリアへ5年ほど移住します。
そして帰国するなり、今度は母親と兄に訴えられ、勝訴するものの、すでに鉄鋼会社は倒産していました。
兄が母をたきつけ、ネリーが友人に預けた株を取り戻そうとしたのです。

ニューヨークに戻ったものの、母と過ごすことができず、無一文になったネリーは記者の仕事を再開します。
時代は進み、思うように活躍できなかったものの、イヴニング・ジャーナルの記事は評判になります。おもに貧しい人々を取材し、苦境と貧困問題を扱いました。
ホテルに住み、報酬や寄付を使って、ネリーは貧しい人々を救おうとします。
食べ物や衣類を与え、捨て子の里親を探す活動をしました。

慈善活動をこなす日々でしたが、若い時の無理がたたり、肺炎にかかったネリーは急死します。57歳でした。


参考文献

ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む―4万5千キロを競ったふたりの女性記者
↑ネリーとエリザベスの旅の描写、当時の女性記者の境遇、19世紀末のアメリカ社会、がたっぷりと書かれています。


1.ふたりの女性記者

2.ネリー・ブライの旅

3.エリザベス・ビズランドの旅

4.ゴールとその後のふたり